第10話 レッドウィンクで盲になる

 数分ほど、そのまま扁蜘蛛ひらたぐもみたく個室で身を潜めていた。火薬のえた臭いが鼻から離れていくまでそうしていた。錆びた蝶番の喘ぎ……経の合唱……拳銃の音が、まだ耳に引き残っている。この戸の向こうで一体何があったのか、桓口さんが何を思って拳銃を発砲したのか、彼女は無事なのか……。


 そうして心臓を打つ音が収まるまで待っていると、また明石さんが私の袖をクイクイッと引っ張る。


先生センセ」彼女は、私の背後を見ながら言った。


 私は既視感デジャヴュを覚えた。明石さんが指差した先で、アイツがこちらを凝視していた光景が脳裡に焼き付いているからだ。あの何を考えているかサッパリ分からぬ白痴の目が、なおも強く訴えるように私を白眼にらみつけていたからだ……。


 しかし、振り返ってみればどうだろう。私は拍子抜けした。取り立てて騒ぎ立てる事もない。そこにはただ、モザイクタイルの壁の一部分が少々崩れ落ちているのみである。


「あまりおどかさないで」私は冷汗を拭った。


 だが、明石さんが指摘したい事は別にあったようだ。


「……いえ。このタイル、どうやら人為的にり抜かれているようなんです。暗くて見えませんが、奥に何かあるような……」


 崩れたタイルの破片を払い落とすと、ねずみが数匹棲みつけるほどの小さな穴が現れた。目を凝らして見れば、慥かに何かが仕舞われている。しかし、このような得体の知れぬ穴に手を突っ込んでみるというのは勇気がいる事だ。取らなければ取らないで事無きを得るのではないか……と及び腰になりながらも、飽くまで捜査という名目で来たからには、私は手首を食い千切られる覚悟で挑む義務がある事を思い出した。


 そんな葛藤を察してか、明石さんは少し呆れたように言った。


「ローマの休日じゃあ無いんですから」そんなふうに明石さんが軽口を叩ける頃には、だいぶ私の緊張も解れていた。


 栃君と桓口さん、彼らと一刻も早く合流しなければならない。そうだ、このチッポケな穴がなんだというのだ。この中に大蜘蛛や芥虫あくたむしが潜んでいようと所詮は人間サマの敵ではないのだ。


 私は意を決して、その穴の中に手を差し入れた。


 すると、指先に厚紙のような触り心地のものが当たった。


 コレに違いないと直感し、さらに腕を伸ばしてその全容を掌中に収めると、それは立方体のカタチをしている。又、どうやら何かの容器のようにも思え、その中身には少なくはない量の液体が貯まっているようであり、いずれにしろ、ヒトの手で隠された物体であるのは明らかである。……今、私が手に掴んでいるものは何なのだろう。小便を注いだペットボトルでもなければ、腐った鼠の亡骸なきがらでもない……。


 変な話ではないか。こうして腕を突っ込んでみたはいいものの、今度は腕を引き抜くのが怖いときた。己の破滅的な空想妄想にはホトホト呆れたものだ。


 後には引けない。そう己に言い聞かせて肝を据えると、私はユックリとそれを穴から引きずり出してみた。


「これは……エッ……ナン、何なんでしょう……」その奇妙奇怪な物体を見ると、あの明石さんでさえ、言葉を詰まらせながら酷く狼狽しているようであった。


 上半分が切り取られた牛乳パックに、腐ってしなびた十数本の鈴蘭すずらんが活けられている。水は臙脂えんじ色に濁り、長い睫毛のようにシナ垂れた鈴蘭……。


 それを見た時の私の気持ちといえば……キタナラシイ物を触ってしまったな、だとか……子供が面白がって小便を貯めたのではないだろうな、だとか……取りも直さず私は、その活花について何かひらめく事など無かったのである。


 怪奇小説の作中でもあれば、ここいらで名探偵がステキな脳髄を働かせて、事件にまつわる謎という謎をアッという間に解き明かしてみせる事ができるのだろうが、とりわけ私は平凡な作家に過ぎなかった。ただの官能小説作家だったのだ。


「マア。子供なんて衝動の塊のようなものだからね。綺麗なお花を見て摘み取りたくなるのは当然っちゃあ当然だろう。これを事件と結び付けるのは難しいような……」そんな曖昧な事をブツクサと言いながら、誤魔化すように私は個室を出る。


 桓口さんが発砲した痕はハッキリと残されていた。モザイクタイルの裏の混凝土コンクリートまで到達した銅の弾頭は、茸型きのこがたにひしゃげて埋もれている。私は、懐から取り出した手巾ハンケチでその弾を包んだ。万が一にでも、他人の目に触れてしまうと桓口さんが面倒を被るからだ。


 跳弾をしていない事や、弾痕の位置から察するに、銃弾は入口から真っ直ぐ発砲されたようである。しかし、それにしては何処にも出血の痕が見当たらない……。


「威嚇射撃でしょうか」

「ウン。しかし何故、桓口さんは逃げたのだろう。相手が威嚇射撃に怯まず襲ってきたのなら、驚いた彼女が反射的に二発目を発砲しても不自然ではないけれど」

「二発目を撃つべきでない……と判断する心の余裕がありながら、逃げたという事ですか」

「ソコなんだよ。つまり彼女は、銃を撃っても無意味だとさとったという事になる」


 桓口さんは、イッタイ何を見たのだろうか。


 そのような釈然としない不気味な疑問を抱きながら、我々は男子便所を後にし、桓口さんらと二手に分かれた時から目星が付いていた私は、急いで施設の中庭へと足を運んでみた。


 金網フェンス際のような有様ではないとはいえ、中庭にも背の低い雑草がやはり蓬々と生い茂っていた。五十坪程度の面積に、砂場、雲梯うんてい、シーソー、ジャングルジムなどの遊具が設けられた子供の遊び場である。


 私は、ぴから児童養護施設で起きたという事故の記録を思い出していた。


『一九八八年、施設を抜け出した女児がジャングルジムから転落して死亡』


 少女が死んで横たわった土を私は踏みしめている。当時と全く変わらない施設の空気が、猶更なおさらその実感を湧き立たせた。そう考えると、こうして中庭に繁茂している雑草どもは、弛緩しかんした少女の遺体から漏れだした血や汗や尿などの体液を少なからず吸っていたのではないか……という度の過ぎた妄想に囚われてしまいそうになる。


 土は皮膚。草は体毛。虫の息。


 嫌なところに来た、と思った。


 ヒトの死臭が染みた場所に来てしまった。


 けれども、そんな私の不快感を知らずに明石さんはズンズンと雑草を掻き分けてジャングルジムの方へと向かうので、仕方がなく彼女の後を追った。


 そうして事故現場である遊具の足元に来たのは良いものの、しかし、辺りを見渡せど桓口さんはおろか栃君の姿も見当たらない。


「二人は何処へ行ったんだ……」


 途方に暮れたように私が呟くと、何やら地面に屈んでいた明石さんが突然悲鳴を上げて尻餅を突いた。何事かと思い、如何どうしたのかと訊ねてみると、彼女はか細い声で「先生」と呼ぶだけであった。


 彼女の足元には一枚の写真があった。


 青く腫れた唇の、少女の遺体が写し出されている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る