No.6【終わりのその先は、】


どうしてこんなことになってしまったんだろう。


「はぁ、ッ、ハァッ、」


全部、全部、全部


____わたしが悪い。


□□□


「もう調子は大丈夫なの」


「……あぁ。……わりぃな、迷惑かけて」


「迷惑だなんて思ってないよ」


午前11時34分。そう言い放つ低い声色に、ノーバディは「……そうか」と一言。自室で探索の準備をする彼の元へわざわざ足を運んだローザは、幾度となくその長い睫毛を瞬かせ視線を泳がし、しゃがみこんでいる彼を壁に寄りかかりながら見下ろしている。


少し騒ぎにはなったが、事情を知るものは少ないだろう。彼はここ最近、おそらく刑務所内の人間と揉め心に深い傷を負っていた。ローザは当事者ではなく、ノーバディの口から聞いた曖昧なことしか知らないが、少なくとも普段よりも真っ青な顔色の彼から相談をされたのは事実だ。「何かあったら聞くから。」かつて彼に向けて溢したこの言葉が、少しでも彼の生きやすさに繋がったのなら____そう思いながら、その大きいようで小さな背中を見つめている。


「…………もう、大丈夫だから。……あ、……。……大丈夫って言うなって、アダムに言われたばっかりだった」


そういうノーバディは、小さく口角をあげた。ここまでノーバディの精神が安定してきたのも、彼のバディや親しい友人の支えがあったからだろうか。


「大分本調子に戻ったみたいでなによりだよ。でも、アダムの言う通り、無理はしなくていいんだからね」


「……あぁ。……さんきゅ。……まぁ、ずっと、みんなに迷惑かけてたら……さ。……みんなにも、……キャシーにも、わりぃし」


ローザの眉がピクりと反応する。準備が済んだのか、ノーバディは立ち上がりローザがいる扉の方面へ歩き出した。扉の横にいるローザのことを視線で気にかけながら、ノーバディがその鉄扉のノブに手をかける。同時にローザが口を開く。


「ねぇ」


「……なんだ」


「アナタはさ。キャシーの研究が早く終わってほしい?」


ローザの問いに、ノーバディは視線を向ける。


「あぁ」


その瞳は、まさしく待望の眼差しだった。


□□□


午後12時18分。雑踏を歩く二人。昼間なのに薄暗い曇り空は、二人の上にやんわりと影をつくる。ノーバディはキャシーからもらった地図を見つめては、周囲を見渡している。その横で、ノーバディよりも歩幅の小さいエイプリルが、ちょこちょこと一歩遅れてついてきている。寄せては返す波のように、付かず離れずの距離感を保っていたが、隣に人影を感じなくなると、ノーバディは後ろを振り返る。目が合ったことで、エイプリルは表情を強張らせた。


「……わりぃ。早かったか」


「あッッッ、い、いえ、あの、……えっと、わっ、わた、しが、遅いだけなので……」


モゴモゴと口ごもらせているが、ノーバディは立ち止まってエイプリルが隣に追い付くのを待った。察したエイプリルが急いで駆け寄ると、ノーバディはまた歩き出す。心なしか、歩幅が狭く、かつゆっくり歩んでくれている気がした。エイプリルが自分のペースで歩いても、隣からずれないのだ。ノーバディの視線はまた地図に向いているが、その意識の中に、僅かにエイプリルが視野に入っている。エイプリルはその事を何となく察しながら、首から頭にかけて、身体が火照るのを実感する。上目でノーバディを見上げる。だいぶ前から、エイプリルといる時はマスクを外すようになったため、ノーバディの素顔がよく見える。気付かれないように、その表情を見つめていれば、また頬にじわじわと熱が灯る。___気恥ずかしくて、疚しい感情。私なんかが、抱いていい筈がない劣情。それでも、隣に存在することが許されている今がとても幸せなのだ。だから、この気持ちを露にしないことを誓う代わりに、今もこの場所に甘えさせていただいている。


「……多分、この辺り……だよな。……合ってるか」


そう言いながらノーバディはエイプリルに地図を見せる。ぼーっと見惚れていたため、「はひっ、」という声と共に肩をビクつかせた。


「……は、はい……?」


ノーバディに見せてもらった地図を見るが、ノーバディよりも状況を把握出来ていないエイプリルは言葉を詰まらせた。エイプリルからの返答を待っていたが、あまり理解しきれていない表情を見て、さっと地図を下げた。


「わりぃ。わかんねぇよな」


「アッッッ、あっ、すっ、ッ、すみませっ……!!」


ただでさえ無力で無能な上に邪な煩悩に思考を巡らせていた自分の愚かさで、より申し訳ない気持ちになってしまったエイプリルは、謝罪の言葉を詰まらせながらも吐き、小さくわたわたと身振りをした。ノーバディは、想像以上に慌てるエイプリルを見て、ふ、と小さく吹き出した。


「んな大袈裟だって」


そう柔らかい笑みを見せて笑っている。最近、こうしてまた肩の荷が下りているような様子がよく伺える。いや寧ろ、以前よりも柔らかくなったのかもしれない。その笑みに釣られエイプリルも心地よい気持ちになっていた。ノーバディさんが元気になって良かった、とその柔らかい表情にまた、見惚れながら思い耽るが、先程の失態が胸の内からチクチクと込み上げてくる。いけない、と思考を振り払い、地図の方を見る。


「え、えっと、きゃ、キャシーさん、が、えっと、…………ちっ、地下シェルター、……でしたっけ……?」


「あぁ。……ここら辺に軍人基地があって、で、近場の工場の地下シェルターに、非常用の秘密武器倉庫があるかもしれない、……って言う話だった」


キャシーが渡した地図。それは武器倉庫のめぼしい場所を印した地図だった。ここ数日、キャシーは探索者に武器の調達を頼んでおり、めぼしい場所を地図に印しては探索させているが、現状武器倉庫は見つかっていなかった。そして、二人が今日探しているのもその武器倉庫であった。二人は地図に示された場所にたどり着いたが、如何せん工場らしい建物がいくつかあって検討がつかない。目を合わせて、一度しらみ潰しで行くしかない、とノーバディが歩き出せば、エイプリルも一歩遅れて駆け足でついていく。


ひとつ、またひとつと確認していくが、地下シェルターらしいものはなかなか見つからない。こうして順々に潰していく他無いが、気付けば一時間ほど経っていた。ずっと歩き続けていたせいか、エイプリルの足がだんだんと重くなっていた。また、歩くペースが合わなくなってきたことに気付いたノーバディはエイプリルの方を振り返り口を開いた。


「少し休むか」


「……えっ、ぁ……いや……も、も、申し訳、ない、ので……」


「俺も疲れたから」


丁度次に入ろうとしていた工場の中にノーバディは進み、並べて置かれている鉄鋼の上に腰かけた。腰が低そうな姿勢をみせながら、ノーバディと一人分距離をあけてエイプリルも座る。曇り空越しの灰色の光が、工場の大きな入り口や窓からじんわりと差し込む。エイプリルはじんじんと痛む足先を軽く浮かせて休ませながら、ちらりとノーバディの方を見る。ノーバディは何も言わず、周囲を見渡している。普通なら気まずく感じるこの沈黙の時間でさえも、彼となら気にならない。寧ろ心地よさまで感じ、薄暗い灰色の光でさえキラキラとして見える。


浮かせた爪先をぼーっと見つめながら、ふと、先のことを考えてしまう。いつまでこうしていられるのだろうか、と。研究が終わったらどうなるのだろう、と。"せんせい"と呼び慕うヒューのように、エイプリルはキャシーの研究について考察など出来ない。今研究がどこまで進んでいるかの検討もつかない。そもそも、何をもって研究が終わりなのかもわからない。けれど、きっといつかは終わるのだ。いつまでも、こんなに幸せな日々が続くわけがないのだ。もし終わったとき、みんなはどうするんだろう。


(……ノーバディさんは、どうするんだろう)


どうするにしても、きっと自分は彼の隣になんて居られない。相応しくない。それが当然の運命だと、エイプリルはどうしても思ってしまうのだ。


「……エイプリル、あそこ」


ノーバディが立ち上がり、向かい側の遠くを見つめている。ノーバディを見上げたあとに、ノーバディの視線の先を遅れて追いかける。特に何かがあるようには感じられない。瓦礫や積み荷が乱雑に散らばっているだけだ。


「……ど、どうか、しました、?」


アンデッドを発見したのかもしれない、と思い、エイプリルは小声で問いかける。今日の探索で、まだ一度もアンデッドと遭遇していないため、フラグ的に考えてもそろそろ出会してもおかしくない、と内心エイプリルは思う。けれどノーバディはエイプリルの方を見て手招きをし、視線の先へずんずんと進んでいった。エイプリルも慌てて立ち上がり背中を追いかける。先に辿りついたノーバディは、地面をじっと見つめている。ノーバディの後ろから、エイプリルも覗き込む。不自然に拓けた地面を囲うように積み荷が置かれている。ノーバディがしゃがみこみ、地面をそっと指先で撫でれば、ハッとしたように瞳孔を細め、エイプリルの方を見る。


「多分、ここだ」


「へ」


エイプリルもそっとしゃがみこむ。ふわ、とシースルーのロングフリルスカートがエイプリルの周りを包む。ノーバディを真似るように、指先で地面を撫でればすぐに違和感の正体にきづく。


「……段差……!」


「あぁ」


おそらくこれが地下シェルターの入り口だろうと二人は察する。しかし、問題はこの奥がキャシーの言う武器倉庫か否かである。他の探索担当の人らもシェルターは見つけたが、もぬけの殻だった、アンデッドで密集していた、などという状況であった。とにかく入って調べないことには始まらない。引手に繋がれた鎖を握り勢いよく引けば、一度に三人は同時に降りていけそうな幅の階段が地下へ続いていた。薄暗い天気のせいか、光は中へ全く届いていない。エイプリルが不安そうに暗闇を見つめている反面、ノーバディは積み荷の中から鉄の角パイプを手に取った。そして、ベルトに引っかけた小さなポシェットから、予めキャシーから受け取っていた懐中電灯を手に取る。粗方準備が済めば、エイプリルの方に視線を向ける。


「行けるか」


「アッ、ハッ、ハイ……」


左手に持った懐中電灯の電源を押し、それを口に加え、エイプリルの方へ自身のマントを掴み差し出した。おそるおそる、エイプリルがノーバディのマントを掴めば、ノーバディは地下へ視線を向け、階段に足を下ろしていく。マントをぎゅうっと手に掴み離さないようにエイプリルも後ろからついていく。カン、カン、カン、と、鉄で出来た階段から、二つの足音が響く。階段は想像の二倍は長く、一分程で地下と思われる場所に辿り着く。地面を足探りで確認し、ノーバディは一度後ろを振り返る。口に加えた電灯が、エイプリルの顔を唐突に照らす。急に顔に当てられた電灯が眩しく、「ヒヤ゙ャッッ!?!?」とエイプリルは悲鳴をあげる。


「あっ、あいー……」


「ハッすっ、すみませッ、おっ、ッおっきな声、出してしまって、」


エイプリルがいることを確認できた後、ノーバディはまた前を向く。短い廊下の先に、半開きの扉が一枚ある。少し警戒しつつ前に進み、その扉に手を添えてそっと押せば、扉は弧を描いて開いた。中の光景にノーバディは思わず目を見開き一望した。背中からひょこっと顔を覗かせたエイプリルも「わ……」と小さく声を漏らす。細長い長方形のその部屋には、壁一面、そして中央にずらっと棚が並び、その中には丁重に様々な銃が保管されている。口に加えた懐中電灯を手に取り、ゆっくりと忍び足でそのなかを見ていく。何処を向いても、見たことの無い戦闘用の銃が一面に広がっている。これが、軍事用の武器倉庫なのか、と圧倒される感覚。


「こ、これ……全部……ほ、本物、です、よね……」


「多分な……」


ひとまず、キャシーが言っていた武器倉庫を発見した。今回発見するだけで良く、持ち帰ることは頼まれていないため、一通り目に通した二人が帰宅を考え始めた頃。ノーバディが手に持つ電灯の先に、来た扉とは別の扉があった。"EXIT"と書かれたそれに少し首をかしげながらノーバディが近づけば、エイプリルも後ろからついていく。


「……地下シェルターに、非常用扉……」


「……ど、どこか、別の場所にも……入り口が、あるんですかね……?」


懐中電灯を再度口に加え、EXITとかかれた扉のノブに手を掛け、回す。扉を引こうとしたその時。ダンッ、という衝撃音と共に、扉を照らす懐中電灯の光の円の中に、背後から伸びた大きな掌が視界に入る。その手は、ノーバディが開こうとした扉を強く押し閉じた。ノーバディは咄嗟に背中にいるエイプリルの身体を掴み、自分の背後へ強く引っ張った。エイプリルは「い"ッッ!?!」と言う声を漏らしながら、扉に軽く叩きつけられ、扉とノーバディの背中に押されながら挟まれる。状況が理解できないまま、エイプリルは震えた手でノーバディのマントをぎゅう、と掴んでいる。ノーバディは、思わず口に加えた懐中電灯を落としそうになるほど、目の前にいるそれに、視線を向けることで手一杯だった。


「開けない方がいいよ。そっちは、アンデッドがうじゃうじゃいるから」


ノーバディよりも二回りも大きいその男は、真っ黒い瞳で、ノーバディの白い眼をじぃっ、と見つめている。背筋が凍る感覚がする。


___コイツは、キャシーから聞いていたアイツだ。直感がそう語る。リズとチューリエが出会した、長身の男のアンデッド。そいつは、刑務所の中にいる誰よりも大きく、黒い髪と瞳を持ち、人工アンデッドのように喋る。そして、キャシーが"近づくな"と警告をした男だ。


懐中電灯を加えたままの開いた喉で、唾を飲み込む。うまく飲み込み切れず、空気も共に喉を通る。長身の男はノーバディを吟味するように見つめれば、ニイッとその口だけ口角をあげる。


「……ラッキー、人間だ」


その言葉はどういう意を示すのだろうか。少なくとも、生理的な悪寒を感じるには十分すぎる一言だった。男はノーバディを見つめた後、後ろに匿うエイプリルを上から覗き込むように見た。そして、少し首をかしげてノーバディに視線を戻す。


「何でアンデッドなんて守ってるんだ?喋るアンデッドが珍しかったのか?探せばそこら中にいるぞ」


つまらなそうに言葉を話す男の様子に、すぐに手を出すわけでは無さそうだ、とノーバディは小さく深呼吸をする。加えた懐中電灯を手に取り、男に向けて言葉を放つ。


「……何が目的なんだ」


「目的……。僕にそんなの無いよ。ところでお前さ、"グレイソン"って奴、知ってるか?"ジェフリー・グレイソン"」


その名に心臓が脈打つ。キャシーが探している人物と、同じ名だ。エイプリルは思わず、ヒュッ、と喉を鳴らす。男はその声を聞き逃さなかった。ノーバディの上から、扉と背中に挟まるエイプリルを、じぃっと見つめた。


「知ってるのか?お前」


「ぁッ、」


長身の男が視線をエイプリルに近づけるほど、ノーバディは身体をエイプリルの方に寄せる。けれど、視線は合ってしまう。極度の緊張と不安から、「ゥ"ッッ」と嗚咽と共に口を抑える。抑えたくても、思わず催す吐き気に耐えきれず、勢いよく下を向き、吐瀉物を地面に吐いた。男は首をかしげエイプリルの様子をみていれば、ノーバディは懐中電灯を持ったその手で、接近した男の身体を軽く押した。


「……そんな奴は知らない」


「…へぇ、そう。まぁ、いいけど」


「……用がないなら、退いてくれ」


「久々に人間を見つけたのに?」


男はそういいながら、自身の身体を押すノーバディの手に触れた。また悪寒を感じる。気を抜けば目眩で倒れてしまいそうになる感覚。背後で咳き込むエイプリルの声に耳を傾けながら、正気を保ち、平然を装いながら言葉を続けようとした時。男はノーバディの言葉を待つことなくその左腕を強く掴み容赦なく噛みついた。


「ッッ"、!?」


その衝撃で左手に握っていた懐中電灯が床に落ちる。回転しながら床を乱雑に照らし、次第にそれは棚の下に滑り、ただ男の黒い革靴を照らし続けている。腕に噛みついたその歯は、簡単に肉を割き、骨まで容易に突き刺した。男の尖った上下の犬歯は、肉の中でぶつかり、カチッと音を立てる。そこらのアンデッドとは非にならないほどの力に、腕から全身まで激痛を覚える。


「あ"ぁ"ッッッッ!!!!」


カランカラン、と右手に持った角パイプが大きな音を立てて落ちる。男が唾液を腕に垂らしながら口を離せば、ようやくノーバディの身体が地に倒れることを許される。膝をつき、がなり混じりの喘ぎ声をあげ、ノーバディは息を吐く。明らかに一変したノーバディの声色を聞いて、唾液も拭わずエイプリルは顔を上げ、目の前で自分と同じように膝をつくノーバディの背中を見つめる。口元に、ノーバディの赤い血を付着させながら、それを舐めとることもなく、ただ悶える人間を見下ろしていた。その男を見て、エイプリルはほぼ無意識的に身体が動いていた。棚にある銃を手に取り、銃口を真っ直ぐその男に向けた。今までにないほど、息をあげ、汗を流し、見開いた目でじっと男の頭の奥にある脳を見つめている。しかし、きっと誰が見ても、パニック状態だとわかるほどに、呼吸が乱れている。


「……ハッ、ア,……ノッ、ノ、ノーバディ、さんに、これ以上、なに、スゥウ、ハー、…ッする、ンッ、なら、ハァッ、……し、しな、しない、で、くだッさっ、……ハァッ、」


それはエイプリルが初めて行った脅し行為である。しかし、座り込んだまま銃口を向けるエイプリルをみて、男も棚からショットガンを取りエイプリルの頭に向けた。


「どっちの弾が先に当たるかな」


自分の持つ拳銃よりも銃口の長いショットガンを構える男にそう言われても、エイプリルはまともな判断ができる状況ではなかった。かつて、探索の護身用に、とキャシーから聞いたうろ覚えな銃の使い方を指先が覚えていたのか、震えながら、安全装置を外そうと水色の爪を引っ掻けた。だが、エイプリルがトリガーに指を当てるより前に、男がエイプリルに向けたショットガンの銃口を塞ぐ右手が先だった。震えた呼吸を吐きながら、話に耳を傾けていたノーバディは、そのショットガンの銃口を力強く握った。完全に、ではないが、僅かに金属が歪む鈍い音が響く。男はただただ、その光景を見ながら、一言呟いた。


「…………まだ、正気があるのか?」


まるでその一言がキッカケかのように、ノーバディはまた鈍い声をあげて左腕を抑えた。鉛のように重いその腕を地面に置き、充血した目で見つめる。先ほど床に滑り落ちた懐中電灯の光がその腕を照らす。ノーバディの左腕は普通のアンデッドには考えられないほど、気味悪く蠢いていた。青紫色に変色したその皮膚の下に、まるで無数の幼虫が這っているように中を駆け巡っている。そして、ソレは全て上へと上がろう這っている。しかし、ソレが肘より先を進もうとしても、進めることなくそこで消滅していく。


「…………変な奴だな、こんな妙な人間がいるのか。……でも、僕は簡単には死なない。いずれお前も家族になれる」


「死んでまた会おう」


ショットガンをエイプリルの前に投げ捨てて、男は二人に背を向け歩き出した。エイプリルは、その男の後頭部に向け、


___トリガーを引いた。


その弾に、理性的な殺意など籠っていない。素直な怒りによる一弾だった。そしてその弾は真っ直ぐ男の後頭部を貫いた。___しかし、男は平然と歩き続けている。一度、エイプリルの方を振り返り、じっとりとその黒い眼で見つめた後また歩き出した。男が扉を閉めた音が響いた後、エイプリルはカチャン、と銃を地面に落とす。そして、横でだんだんと呼吸がか細くなっていくノーバディを見る。ぼろぼろと涙を溢しながら、ゆっくりと近づく。


「……のーばでぃさん……?」


「………………のーばでぃさん、」


その身体をそっと抱き上げる。自分よりも大きく、しっかりとした男性の身体なのに、とても軽く感じる。ゆっくりと自分の背中に背負えば、今までで一番近い顔から、その口から呼吸音が聞こえる。背中から伝わる心音は、まだドクドクと強く脈打っている。


どうしてこんなことになってしまったんだろう。


早くしなければ。


ノーバディさんが危ない。


わたしのせいで。


わたしが足手まといだったから。


わたしがこうなれば良かったのに。


どうしてあなたが。


ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。


ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい


足が縺れても、靴が脱げようとも、一心不乱に走る。

まだ聞こえる心音を糧に、それに縋りながら。


□□□


(わざわざ待ってるだなんて、流石に気にかけすぎかな)


そう思いつつも、自分の足が動こうとする気配はまるでなかった。壁に寄りかかりながら、気晴らしに一度一本吸いに行こうか、と悩んでいるその時だった。二重扉の外で、聞いたこともないような酷い嗚咽が聞こえた。一瞬、アンデッドが奇襲してきたか、と錯覚しかけるほどのがらがら声は、良く耳を済ませば、聞き馴染みのある声だった。イヤな予感なする。慌ててキャシーを呼ぼうと問診室の前まで来たところで、キャシーも異変に気付いたのか扉前で鉢合わせる形になった。ローザを無視し、キャシーは早足で扉まで向かう。その甲高いヒール音には、明確な怒りが籠っている。直感的にそう感じたのか、呆気にとられたまま、その場でキャシーの背中を見つめ立ち止まってしまった。


キャシーが二重扉の施錠を開ければ、一人の少女が、ぐったりとした様子の青年を背負い、その場で膝を崩した。顔面をくしゃくしゃにしながら、刑務所であげたことの無い程大きな声で泣き叫んだ。


「の"ーばでぃッさ"ん"を"ッ"、だッ"、だずッげで""、ッッぐだざい"""ッ""っ"」


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