第2話 月

 今日も、今日とて先輩と過ごす。屋上への階段の前に積み上げられた、机や椅子。絶え間なくゆっくりと流れる青い空。屋上の、ところどころ錆びた青緑色のフェンス。それぞれのものがパズルのピースみたいに、ないと落ち着かないものになった。

 先輩とは大体が沈黙だった。沈黙というより、時々思いついたように言葉を交わしては、少し笑ったりするくらいだ。それが私にとって、ちょうどよかった。一人より安心感があるけど、それでいて邪魔にならない。自分のドッペルゲンガーと話しているような気分になる。自分と一心同体—、というような。

 私は考えることがあまりにも少なくて、少々暇だった。だから、考えても答えが出ないようなものについて考えることが多くなった。


「先輩、月って本当にあると思いますか?」

 突拍子もない質問を先輩に投げかける。

「そりゃ、あるだろ」

「たとえば、誰かが超でかいプロジェクターで夜になったら月を映し出すとか」

「……月だけを映し出すってこと」

「はい、空の色の移り変わりは現実であるんですけど、夜って空が黒くなるから外でも明るいものがないと周りが見えないじゃないですか。だから、月っていう地球に近くて明るい星があるってことにしようって、毎夜プロジェクターで月を映し出してるんじゃないかって」

「月を間近で見たことないもんな」

「はい」

 月に行ってみたい。自分の目で、本当に月があるのか。

「そっちの方が面白いよな。騙されたーみたいな」

 先輩がいつもより、砕けた口調で言うから、面白くなってくすりと笑った。

 秋の涼しい風に吹かれて、先輩の前髪がひらと揺れた。


「これからどうしよう。お母さんに説明してないんだ。授業出てないこと」

 私がいうと、先輩はいちごジュースのストローを咥え、ピンクの汁を吸い込み、それから、やっと口を開いた。

「春坂には母親しかいないのか?」

「うん、母子家庭なの。お父さんは、どっかいっちゃった」

「俺と一緒、母子家庭だ。俺も」

「そうなの?」

「うん、交通事故で。俺が十一の時に」

「それは……大変だったね」

 それを言ってから私はハッとした。お父さんがいないから、という理由で、「大変」や、「可哀想」と言われると、無性にうざったらしくなったことを。

「ごめん、なにもしらないのに、大変っていうべきじゃないよね」

「いいよ、何も気にしてないし。俺の父親は暴力ばっかだったし、浮気もしてたぐらいだし。逆に、よかったとまで思った。そん時の俺は本当にずっと父親のせいで辛かったから、父親を轢いたやつに感謝までしてたくらいだ」

 先輩はいちごジュースを投げ捨てた。紙パックが真っ逆様に落ちて、地面に少し跳ねる音が耳に届く。

 いちごジュースの運命が尽きるところを見届ける。

「はぁー」


 私は小さくため息をつきながら先輩の父親のことを考えた。

 先輩の父親はきっとクズ男、というような人だったのだろう。先輩はこう見えて優しくて細かいことで怒るような人ではないことが毎日過ごす中でわかった。その先輩が言うくらいだから。


 私のお父さんはどうしているんだろう。小さい頃の話だからお父さんの顔が思い出せない。お母さんにお父さんのことを聞いたことはほとんどない。出て行った頃などはお母さんは辛そうで、子供ながらにもなんとなくタブーだと言うことがわかっていた。お父さんに会いたいと思う心は不思議とない。でも、なんで出て行ったかくらいは聞きたい。私が大人になったらお母さんは教えてくれるのだろうか。


 そう悶々と考えていたら、いつのまにか夏の暮れの空だった。

 私は今日も先輩と分かれ道まで喋りながら帰った。夏の暮れはまだ明るくて澄んだ空をしていた。

 



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