第4話 曇り
朝、数学教師の瀬ノ原に声をかけられた。厳しいで有名な先生だった。担任ではなかったが、授業を受けたことのある先生だ。
「お前、どこ行くんだ。授業始まるぞ!」
怒鳴るように言われた。屋上に行く途中だった。
無視してそのまま階段を登る。
瀬ノ原が「おい!」と声を荒げたが、拳を握りしめながら階段を駆け上がった。
私の事情も知らないくせに。
大人は卑怯だ。私がいじめを受けていると、わかっているのに、目を逸らす。いじめられているとわかっているのに何も言わない担任の顔を思い出す。雑巾を頭にふっかけられた時。担任は確実に私から目を逸らした。
大人は都合の悪いことは、自分に関係ないことだと断ち切る。それがどれだけ私を苦しめたか。
同級生にいじめられ、頼みの綱だった担任からも見放された。
屋上のドアノブをかちゃりと開ける。
ぶわっと朝の光が差し込む。
「おはようございます。先輩」
「おう、春坂」
先輩は右手を挙げた。
「速いですね」
「今日は速く目が覚めたからな」
でも、今の私には居場所がある。
母には心配かけられないし。
この屋上が私を匿ってくれる居場所だった。
日差しがだんだん強くなってきた。
昼になった。鞄からおにぎりと弁当を出す。
おにぎりはお母さんが握ってくれたものだ。ピーマンとツナが入っている。
おにぎりを一口食べる。
ピーマンの少しの苦さをツナが打ち消し、ピーマンが嫌いな私でも食べられる。
心の中が満ちていくのがわかる。
横を見ると先輩がいつものコンビニ飯を食べていた。
コンビニのおにぎりしか先輩は持ってこない。
先輩の家庭状況は私より悪いんだ、と思う。
私は、おにぎりと、おかずがたくさん入った弁当がある。
真顔で楽しくなさそうに食べる先輩を見て少し気の毒になる。
「毎日コンビニ飯でお腹空かないんですか?」
「仕方ない」
先輩は小さくそう言って、おにぎりをバク、バクと完食した。
そして、ゴミをやっぱり屋上から落とした。
ポツンと小さく音がする。
私は名案を思いついた。
「あの…私の家から、おにぎりとか作ってきましょうか?お母さんに頼んだら、ちょっとくらいいいと思いますよ!先輩もそしたらもっと食べれるし!」
私は本心を言った。普通に、高校生ならどう考えても足りない量だ。
「やめろ!」
先輩は、こっちを睨みつけて言った。
「お前も俺と同じ母子家庭なんだろ。経済的に大変なのはどっちもだ。なのに俺の分までどうして養おうとするんだ!母親の大変さを分かってないんじゃないのか」
頭を殴られたような衝撃だった。
自分の言ったことを反芻する。
「………」
先輩の怒った顔を初めて見た。
その通りだった。
私はお母さんが夜遅くまで働いて私を養うために得た金を、他の人にあげようとしたのだ。
お母さんの辛さもわからないのに。
失礼だ。
無神経だ。
「言いすぎた、ごめん」
つっけんどんな言い方だったが、先輩の本心だと分かった。
私は、唇をぎゅっと噛み、先輩の顔を見ないようにした。
視界を屋上からの景色に向ける。
紅葉や銀杏の赤色と黄色が目に染みた。
ごめん、の一言が出てこない私に苛立つ。声帯に傷をつけられたようだった。
人と喧嘩したことがほとんどない。だから、衝撃が全然収まらない。
謝られたことを普通に受け取れなかった。
喉が締められたような気分だった。
異常に体が熱くなる。
そこから、私と先輩は言葉をほとんど交わさなかった。
私が急に喋らなくなり、それをみて、先輩もぼーっとする時間に費やしていた。
こんな小さなことで謝れない自分がどんどん嫌いになる。
母親の大変さを分かってないんじゃないのか!という先輩の言葉を思い出すたび、そうだよな、なんてことを言ってしまったんだ、と思う。
先輩と先輩の親にとても失礼だ。もちろん、うちのお母さんにも失礼だ。
先輩の顔を思い出すと、やっぱり手足が震える。
声の出し方もわからなくなる。
どちらも帰るタイミングを見計らっていた。ちらちら、様子を伺いながら、いつ帰るべきか模索していた。
そして、ついに、先輩が「じゃあ」と言った。
私は、震える声で、小さく「はい…」と言うだけだった。それが精一杯だった。
いつも一緒に帰っていたが、今日ばかりは、できなった。
私は馬鹿だ。
一つの失言で、自分の居場所を自分で居づらくしてしまった。クラスのいじめがフラッシュバックした。
クラスのいじめも私が、あんなことをしたばかりに始まったのだ。私は、私の居場所を自分で殺してしまう。
先輩が、机や椅子をがたがたどける。本当はいつも手伝う。
でも足は震えていて、一歩も動かなかった。
そして、屋上のドアノブをがちゃ、とひねった音が聞こえた。
私は結局何も言えず、一人で帰ることになった。
廊下をとぼとぼ歩いていると、また先生に声をかけられた。
今度は担任だった。
二度と顔を見たくない、担任だった。
やばい、と思ったが遅かった。
「お、春坂さんじゃん」
担任は馬鹿にしたような声で言った。
へらへらとした顔を見せてきた。
「最近教室来てないよね?サボりー?ハハハ。なんか困ったことあったら言ってね」
ひゅっと息を呑んだ。
「それが先生の仕事だからさ」
ここまで最悪な言葉を言われると思わなかった。
その場でうずくまりたい気持ちになった。
先生は背中を向け、「バーイ」と手を振った。
吐き気がせりあがってきた。
私の心を殺したのはあいつだ。
サボりなわけないだろ。私が何から逃げてると思ってるんだ。
先生が気づいてないわけがない。私がいじめられていること。
先生の背中を刺すように睨む。
皮膚を破りそうなくらいに、拳を握りしめた。
先生が廊下の曲がり角を曲がり、背中が見えなくなった。
心がぐちゃぐちゃになって、外へ走った。
空に顔をあげると、屋上にいたときは晴れていたのに、曇り空に変わっていた。
空が何層にも重なり、濁った色合いをしていた。
首を絞められ息ができなくなった気がする。
私はなりふり構わず走った。運動不足で足は鉛のようだったが、走らないと、たくさんの嫌なことを思い出しそうだった。
でも、そのうち、走っているのに、なぜかその嫌なことを思い出してきた。脳裏にこびりついている。いじめっ子の「死ね」の声ががつんと響く。担任のせいで思い出した。屋上で先輩に怒られたこともフラッシュバックした。先輩はもう怒ってない。先輩は何も悪くない。そう思っても、だ。あの一言を言わなければ。
悪いのは私だ。居場所を自らの手で消した、私だ。
担任がいくら悪かろうが、私が私を殺したことは間違いない。私がいちばんの原因だ。いじめが始まったのも、弱かった私のせい。
夢中で走った。
いつのまにか家に着いていた。
空は相変わらず灰汁のように曇ったままだった。
ドアノブをひねる。玄関で膝から崩れ落ち、これだけ、水が目から出たら、死ぬんじゃないか、と言うほど、泣いた。
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