第9話

夢を見てうなされていると、部屋の誰かが揺すり起こしてくる。なのに朝陽は眠っている様だった。目を擦りながらその人に文句を言おうとすると、手を引かれるままに部屋から出る。初めて鍵をポケットに入れたままで良かったと思えた。

 優しいのか、か弱いのか分からない力加減で手を握られ、長い時間引っ張られるまま着いたのは、人気ひとけの無い橋が見える所だった。信じたくない予想が頭を埋め尽くす。それなのに、どこか安堵の浮かぶ笑顔をしている彼女は、俺の心を見透かした様に頷いて、多くを語らず歩を進める。頭はとっくに覚めていた。

 長い橋の中腹。都合良く、網はそこだけ欠落していた。木々の形が潰れた大きな緑に、一筋の青い亀裂が入っていた。ここはさっきのホテルから相当遠い所だった。何だか、今朝も同じくらいの距離を移動したような……

 場所が場所だからなのか、いつもより息苦しい気がする。だが、そんな事がどうでも良くなる程、目の前で大自然に背を向ける彼女が目に映る。俺の背後に浮かぶ、白い夜の太陽が、彼女の頬に垂れる悲しみを照らす。彼女は一歩ずつ後退りする。止めようとしても、なぜだか足も、身体にも力が入らない。そんな俺に向けて、精一杯の笑顔を振り撒く彼女。艶の掛かった口が動く。

「もう分かってる…………でしょ?色々と……ね?」

「……」

「……私って、どうしても器用になれなくてさ…」

 頬に一筋の白く光ったものが二つ、三つと見える。

「ずっと…勉強と部活、どっちつかずな感じで…周りから置いてかれる事ばっかりだったし……部活じゃ評価も高いわけじゃなかったの。……だから…少し前から学校にも行けなくなった。家族は……妹くらいしかまともに口も聞いてくれなかった。所謂…古風な親……って言えば聞こえは良いかな?そんな感じ。だから引きこもってた。でも……高校に入ってスマホを貰ったから、そこまで退屈だった訳じゃ無かった。だとしても………寂しかったよ……妹と話そうにも予定が合わないし、誰とも話せなかった。SNSを始めてみても、まともに話してくれるような人とは繋がれなかった。それで……ずっと孤独だった所に来てくれたのが君なの。いざ話してみると…………優しそうで頼りになるなって思ったんだ。そこから毎日が本当に楽しくなった。でも、なんでか怖かったんだ…………」

「自分の将来とか…………また学校に行く時どうするか…………とか……考えてると……凄い怖くて…」

 気づけば、俺の目にも、彼女の目にも月明かりが溜まっていた。

「相談しても変わらないかなって思えて来ちゃって………気づいたらここに立ってたよ………… 」

「ずっと我儘わがままに付き合わせちゃってごめんね…………貴方にでも相談してれば良かったのかな………?将来の事とか……心の事とか……」

「長々と話しちゃったね……貴方と離れるのは凄く惜しいけど……またどこかで会える、そう信じてるね……じゃ!」

 最期の煌びやかな笑顔を焼き付けさせた彼女は、全てが自然に包まれた。

 気づけば、俺はホテルの部屋へ戻って来ていた。道中の記憶なんて無かった。時刻は3:10。外は暗かった。彼女の手荷物を開けてみると、ペアルックのネックレスに、大きな薄めの本に近い何かが何冊も。別に彼女は居ないのだから、幾らか見たって構わないだろう。

 そんな思いでそれを開くと、頭に湧き上がる何かがあった。見覚えなんて無いアルバムのはず。それなのに、どうしてこんなにも懐かしい。多すぎる情報に混乱をしていると、一本の電話があった。送り主は由里子。宛先は彼女だった。緑の円に指を置く。

「…………お姉ちゃん…?」

 反応が出来なかった。由里子が混乱するかもしれないし、殺した事にされて詰問きつもんされるのも嫌だったからだ。

「………川を下って海に来て」

 由里子はそんな事を言って電話を切った。最早誰に宛てたメッセージなのかも分からない。頭が一杯だ。

 手に紙袋を提げて、ただひたすらに川を伝う。由里子なら何か知ってるかもしれないと信じて。

 夜の海。俺の背後に浮かんでいた白い太陽は、同じ色で海を照らし、前方に影を作っていた。人型のものを、二つだけ。俺の前で海を眺める影を、何も思わずただ呆然と見ていると、それは声を発する。

「………………………やっぱりね」

 目の前にいる者はこちらを向いて、全てを知った口ぶりで話す。

「別に貴方を責める様な真似はしないよ。お姉ちゃんって昔から自由気ままだったからね。」

「だからこんなのも書いていっちゃうんだよね………」

 その手には、薄い一つの紙束が抱えてあった。

「………そのアルバム……お姉ちゃんが大切に取ってたやつだ……昔の事なんて全部忘れちゃってるんでしょ?一緒に見よ?」

 そう言われて、また言われるがままにそれを開く。

 隣に座る由里子のはしゃぎ様が、まるで子供の様だった。一通り懐かしんだのか、由里子はアルバムを折り畳んでこちらを向く。

「お姉ちゃんっていつも優しかったんだ……学校で虐められてても、大事おおごとにしないで、なるべく穏便に済ませたかったらしいんだ……」

「私の前じゃ立派に振る舞ってて、昔は凄い憧れてたんだ……でも、ここ数ヶ月は籠りきりで、嫌になっちゃったんだろうなって思ったんだ…… 」

 俯いてそんなことを話す由里子に、気になった事を問いかける。

「今言うのも違うだろうけど……そんなに分かってるなら寄り添ってあげる事とか出来なかった?」

「………………………どうしても無理だったよ。何回相談を受けても、抱きしめても、何ら変わらなかったよ。いじめっ子を消そうかと思っても、そんな勇気も無かったし、頭だってそんな良いわけじゃないし、何も思いつかなかったよ。考えても、考えても……変わんない。変えられなかったの。」

 涙の伝う頬を拭いながら話す。

「それで、ここ最近は口も聞いてくれなくて、手もつけられないくらい酷かった。でも、貴方がお姉ちゃんを見つけてくれたから、お姉ちゃんも少しづつ私と遊んでくれるようになったんだ。久々に遊べて、昔に戻った感じがしてて、お姉ちゃんが元気になってて、嬉しかった。」

 気づけば俺の頬には涙が垂れていた。

「でも………こんなのを残して、気づけばこれだよ……」

「私って……どうすれば良かったの………?どうやってお姉ちゃんを救えば良かったの?」

 そして、俺の胸元に紙束を押し付けて、涙を拭いながら由里子は立ち上がる。

「……何も言わないで。」

 そう言って、由里子は立ち去る。小さく嗚咽を漏らしながら。

 手に持っている紙束を開き、月明かりを頼りに読む。

『私は、昔も昔。幼稚園くらいの時に、男の子と喧嘩しちゃって。それで、その子を突き飛ばしたら、側溝に頭から落としちゃって、その子は記憶が無くなっちゃったんだ。それを知って凄い悲しくなったんだ。喧嘩はしてたけど、子供だったし明日にでもなれば忘れるような、そんな事だった。だからこそ、その事実が凄い心に残ってて―』

 更に続いて、彼女が今までに送ってきた人生の思い出がひたすら綴られていた。

『そういえば、私の名前言ってなかったかな?今の名前は"佐藤さとう 優実ゆみ"なんだけど、実は一回変わっててね〜』

『そのきっかけが幼稚園の喧嘩なの!沢山怪我させちゃった男の子を忘れたいからなのか、親が名前変えちゃったんだ。元々"優美子ゆみこ"だったんだよ?私の妹にそっくりな名前でびっくり!』

 そんなマイペースで明るい思いの丈が綴られていた。

『最後になるけど、実は、貴方の名前が分かるんです!まあ妹から聞いたんだけどね。………幼稚園の頃に怪我させちゃった子だったんだね。凄い偶然でびっくりしちゃった!これって必然だったのかな?インターネットでの名前もどことなく似てるし、"ダイヤモンドのメンタル《ハート》"とか言ってみたり……流石に無いかな?とりあえず、覚えてないかもだけど言わせてね?』

『あの時は大きな怪我させちゃってごめん』

『スッキリしたからもう思い残す事は無いかな!後は……まあなんとかなるでしょ!って事で!最期は貴方に看取られたいな〜なんて』

 読み終えてからの俺は以外にも冷静で、とりあえずホテルに戻ろうと、沈みかけの月を眺めていると、自然に涙が頬を伝う。取り繕っていただけだったと気付かされた。止まらない涙の滝は、筋をいくつも作り、砂浜が水玉柄に染められていた。震える手で紙束を袋に入れ、全てを抱きしめる。

「…………………………ごめん……」

 そう呟いて、沈んた月に背を向ける。向こうからは明るい橙色の月と、ほんのり金物臭い川の水があった。

 紙袋を携えてホテルへ戻る。着替えたりして重くなった荷物を抱えて、何も考えず駅を乗り継ぐ。

 気づけば、そこは由里子の家だった。呼び鈴を鳴らす手は震えて、遂には重力に従うまま落ちてしまった。とりあえず、可愛い色の鞄を玄関に置き、自宅へ歩を進める。

 玄関を開けて自室へ戻る。椅子に座るもただ無気力で、道中は殆ど記憶に無かった。荷物からは空のパッケージとゴミになったビニールの包みたち。何を思ったのかそれらを口に含み、ただ噛み締める。糸を引いてそれらが膝に落ちると、堪えきれず咽び泣いてしまった。ただ無力化に苛まれながら。ダイヤモンドのメンタルなんて嘘っぱちだ。スマホを開き、SNSを開く。クローバーのアカウントは消えていた。

 パスワードを打ち込み、赤に染まったボタンを押そうとする。一瞬の躊躇いが出た後、画面には成功文と一つの文があった。

"good bye"

 虚しさと心苦しさが自分を支配する。首にかかったアクセサリーは輝き、俺につきまとう。こんな思いをする「ネット恋愛」に浸かった俺は馬鹿だったのだろうか。

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広い海に貴女と一人 南 瑞朋 @TR-Minami

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