No.9【変身】
No.9 『V.Kafka』
曇天。しんしんと降り注ぐ白が街を静かに包む頃。コンクリートの窪みに白が溶けた透明が溜まっていく。濁った赤黒い血液は淡くその透明に滲んでいく。
数名の足音。ピクリとも動かない彼の脈に女は指先を当てる。
「…………NW014。担架を此方に」
それだけを告げ、遺体を後にする。ポケットから煙草を一本取り出し咥える。ジッポライターのレバーを二三回親指に引っかける。
火は着かない。
咥えた煙草を手に取り、無造作にポケットに入れる。赤いリップで淡く色づいた湿った煙草が、一本。
□□□
「…………」
午前11時00分。目が覚める。しん、と静まり返ったコンクリートの個室。呼吸音さえ死んでいる空虚のなか、瞼を開いたことに彼は気付いたようだ。彼は口さえも開かない。ただ、責務を全うしているからだ。多少距離を開けてじっと座る彼の方を見れば、彼も反応して此方に視線を向ける。その無機質な眼にニコりと微笑みかけてお礼を一言告げる。反応は特に無く、立ち上がる様を視線で追いながら、自らも立ち上がる。
「少し早いけれど向かおうか」
「承知しました」
鉄格子の外から白い光が差し込む。今日は、曇り空だ。
□□□
午後8時45分。日は落ち、暗がりの中を歩む四人の足音。普段ならこの時間は刑務所にいるのが当たり前だった。しかし、当たり前は変化する。認知している普通など、世界が変われば当然のように一変し、それは簡単に異常となる。
「20時48分………。そろそろ拠点を探そうか。先生が仰っていた住宅街にも入ったことだし」
地図を頼りに先導するヨアンは、後ろを振り返り三人に告げる。カフカ、アダム、シーラはヨアンの提案に賛同の意を各々示す。軽く口角をあげてその賛同を受けとれば、また地図をしまい、目ぼしい空き家がないか見渡す。屋根があり、壁も崩れておらず、扉がしっかりとついている家。そんな贅沢な建物を悠長に探してもいられないが、安全に最善を尽くすのがキャシーから下された第一の指示なのだから仕方がない。
探索範囲の拡大。今までキャシーが指示した探索先は、一日で刑務所に帰ってこれる範囲までだったが、拡大した今、数日の探索を要する。ヨアン、カフカ、アダム、シーラは、範囲拡大した箇所を探索する初めてのメンバーだ。強い希望がなければ、キャシーが事前にメンバーを指名し、探索場所を指示する。これは以前から変わりない。また、範囲拡大での探索は初のためか、渡された簡易輸血キット2つだ。二日で帰還しろ、と指示されている。目的はグレイソンの捜索、また、ニケ本部の捜索。アビスの捜索は危険性が高いため、今回は出没範囲から離れた場所の探索を命じられている。
「今までこんなに長時間お出かけすることなどありませんでしたから、少しわくわくしちゃいますね!」
「わくわくって……。油断とかするなよ、危ないって言われてるんだから」
周囲のアンデッドに気遣いながら、小声でシーラが明るい言葉を口にすれば、アダムがそれに答える。きょろきょろと拠点になりそうな家を探していれば、際立って綺麗な家が一軒目に入る。ヨアンが振り返れば、三人もそれを発見しているようで、その様子を確認すれば何も言わずにヨアンはその扉に近付いた。鍵はかかっておらず、外壁に大きな損傷もない。このまま住むことさえ出来そうな家だ。
「素敵なお家!三階建てかしら?まるでお城みたいですね!」
「新築……か……?」
「パンデミック直前にこの街に越してきたのかな」
ヨアンがシーラとアダムと会話をしている間に、カフカは前に出て扉のノブに手を掛けていた。
「カフカが中を確認します」
カフカが先導の意を述べれば、ヨアンは特に否定することなく一歩後ろに下がる。カフカが扉を軽く引けば、廊下が真っ直ぐ奥に伸びているのがわかる。扉が三つ、上に続く階段が一つ。10秒経っても物音は特に無く、カフカはノブから手を離して中へ上がっていく。ヨアン、シーラ、アダムの順で後ろから続いていき、アダムはその空いた扉を閉める。なるべく物音をたてないように警戒し扉を開けていく。一つはトイレット、もう一つはバスルーム。何もおらず、ただ枯れた水場が存在しているだけだった。最後の扉を開けば、リビングダイニングが広がっており、生活感はまるでないが、丁寧な暮らしをしていたことが伺える。
「上からも物音は聞こえないから、アンデッドはいなさそうだね」
「確認してきます」
カフカが上に向かっていく背中を見届けながら、ヨアンはアダムの方へ向き直る。
「キャスパーくん、鍵は閉めた?」
「あ、いや……、中にアンデッドがいたら逃げられなくなると思って閉めてないです」
「ありがとう。安全とわかったことだし僕が閉めてくるよ。ついでにカフカくんの様子も見てくるね」
リビングを後にするヨアンを見つめながら、アダムは改めて広いリビングを見る。この広さなら5人、6人家族くらいだったのだろうか。
「まぁ!見てください、アダムさん!すごく素敵なキッチン!きっと、この家の奥様はお料理が好きだったんですね!きゃ!スキレットがあるわ!材料さえあればシーラちゃんの特製ふわふわのパンケーキを振る舞えたのに……」
「楽しそうだな。やっぱり、シーラの家にもこういうキッチンがあったのか?」
「シーラちゃんのお家はパン屋ですから!もっと大きな釜戸がありました!」
にっこり、自慢気に微笑むシーラに、アダムは安堵を覚える。ここ最近、特に自分の前では浮かない態度を見せることがあったからだ。シーラの中で何かが解決したのか、それは定かではないが、のびのびと振る舞えているのなら、それが一番望ましい姿だとアダムは思う。
▪︎▪︎▪︎
「それじゃあ、僕はリビングのソファで休むよ。シーラちゃんとキャスパーくんは二階に寝室が二部屋あったからそこを使うといいよ」
「あら、カフカさんはどこで休まれるんですか?」
「カフカは自分の意思で睡眠を取ることができません。そのため、アンデッドの奇襲が来ないかを監視します」
「まぁ!だから刑務所の廊下で倒れていたんですか?お疲れになったらすぐに休んでくださいね!見張りが必要でしたら、いつでもこのシーラちゃんを御呼びください!」
「……じゃあ、すみません。お先に失礼します。……シーラ」
「はい!」
二階へ上がっていくシーラとアダムの背を見届けた後、ヨアンはカフカの方へ視線を向ける。
「まだまだ夜は長いけれど、ずっと見張りをするつもりなのかい?」
「非常事態時に気絶する可能性を危惧する必要があるため、必要以上の警戒はしません」
そう言った後、カフカはリビングの扉のノブに手を掛ける。玄関で夜を過ごすつもりなのだとヨアンは察し、軽く笑みを向けた。
「それじゃあ、リビングにある窓は僕が警戒しておくよ」
「承知しました」
「それじゃあね」
「明日も生きていられるといいね」
□□□
「じゃあ、俺はこっちで」
「はい。アダムさん、輸血!忘れちゃだめですよ!」
そう言ってシーラはキャシーから受け取っていた簡易輸血キットを取り出す。アダムは小さく溜め息を吐いて、わかってる、と一言。
「むしろ、中身が見えない分、此方の方がやりやすいんだ。心配しなくてもいいから」
「そうですか、ならよかったです。もし何か困ったことがあれば、いつでもこのシーラちゃんをお呼びくださいね!」
「……別に今は困ったことは特にないけど……、シーラも、言えよ」
「え?」
「いつも人のために突っ走ろうとするだろ、シーラって。キャシーさんの命令でも言われてるけど……でも、そうじゃなくても、俺は、ちゃんとシーラ自身のことも守ってほしいよ。……こういう状況じゃ、自分の身守れんのは、自分だけ……ってなるだろ、結局」
アダムの言葉に、シーラは光を照らさないその紫色の瞳を丸くさせ、瞬きもせずにアダムを見つめている。また余計なことを言ってしまった、そう思った頃には、シーラの愛想笑いが耳に響く。
「ふふふ、アダムさんって、本当……"みんな"に、お優しいんですね」
「別に、優しいって訳じゃ……」
「もちろんシーラちゃんのことも大切にしますよ!皆さまともっとずっと一緒にいたいので!そのためにも、今日は早く休みましょう!」
「お、おう」
「おやすみなさい、アダムさん」
「あぁ、おやすみ」
□□□
午前7時48分。無事夜も明け、拠点を後にする四人。午前中はキャシーの指示に従い、この住宅街を探索する。目的はあれど、具体的な解決策は無い。手当たり次第生存者を見つけ情報収集したり、使用できそうな通信機器に頼る他無い。
「二日目もがんばりましょうね!みなさん!」
あまり和気藹々と語ることのないメンバーの雰囲気を盛り上げるべく、シーラはニコニコと明るく声を出す。
こうして始まった二日目の探索から約二時間後。普段から回収している食料や医療品などはぼちぼちと手に入っているが、アンデッドとの戦闘を繰り返しているだけで得られた情報は何もない。
「探索するにしても持っている情報が少ないと得られるものも少ないね」
「でも、こうして一歩ずつ調べていくことが大事だとシーラちゃんは思います!決して無駄なんかではありません!」
比較的口数の多いヨアンとシーラがたまにぽつぽつと会話を挟みつつ、アダムとカフカは黙って周囲を確認している午前9時42分。昨日に比べ曇り空はより一層深くなり、昼間だというのにどこか暗く視界がこそばゆく感じる。住宅街の半分は探索し終えた頃、ヨアンは三人に向かって口を開く。
「そろそろ休憩する?」
「二人の判断に従います」
「シーラちゃんはまだまだ頑張れますよ!」
「戻る時間を考えたら、昼頃までには探索を終えた方が良いと思うので、皆さんが平気なら続けましょう」
「わかった。休みたい時はいつでも声をかけてね」
そうして一歩踏み出した時。後方から一言告げられる。
「ハァイ。こんにちは、人間さん達」
誰の声でもない、大人の女性のような声色。振り返れば、声色とは相反する子供のような女がそこに立っていた。青白い眼。タートルネックを着たピンクのボブヘアーの女。確かにその丸い目は、四人を一人残さず見つめていた。不気味に張り付いた笑みから、生存者か気にかけるよりも先に危険信号が脳を駆け巡る。しかし、各々武器を構えるなか、シーラは恐る恐ると青い口内を剥き出しに開く。
「何方……かしら?私達、生存者を探していたんです!もしお困りでしたら……」
「シーラッ」
一歩近付こうとするシーラの肩をアダムは咄嗟に掴む。アダムの声色に不安を煽られるシーラの表情は、少しだけひきつった笑みとなった。対して女は、ニコニコと仮面のような笑みのまま答えた。
「奇遇だね。ワタシも人間を探していたんだ」
そう語った後、口を大きくニッタリと開く。その口内は、シーラ同様青一色。
アンデッドだ。
それを四人が確信するには十分すぎる光景だった。しかし、アンデッドは普通意志疎通は取れない。キャシーの言うアビスと同様のアンデッドが存在しているのだろうか。ヨアンがそう思案している最中も、女は四人を見つめている。しかし、だんだんと視線をシーラとカフカの二人に向けた。見つめて、その丸い瞳を大きく見開き、不思議そうに見ている。
「ニケ組織の一員の可能性があります。キャシーの指示通り慎重に対応しましょう」
「うん、そうだね」
カフカの言葉にヨアンが答え、アダムとシーラは小さく頷く。こちらを不思議そうに見つめていた女は、ゆっくりと首をかしげて口を開く。
「……と、もしかして、キミたちは、アンデッドかい?おっと、人間達だけかと思ったけれど、…………!!」
何かに気が付いたのか、満面の笑みを向けて二人に向かって歩んでいく。距離を詰めた分だけ四人は距離を取る。そのことに悲しそうな表情を見せるが、めげずにニッタリと笑った。
「なんで逃げるのさ、兄妹!!」
ジョークなのか、その兄妹と呼ぶ声色はやけに快調に聞こえた。
「……兄妹……?確かに、シーラちゃんにはたくさん兄弟がいましたが、貴方のような方は……」
「アハハ!!面白いジョークね。シーラ・ベーカー」
「え?」
驚く者を他所に、女はタートルネックの下から首輪のチョーカーを露出させ、それに触れた。シーラは赤い手袋をはめた左手を口元に当て、不思議そうに首を傾げた。
「な、なぜ……シーラちゃんのことを………?どこかでお会い……しましたか……?」
「ウウン、初対面。それに、キミ。キミも知ってるよ」
「ヴェロスラフ・カフカ」
青白い瞳が見つめ合う。
アダムは眉間にシワを寄せ、カフカの方に視線を向け、小声で語りかける。
「ヴェロスラフ……カフカさんの、本名……なんですか」
「……………」
「カフカさん……?」
混乱してきた状況に、ヨアンは数回咳払いをし、薄く微笑み女に話しかける。
「人間を探してる……と言っていたけれど、君の目的は何かな?僕達に何か要求したいことがあるのかな」
「人間はワタシ達の家に連れて帰るんだ。それに、兄妹が見つかったのもすごくハッピーなこと。だから、キミ達みんな、ワタシについてきてくれればいいさ!」
「家……というのは、どこにあるのかな」
「ついてくればわかるよ。ここからあまり遠くないんだ」
「君の家に行って、僕達はどうなるのかな」
「ワタシ達の家族になる」
彼女の純真な瞳に嘘はない。そしておそらく不器用な言葉選びから、何を話してよくて何を話してはならないのかの判断がついていない。解釈の必要はあれど、ある程度鵜呑みにして良さそうだと心のうちでヨアンは判断する。
しかし、鵜呑みにするのであれば選択する必要がある。彼女についていくか否か。チョーカーのこともあり、彼女はおそらくニケのアンデッドだ。ついていく選択を取ればニケ本部を知ることが出来るかもしれない。しかしそれは本部を探った上で帰還することが条件となる。この四人で本部付近まで近付いて無事に帰ることは可能だろうか。敵はきっと彼女だけではない。懸命な判断はついていかない選択だと安易にわかる。
「先生は第一に僕達の安全を確保することを指示している。それに従うなら、僕は手を引いた方がいいと思うな」
「……俺も、そう思います。ついていくのは、あまりにも危険だ」
「でも、なら、シーラちゃんが行きますよ!」
「は!?」
「だって、こんなに絶好なチャンス、ありませんよね……?」
「絶好なチャンス、って……俺が昨日言ったこと、忘れたのか?自分のことを考えろって……!!それに、シーラが戻ってこなかったらマディだって……悲しむだろ」
「……マディさんは、シーラちゃんじゃなくても、いいですから」
「……は?」
「アハハ、ねぇ、何話してるの?早くついておいで」
女の声色がワントーン下がる。あまり悠長に会話をしている余裕は無いと全員が察する。手袋をした拳を握りながら、シーラが一歩前へ出る。
「ひとまず、シーラちゃんがついていきます!お三方は、まだ行けない事情があるんです!」
「おい、馬鹿っ!!」
「……え?ダメだよ。みんな、来てもらわなきゃ」
「ですが、」
瞬間、シーラの横に何かが素早く過った。銃弾かと錯覚するほど素早いその動きは、ゆっくり、しゅるり、と音をたてながら女の方へ戻っていく様子を眺めてようやく正体を理解する。女の腕から、無数に分裂した触手が、ずるりと音をたてて収縮している。
「ね」
当てなかったことが優しさ。張り付いた笑みがまるでそう物語る。
「コソコソコソコソ、そんなにワタシがキライ?そんなに家族になるのはイヤ?そんなの、ワタシが許さないよ」
「……話が通じなくなってきたね。警戒しよう」
「カフカが接近します。ヨアン・リーヴァは後方からサポートをお願いします。アダム・キャスパーはまずシーラ・ベーカーの安全を確保してください」
「……わかりました」
三人の戦闘態勢を察した女は、酷く悲しそうな顔をして涙を溢す。涙が溢れれば溢れるほど、だんだんと怒りの表情に変わる。子供のように感情を露にする彼女の腕は、恐ろしく歪に変形していく。
「絶対連れて帰る、やっと見つけたんだからッ!!」
四人に向かって伸びる触手を、先頭を走るカフカは鞄で殴り進路を反らす。その隙にヨアンは事前にキャシーから受け取っていた拳銃を構えて女目掛けて発砲する。銃弾は左肩に突き刺さり、女は喘ぎながら肩を抑える。十分に距離が届く位置まで接近したカフカは傘のグリップを強く握り振り下ろしたそれを女の頭部に強くぶつける。十分な衝撃だったのか、女は口から涎を垂らしながらそのまま地面に倒れ臥せる。動く様子はない。頭部からじんわりと青い血液が広がっていく。女を見下ろしながら、カフカはただ、その広がっていく青を見つめている。後ろからシーラとヨアンが駆け足でカフカに寄る。ヨアンは女の様子を横目で確認しつつカフカに声をかける。
「一応離れておいた方がいいんじゃないかな」
「ニケ組織はどこまでカフカを知っているのでしょうか」
「……さぁ、どうだろうね。気になる気持ちも理解するけど、話が通じる相手でも無さそうだったから、一度引き揚げた方がいいんじゃないかな」
「承知しました」
「もしかしたらキャシーさんに聞いたら分かるかも知れませんよね!」
「…………だ、」
振り返った刹那、後方にいるアダムが歪んだ顔で此方を見つめていた、のだろう。シーラの視界に埋め尽くされた死肉は、息を呑む間も無くシーラの頭部に勢いよく伸びていく。シーラが状況を理解するより前に、隣にいたヨアンはシーラの身体を軽く突き飛ばした。触手はヨアンの身体に突き刺さり、そのままカフカの横を素通りし、倒れた女の奥の住宅の壁に叩きつけられる。カフカが直ぐ様その死肉に視線を向ければ、それは女の頭部から溢れ出す青い血液から生えていた。
「…………だ、やだ、」
小さく咽び泣く声は地に頭を着けた女から聞こえる。カフカはその触手のような死肉を傘で殴り千切り潰した後、再度女の頭に鞄で強く殴り付けた。しかし、血から這いずり出てくる死肉に妨害される。シーラがヨアンの方へ駆け寄る頃には、ヨアンを突き刺した死肉は溶けて血液となっている。
「…………」
ヨアンは自分の右肩からぼたぼたと溢れる出血に触れる。触れた掌は醜いほど真っ赤で、確実な出血多量が伺える。しかし、僅かに急所からは反れたのか、死を伴うほどの怪我ではないと判断する。
「ヨアンさっ……!!大丈夫ですか、!?」
「……大丈夫、見た目ほど大袈裟じゃないから」
「う、動かない方が……!!」
「ありがとう、でも今は僕の心配より彼女を警戒が優先だ」
動揺するシーラの後方で、大きな発砲音が聞こえる。カフカが与える頭部の物理的損傷に死肉が貫通しないため、アダムも受け取っていた拳銃で頭部を囲う死肉に向け何度も発砲していた。しかし、銃弾は肉を削るどころか、カラン、と空虚な音を立てて転がり落ちるだけだ。
「銃も貫通しないのか……!?」
「アダム・キャスパー。一度下がりましょう。また、彼女の血液に注意してください」
「ちょっ、!」
カフカは強引にアダムの腕を引き、周囲に最新の注意を払いながら女から距離を取る。
「カフカはヨアン・リーヴァの状態を確認してきます」
カフカが急いでヨアンの元へ駆け寄ろうとした時には、ヨアンは立ち上がりシーラと共に周囲の警戒をしていた。そして既に周囲に散らばった血液から死肉の触手が数十本と這って立ち、ゆらゆらと蠢きはじめていた。
「シーラちゃん、銃を構えて」
「は、はい!」
「アダム・キャスパー。ヨアン・リーヴァに目を向けないように周囲を警戒してください」
「……わかってますよ、!」
うねる死肉の触手は各々に向かって伸びていく。カフカが傘で薙ぎ払えば、触手はブチりと千切れ青い血液になり溶けていく。どうやら頭部を守る死肉のみが異様に硬いだけで、この死肉は多少の衝撃を与えれば消えていくようだ。何度も深呼吸を繰り返しながら、震えた手でアダムは発砲を繰り返す。ゆらゆらと蠢く触手を的確に狙うことは、一般人であるアダムには難しく、触手には掠り傷が増えていく。アダムを狙う触手に、他所から銃弾が発砲される。的確に狙いを定めていくヨアンは、周囲のサポートに回っていた。シーラも意気揚々と触手を狙い当てており、順々と青い血液となり溶けていく。
触手全てを潰した後、周囲は真っ青に染まっており、中央にポツンと女がいまだに倒れている。ここから素早く離れるべきだ、と判断し離れようと一歩下がったその地から、再度触手が再生する。減るどころかどんどんとその量を増やしていく。触手に囲まれた四人は一度中央で背中合わせをするような態勢を取る。
「このまま触手相手にしていたって仕方がなさそうだね。本体をどうにかする方が良さそうだ」
「彼女の肉体は死肉に覆われています。銃弾でも傷一つつきません」
「一つ可能性があるとしたら、火、かな」
「火元となるものは持っていますか?」
「この住宅街のどこかにあるかもしれない。確実性はないけれど、火付け道具はどの家庭にもある。触手は僕らを狙っているから、簡単に抜け出せそうにはないけれど、一人くらいならその隙は作れると思うから」
「……承知しました」
「………なら、俺が行きます。戦うにしても、足手まといなのはわかってるんで」
ずっと眉間に皺を寄せ、薄目で自ら視界を覚束なくさせていたアダムが名乗りあげる。ヨアンとカフカが各々頷けば、シーラは心配そうな表情を浮かべながらも、その背中に触れて「気をつけてくださいね!」と一言告げその手で押す。その勢いのまま、アダムは住宅街の路地に向かって走り出す。素早く動き出した獲物に何本もの触手は反応しアダムを狙い追いかける。その触手の根っこをカフカは傘で殴打し、その後方からヨアンとシーラが拳銃でサポートする。触手の合間を縫い全力で走るが、突如目の前から再生した触手がアダムの足を掴みとった。
「ぅあッ!?」
足をとられ、前に横転しかけるも、地面にぶつかることなく、自身の身体が宙に浮く。地面からだんだんと距離が離れていく度に焦りを感じたところで、触手に持ち上げられていることを自覚する。振りきろう身体を揺らしても無意味だった。その時、己の下でカフカが触手の根っこに衝撃を与えたことを横目で確認する。途端、自身を掴んでいた触手はどろりと溶けて、3mほどの高さからアダムは落下する。ぎゅっと目をつむり衝撃に耐えるつもりだったが、カフカはアダムを両手で受け止めた後、すぐさま降ろして進行方向へ背中を押した。
「カフカさん……ッ!すみません、ありがとうございます……ッ!」
カフカは何も言わずアダムが進む道を作っている。触手の数も減り、隙を見つけ、一目散に駆け出せば、無事に触手の輪の外に出ることに成功する。アダムは振り返ることなく住宅街の中へと入っていく。思いつく限りの火元を考えながら。
□□□
アダムを逃がしてから12分後。カチャン、と銃が空振る音。シーラとヨアンの銃弾が尽きた。しかし、彼らには己の肉体で太刀打ちできるほどの力がある。ヨアンはすぐさま拳銃をしまい、此方に向かってくる触手を蹴り返す。シーラはしゃがんで避け、咄嗟に手元に落ちていた木の枝を掴み頭上の触手に突き刺す。突き刺したまま振り払えば、青い血液となって溶けていく。
「はぁ、はぁ、」
シーラは息を切らしながら、周囲に何か使えそうな武器が無いか探していれば、カフカがシーラに傘を差し出す。
「必要であれば使用してください」
「………!!ありがとうございます!!」
「カフカくん後ろ!」
ヨアンの声に反応し、カフカは鞄を盾にしながら背後を振り返る。触手は鞄に当たり、鞄を貫通させカフカの頬を掠める。横目に見える死肉を掴んで握り潰せば簡単に千切れて血液と化す。
「はぁ……はぁ……全部、倒せましたね!」
「20秒後くらいに再生してくるから注意してね」
そうシーラに注意を促すヨアンの背中をカフカが不意にみた時、ヨアンのジャケットに僅かに付着している青が視界に入る。それが僅かに蠢いたことを、カフカの黒い瞳は逃さなかった。カフカが手を伸ばしヨアンの背に近づいたと同時にヨアンのジャケットに染みた青から巨大な死肉が膨れ上がる。おぞましい背後の影にヨアンが振り返ると、瞳孔散大した青白い瞳と目が合う。それを最後に、大きな衝撃が走る。
ドン。
触手はカフカの後頭部を強く殴打する。頭部から青い血を流しながら、ぐらり、と態勢を崩し、その額はヨアンの右肩に寄りかかり倒れていく。ばたん、とカフカが地面に倒れる。ヨアンが自らの顔に触れれば、指先に青い血液の飛沫が付着している。右肩にベッタリとついた青は、自らの身体から流れる赤と混ざり合うことは決してない。ただただ、赤と青が、歪に絡み合っていた。その刹那、ヨアンのジャケットから生え出た触手をシーラが傘で切り落とせば、どろり、と溶けていく。
「大丈夫ですか!?」
動揺しているシーラを他所に、20秒はとうに過ぎており周囲の青い血液から触手が生えてくる。
「シーラちゃん、ひとまず目の前のことから対処しよう」
様々な血液で染まった白いジャケットを脱ぎ、地面に落とす。触手の様子を伺っていれば、奥から足音が聞こえてくる。ヨアンが気づいた後に気づいたシーラはその顔をぱあっと明るくさせる。
「アダムさん!!」
「すみません、遅くなりました!!」
「キャスパーくん!中に入ってこなくて大丈夫だから、此方に投げられるかな!」
「投っ……や、やってみます!!」
距離は約15m。二人の手元に届けばいい。ジッポライターを手の中に握りしめ、真っ直ぐ飛ぶように触手が囲む中央へ投げ込む。中央から少し離れた場所にライターは落ち、中央へ滑っていく。ヨアンは駆け寄り、ライターをシーラに渡す。
「僕が周囲を見ておくから、シーラちゃんはあのアンデッドに火を」
「わかりました!お任せください!」
シーラが女の元へ駆け寄れば、女は依然として死肉を纏い倒れている。もはや生死さえも伺えない、繭のような女の姿をみていれば、ぽつり、と頬に何かが伝う。
雨だ。
急いでジッポライターのレバーを二三回親指に引っかける。
ボワッと音を立てて、着火する。
そっと死肉に火を灯せば、じんわりと熔けていき、そして直に火が移る。慌てて立ち上がり後ずされば、火はどんどんと燃えひろがり、死肉を焦がしていく。
「ァ、アッ、………やだ、やだぁ!!!やだぁ!!!!!!も"う"や"め"て"、ゴメ、ッゴメンナサイッッ!!!!!!」
火は死肉を溶かし、女へ燃え移る。火は瞬く間に地面の血液にも燃え広がる。シーラが倒れたカフカの元へ駆け寄れば、「カフカくんは僕が」とヨアンはカフカを背負いだす。置いていくにいけないシーラは、何度か振り返り、チラチラとヨアンの方を見てしまっていたためか、カフカを背負ったヨアンはすぐにシーラの元へ辿り着く。
火は既に触手にも燃え広がっており、自分達を囲っていたものは化け物から火の渦となっていた。僅かな隙間を掻い潜りアダムのいる火の外まで抜け出せば、先程までいた場所は酷く燃え盛り出す。
炎が激しくなると共に、雨もぽつりぽつりと音を立てて落ちていく。
きっと雨は次第に強くなっていく。この住宅街一帯が火の海に呑み込まれることも無いだろう。ほどなくして一件を終えた四人は、今日起きたことを報告すべく、刑務所の方へ歩み出す。
□□□
ズキリ、ズキリ
この痛みは一体。
私は、……そうだ。助けにいかなければならない。
助けに…………、
────
「…………NW014。担架を此方に」
「それと、この子の身元を調べてちょうだい。被験体にするわ」
▪︎▪︎▪︎
「おはよう。カフカ。目が覚めて良かったわ。調子はどうかしら?」
「…………」
「貴方、3日も寝たきりだったのよ。まぁ、命に関わる怪我では無い程度の重症だけれど」
「…………貴方は、」
「貴方は、知っていたのですね。ヴェロスラフ・カフカのことを」
□□□
被験体のことは把握している。特に、人工アンデッドの子達のことは。知る、という行為は研究者として当然の誠意なのだから。けれど、研究者ではない、一人の人間として考えれば、他者を知るという行為は、時に謙虚で、時に残酷な行為になり得てしまう。今、目の前にいるこの子は、一体何を思って笑っているのだろうか。
「あはは、むしろ感謝していますよ。もしアンデッドになっていなかったら、きっと6年前、あのまま死んでいたかもしれません。命の恩人に感謝こそすれ、恨むなんてしませんよ」
「私はむしろ、貴方の方が心配です。キャシーさん」
「あら、ずいぶんと心の余裕があるのね。今は自分のことで手一杯だったりしないのかしら」
「私は大丈夫です。むしろ良く眠ったおかげか、体調は優れていますよ」
胸に手を当てて、ニコリと笑みを見せる。その後、気遣わしげな表情でキャシーを見つめる。
「……キャシーさん。確かにこれは、貴方たちの責任かもしれません。それでも貴方一人が背負って、飲み込んで、それで解決する問題でもないでしょう」
「もしも仮に貴方が潰れてしまうようなことがあったら……残される人たちも、貴方自身も、苦しいだけじゃないですか。だから、私で力になれることがあるなら、何でも言ってください。貴方が背負う重圧を、一人分軽くするくらいなら、私にもできるはずですから」
そういう彼の言葉に、キャシーが返せる言葉は何もなかった。正確には、今は何もない。感謝の意を一言だけ呟き、問診票に記録を記していく。筆を走らせ終えれば、視線だけを彼に向け、青く色づいた唇を動かした。
「これは愚問だけれど、一つ聞いてもいいかしら」
「はい、なんですか」
「あの子……ヨアンのことはどうするつもりなの?」
口元は微笑んだまま、彼は数秒視線を下に落として、またキャシーの鼻先に視線を移せば、その口が開く。
「キャシーさんは、地獄の最下層で劫罰を受けるのは、何の罪人かご存知ですか?」
「"裏切り"ですよ」
そして、またニコリ、と笑みを浮かべる。
「これは貴方たちがくれたチャンスなのだと思います。だから、これから時間かけてしていきますよ」
「償いを」
No.9 【変身】
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