第12話 裸蟲の蛹

 寮は濃密な湿気に満ちている。


 放置された布団や肌着などの布類は、ことごとくが腐ってしぼんでおり、しわがれて老いさらばえた乞食が丸まっているようにも見られた。しかし、彼らの尻に敷かれたお恵みを指折り数えてみるなどという気には、トテモではないがなれなかった。たとい、その万年床の隙間に容疑者Kに関する手がかりがあったとしてもだ。


 古倉庫みたような酸っぱくて渋い臭いの中に身を投じる。人間が長く棲み付いていた空間であるからか、先ほどの職員室よりも空気が淀んでいると感じられた。


 柘植の枝葉の奥に閉ざされてより。ヒトの名残――痕跡、排泄物、肺を通った空気などが、徐々に徐々に、獣畜生の毛深い前脚後脚によって新たに侵されている。混じり合っている。


「ゾング号みたい」明石さんがポツリと零す。


 一七八一年、ゾング号事件。


 英吉利イギリスの奴隷船が、阿弗利加アフリカ人奴隷を投荷なげにとして海に沈めたお話。事件の原因としては、重量限界の倍の人数を乗船させたり、途中の島で飲料水を確保する事に失敗したり、目的地であるジャマイカを、一つ手前のイスパニョーラ島だと勘違いした事などが挙げられ、結果的に食糧不足を招き、乗組員の削減を要する事になったのだとか。


 このように、他人の命など替えの利く下駄の鼻緒はなおか何かだと思っている者も世間には少なからずいる。


 ゾング号事件というものを振り返ってみると……避妊をしなかった半端者の男が、孕ませた女にそのまま子供を産ませ、ヤイヨヤイヨと育児を始めたものの、見通しもなければ能力もなく、股座またぐらから面白がってり出したものを今度はおとし紙にくるんで捨てる……そういう事とチットモ変わりがない話のような気がする。サックやタンポンの使い方も知らぬほどアタマの足りていない一部の愚か者にとっては、命の蔓を紡ぐという遺伝子規模の習わしも、ただの痴呆患者の弄便ろうべんに過ぎないのかもしれない。


「例えばの話、カリブ海の藻屑に消えたと思われていた奴隷たちが、ブードゥーだかアグエだかの御業によって生き延びたのだとしたら、夜な夜な、呑気に眠るゾング号の船員を寝台から引きずり下ろして嬲り、彼らがそうしたように美しい女どもを辱めただろう。しかし、虐げられたのが子供となると話は変わってくる。

 子供の目には大人が神のように映るので、理に適ったお叱りと、不条理な叱責との区別が付かず、彼らは自分が悪いのだと錯覚してしまうんだ。だから、親の身勝手で捨てられた事や、窮屈な寮で雑魚寝をさせられている事も、当然のように受け入れてしまうんだろう。これが僕の人生なのだと」


「……でも、その先天的な崇拝も永遠じゃありませんよね。太宰治の小説『津軽』に『大人とは、裏切られた青年の形である』と書かれていますように、純粋さを失い、アイロニーを聴き分ける事ができるようになった時――つまり、先生の話に沿った言い方をするのなら、ヒトは神をいぶかしんだ時に大人になるのではないかと私は思うのです」


 境遇ゆえ、神を語る明石さんはいつも棘のある物言いをした。私の手前、彼女は一言でさえ神を嫌っているなどという自白をした事は無かったけれども、その冷めた素振りからは神仏への信仰心などチットモ感じる事ができなかった。


 胸高に結われた赤いスカーフを解かない限り、明石さんは寡黙で淑やかな女性であったけれど、ただヒトの耳には聞こえないだけで、いつも彼女は絶え間なく神に訴えかけているような気がした。


『このように。情欲にただれた私を、潔癖な貴方は永遠に愛する事など無いでしょうけれど、貴方は、貴方自身が犯した重大な過ちにも気付くべきではありませんか。神よ、貴方は私に愛される機会を失ったのです』


 陽が落ちる。


 ようやく観念した私が布団を捲れば、そこはやはり芥虫の団欒だんらんな住まいとなっていたし、養蜂箱のような戸棚を開けば、干乾びた仔猫の亡骸を目にする羽目になった。


 身を切るような思いで、そうした不快害虫の根城となったパンダ組寮の隅々までをも調べてみたものの、結局、それらは全て徒労に終わった。唯一発掘できたものといえば、千々ちぢに破かれた新興宗教の小冊子だったり、接吻キスをすれば子供を孕むなどという歪曲された性知識を植え付ける絵本読本くらいなものである。


 特に期待を寄せていた為、私はトテモ落胆した。腹癒せに寝台の骨組みを杖で軽く小突いてくとく部屋を後にしようとする。


「エッ……もう出て行ってしまわれるのですか」

「何も出てきやしないさ。骨折り損の草臥くたびれ儲けだ」

「何か見落としがあるかもしれませんよ」

「また日を置いてくればいい。それに、素性の知れない不審者までうろついているんだから、きっともう二人は外で待っているかもしれないよ」


 正直なところ、私はもう帰ってしまいたかった。


 栃君と桓口さんを交えて、柔らかい鶏肉の唐揚げやら麦酒ビールなどの豊かな食事にありつきながら、かつての昔話に華を咲かせてユッタリとした時間を取り戻したかった。そうしてまた、Lucy Stripeをくゆらせながら小説の続きを書いて、友情の充実と、満たされた胃袋とを胸に抱きながら、今日もシットリとした夜のお祭りに溺れていきたかった。


 なおも頑固に捜査を続けようと説得する明石さんには聞く耳を持たないよう、足早に廊下側の戸に歩み寄る私。黄砂でザラザラとした金属の握りに触れると、何故か、それは私のてのひらの中で勝手に右回りに捻れた。

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