第10話 レッドウィンクで盲になる
数分ほど、そのまま
そうして心臓を打つ音が収まるまで待っていると、また明石さんが私の袖をクイクイッと引っ張る。
「
私は
しかし、振り返ってみればどうだろう。私は拍子抜けした。取り立てて騒ぎ立てる事もない。そこにはただ、モザイクタイルの壁の一部分が少々崩れ落ちているのみである。
「あまり
だが、明石さんが指摘したい事は別にあったようだ。
「……いえ。このタイル、どうやら人為的に
崩れたタイルの破片を払い落とすと、
そんな葛藤を察してか、明石さんは少し呆れたように言った。
「ローマの休日じゃあ無いんですから」そんなふうに明石さんが軽口を叩ける頃には、だいぶ私の緊張も解れていた。
栃君と桓口さん、彼らと一刻も早く合流しなければならない。そうだ、このチッポケな穴がなんだというのだ。この中に大蜘蛛や
私は意を決して、その穴の中に手を差し入れた。
すると、指先に厚紙のような触り心地のものが当たった。
コレに違いないと直感し、さらに腕を伸ばしてその全容を掌中に収めると、それは立方体のカタチをしている。又、どうやら何かの容器のようにも思え、その中身には少なくはない量の液体が貯まっているようであり、いずれにしろ、ヒトの手で隠された物体であるのは明らかである。……今、私が手に掴んでいるものは何なのだろう。小便を注いだペットボトルでもなければ、腐った鼠の
変な話ではないか。こうして腕を突っ込んでみたはいいものの、今度は腕を引き抜くのが怖いときた。己の破滅的な空想妄想にはホトホト呆れたものだ。
後には引けない。そう己に言い聞かせて肝を据えると、私はユックリとそれを穴から引きずり出してみた。
「これは……エッ……ナン、何なんでしょう……」その奇妙奇怪な物体を見ると、あの明石さんでさえ、言葉を詰まらせながら酷く狼狽しているようであった。
上半分が切り取られた牛乳パックに、腐って
それを見た時の私の気持ちといえば……キタナラシイ物を触ってしまったな、だとか……子供が面白がって小便を貯めたのではないだろうな、だとか……取りも直さず私は、その活花について何か
怪奇小説の作中でもあれば、ここいらで名探偵がステキな脳髄を働かせて、事件にまつわる謎という謎をアッという間に解き明かしてみせる事ができるのだろうが、とりわけ私は平凡な作家に過ぎなかった。ただの官能小説作家だったのだ。
「マア。子供なんて衝動の塊のようなものだからね。綺麗なお花を見て摘み取りたくなるのは当然っちゃあ当然だろう。これを事件と結び付けるのは難しいような……」そんな曖昧な事をブツクサと言いながら、誤魔化すように私は個室を出る。
桓口さんが発砲した痕はハッキリと残されていた。モザイクタイルの裏の
跳弾をしていない事や、弾痕の位置から察するに、銃弾は入口から真っ直ぐ発砲されたようである。しかし、それにしては何処にも出血の痕が見当たらない……。
「威嚇射撃でしょうか」
「ウン。しかし何故、桓口さんは逃げたのだろう。相手が威嚇射撃に怯まず襲ってきたのなら、驚いた彼女が反射的に二発目を発砲しても不自然ではないけれど」
「二発目を撃つべきでない……と判断する心の余裕がありながら、逃げたという事ですか」
「ソコなんだよ。つまり彼女は、銃を撃っても無意味だと
桓口さんは、イッタイ何を見たのだろうか。
そのような釈然としない不気味な疑問を抱きながら、我々は男子便所を後にし、桓口さんらと二手に分かれた時から目星が付いていた私は、急いで施設の中庭へと足を運んでみた。
私は、ぴから児童養護施設で起きたという事故の記録を思い出していた。
『一九八八年、施設を抜け出した女児がジャングルジムから転落して死亡』
少女が死んで横たわった土を私は踏みしめている。当時と全く変わらない施設の空気が、
土は皮膚。草は体毛。虫の息。
嫌なところに来た、と思った。
ヒトの死臭が染みた場所に来てしまった。
けれども、そんな私の不快感を知らずに明石さんはズンズンと雑草を掻き分けてジャングルジムの方へと向かうので、仕方がなく彼女の後を追った。
そうして事故現場である遊具の足元に来たのは良いものの、しかし、辺りを見渡せど桓口さんはおろか栃君の姿も見当たらない。
「二人は何処へ行ったんだ……」
途方に暮れたように私が呟くと、何やら地面に屈んでいた明石さんが突然悲鳴を上げて尻餅を突いた。何事かと思い、
彼女の足元には一枚の写真があった。
青く腫れた唇の、少女の遺体が写し出されている。
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