鰯雲のつづき

朝日翼

第1話 屋上

 屋上のフェンスにもたれかかりながら春坂は空を見上げる。

 今日は春坂に屋上で出会って二日目。

「授業、行かなくていいのか。春坂がなんで行かないのか知らないけど」

「不真面目な先輩に言われたくないなあ」

 俺はムッとしてから、いちごオレをちゅーっと吸った。

「いちごが好きなんて可愛いところあるんですね」

「俺を馬鹿にしてる?いいだろ、別に」

 俺はいちごオレを屋上から投げ捨てた。ポトンと、空の紙パックの音が下の方で鳴る。

 春坂の端正な横顔を少しにらむ。

「先輩はなんでサボってるんですか」

「別にサボってるわけじゃねえよ」

「じゃあなんで」

「お前には言いたくない」

 学校から一望できる我が街を見下ろしながら言った。

 春坂は少し不服そうにした。

「春坂は頭いいだろ。俺なんかとつるまないほうがいいんじゃないか」

「つるんでるわけじゃないんですよ。クラスが嫌で、逃げたさきに先輩がいたというだけです」

「………俺が入れたけどな」

 俺は黙ってから、目を伏せた。

 

 春坂がこの屋上に来たのは二日前。俺はいつものように、暇を持て余しながら、一人で屋上に居座っていた。

 そしたら、女の声が聞こえた。「助けて!」扉を通して聞こえた声。背筋に稲妻のようなものが走った気がした。

 即座に、屋上に誰も来れないよう積み上げていた段ボール箱や机を蹴り飛ばし、女を入れすぐに閉めた。ボロボロの状態で、泣いていた。何かから逃げているようだった。その予想は当たり、「春坂さーーん。逃げるのお〜?」何十人かの追っ手の声がぐるぐるとわらわらと扉を通して聞こえてきた。近づいてくる、その声を阻むために、力を振り絞って、ドアノブを抑えた。「ねえねえ開けてよー」と聞こえてくる。 一人でずっといた。だれも屋上に招き入れたことなんてない。でも、守らなければと反射的に思った。一人の力でめいいっぱいドアノブを抑える。体当たりをしてくるやつや、ひたすらに暴言を吐くやつによって精神と体力が削られる。

 その間、女は、過呼吸になりながらも机や段ボール箱を積み上げていった。じきに何十人もいた追っ手たちは離れていき、それぞれ渦ように暴言をつぎつぎ吐きながら去っていった。屋上に入ってきたその女が春坂だった。


「知ってますか?私が追われてた理由」

 春坂が聞く。

「知らない。知りたくもない」

 俺は目線をまっすぐ街を見つめたまま言った。

「でも、すこし気になってるんじゃないですか?」

 俺は肯定も否定もせず、黙った。

「私の父親、刑務所に入ってるんですよ」

 俺は目を見開いた。拳に力が入る。春坂の方を反射的に見ると少し笑っている顔だった。目は笑ってなかった。むしろ全てを諦めたような目。

 刑務所と口の中でつぶやく。春坂はここに来てから理由を話さなかった。俺を信頼してくれているのだろうか。刑務所、ともう一回心の中でつぶやく。

「それが、ある日、広まってたんです。なんでか知らないけど、クラス中に。まあ学校全体に今では広まってますけど。先輩は知らないと思いますけど」

 少しへらついた様子で言った。俺は口を閉ざしたまま春坂の方を見た。

「それでまあ、酷いもんですよ。先生も見て見ぬ振りって言うんですか?私立高校だから大ごとにしたくないのかもしれませんけど」

「春坂は悪くない」

 本心から出た言葉だった。

 春坂は一瞬俺の方を見て驚いたような顔をした。

「そうかもしれないですね。でも、立場が弱くなった私は何もできなかった。それが現実で事実です。私には勇気とか、そんなものは、微塵もありませんから」

 俺は街に視線を戻した。

「いや、」

 俺は反射的に口をつぐむ。俺は春坂に何か言えるような人じゃない。


二人で黙ったあと、春坂が口を開いた。

「もうちょっとで終わりますね学校」

「ああ」

 部活をしているやつらが引き上げていく。夏の夕方はぜんぜんまだ明るかった。ピンク色のような、きいろのような色の雲を残した空を見上げる。

「あともうちょっとしたら帰らないと。お母さんに迷惑かけれないからね」

 本心からそう思っていそうな顔をした春坂は「先輩は?」と聞く。


「俺も一緒に帰るよ」


 すんなりとその言葉がでてきた。

 なぜか俺は春坂といるのが嫌いじゃない。喋ることは嫌いなはずなのに。

 こんな言葉が俺から出てくるのが自分でも不思議でたまらなかった。

「わかりました。帰りましょう。面倒臭い大人たちがくる前に」

 春坂は笑いながら白い歯をにかっとみせた。目がちゃんと笑っているのに少しホッとした。俺は特に何も入っていないリュックを背負う。

「私、先輩と喋るの楽しいです」

 春坂の笑顔が眩しい。

「あ、今先輩ちょっと笑った!」

「嘘?」

「嘘じゃない。微笑んでたもん」

 俺は半信半疑のまま、屋上のドアノブをひねり、誰もいないことを確認して、階段をゆっくり、春坂と喋りながら降りた。


誰とも会うことなく、いや、先生と一度すれ違った。目を丸くされたが、「さようなら」とだけ言って、去っていった。

 

 地に降り立った俺と春坂は、またゆっくり言葉を交わしながら歩いた。


「じゃあね!先輩」

「ああ」

 

 人と帰るなんて何年ぶりだろうと、昨日も一緒に帰ったことを思い出してくすりと俺は笑った。

 俺と春坂はそれぞれの場所へ駆け出した。

 明日が楽しみと、思いながら。

 

 


 


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