第9話 蝉諷経、阿呆陀羅木魚

「名前が分かった事ですし、パンダ組の寮に行けば他にも何か手掛かりがあるかもしれませんね」


 私ほどとは言わないが、同年代と比べてみても明石さんは体が弱いほうなので、苦しそうに咳込んでいるのを見て心配しないわけにはいかなかった。あと小一時間でもこの窮屈な小部屋に籠っていれば、何か変な病気でももらいそうな予感があったので、山椒さんしょうを揉まれた魚の根流しのように、吾々は職員室から飛び出した。


 廊下を、乾いた風が吹き抜けている。ゾロゾロと慌ただしく職員室を抜け出した吾々の肌が一瞬にして干上がった。……もう夕暮れなのだろうか……と思いおもい、窓のほうに目を向けてみると、微かに曇懸くもりがかって仄暗くなってはいるけれど、まだ時刻は三時を回っていないようにも見える。それにしても、あの茹だるような暑さが一斉に東へと引き返してしまったようではないか。


先生センセ」明石さんがそでをクイッと引っ張って、私を呼んだ。


 明石さんはその場で凝然じっと立ちすくんでいた。肩や胸ですら微かにも身動みじろぎをしなかったので……もしや呼吸が止まっているのではないか……と心配するほどであった。


 明石さんの表情に目を向けると、私は彼女を、思わず日本人形か何かと見間違えてしまった。普段は赤みを差していた肌が、まるで白く化粧をしたわらし桐塑人形とうそにんぎょうのごとく冷えて固まったようである。私とは別の方向へと向けられた目元は、背の高い私から見ると、筆で引かれた墨汁インキの一筋のようにも見える。能面。


「ヒトがいます」明石さんが、ユックリと施設の入口の方向を指差す。


 そいつは入口の端からヒョッコリと頭だけを覗かせていた。私の目の視線が、その目の視線と交わった。縦に並んだ・・・・・人間の眼の球が、物言わずにズット私を見ている。


 しわだらけの黒い唇。門歯もんしから臼歯きゅうしにかけて裂け、あらわになった口元。ヒトの歯……ヒト……いや、その毛むくじゃらの何者かは、ヒトの目玉と歯を持ってはいたけれど、いずれにしろ正気の人間であるとは思えなかった。


 如何どうして彼を、古きにわたりここを棲家としていた非社会的人間の痴呆患者ではないと言い切れようか……そんな彼が、目の焦点を一心に定めてこちらを凝視しているというのに、これが危険ではないと真実ほんとうに言い切れようか……。


 桓口さんと栃君も、流石に、その状況の異様さに気が付き始めたようである。吾々は示し合わせる事もなく、音を立てないように摺足すりあしで後退を始めた。丁度、その視線を遮る事ができる斜め後ろの壁沿いへ……あの姿が壁に隠れると、吾々はすぐさま廊下の奥へと駆け出した。


 こうして走るのは久方ぶりの事だった。


 逃げるという一点においては、いつも通りの人生だったが。


 呑気に杖を突いている余裕などはなかった。裾を振り乱して、下駄を蹴たぐり、転がるようにして駆け出した。ジャングルジムの迷路を縫うように、幾つにも折れ曲がった廊下を走り回った。


 元陸上部である栃君と桓口さんは足が速かったので、自然と彼らとは二手に分かれた。彼らは上手く中庭の方へと抜け出したようだったが、背後から砂利を踏みしめるような足音が聞こえたので、私と明石さんは、近くにあった男子便所へと咄嗟に駈けこんだ。


 一番奥の個室。私はすぐに白い仕切りから身を乗り出し、杖を使って隣室の落とし錠を掛けた。それと同時に、便所の戸が開いたのが分かり、私はすぐに頭を引っ込めた。


……ヒタ……ヒタ……。


 石畳に肌肉きにくが吸い付く音がする。彼は跣足はだしなのだろうか。そのように足音に耳を澄ませていると、まず初めに手前の戸が開かれた。


……ギィィィ……ィィィ……ィィィ……。


 爪で掻き毟るように引き伸びていく――蝶番ちょうつがいの錆びた甲高い音が、必死に平静さを保とうとする私の精神を弄ぶ。音が、私の耳やら喉をおかし、皮膚ひふの下に潜り込み、大腸のみぞを這い回っている。肺包の毛細血管の樹形図を、彼らの巣に変えんと進軍している。この蟻走ぎそう感。


 次に、二つ目の戸が開かれた。この男の一挙手一投足の度に、惨たらしく虐待された仔犬が悲鳴を上げるように部屋がいた。二匹の蝶番が、はねを引き裂かれんばかりの悲鳴を上げている。私はその悲鳴の荒縄に首を絞めつけられて、息をする事もままならなかった。


 ついに、男が三つ目の戸の握りに触れたのが分かった。施錠した戸が、何度か小刻みに揺らされる物音。すぐ右斜め前、この白い仕切りの廉隅すみの向こうから漂う男の気配。


 なおも息を潜めていると……ギィィィ……ィィィ……という蝶番の音が段々と、奇妙にも、人間の男性の声に聞こえてきた。十、二十人……サッパリ見当も付かぬほど大勢の男の声が、無数に重なって、一つの虫の擬態のようになっている。


 私は確信した。鼓膜を食い破る以前、私のアタマの中で延々とあの大合唱を続けていた音の正体はこいつなのだ。これこそが、遠巻きに私を白眼にらみ回していた黒き光背の彼らなのだ。


 それにしたって、お釈迦しゃか様が賜った教えを、このように呪わしく血生臭く諷経ふぎんする事があろうか。それは、ヒトの様をした畜生ちくしょう啼声なきごえのようにも聴こえた。心臓の木魚。


 ……ポク・ポク・ポク……。


 肝を握り潰すようなその声に慄いたのか、明石さんが微かに後退あとじさりをすると、便座がずれて大きな物音を立てた。吾々のいずれかが息を呑むのと同時に、あの読経の声はピタリと消えた。


 血の気が一斉に失せ、一箇所に留まっていたカラダの熱が、蜘蛛・・の子を散らすように逃げ出した。カラダが早春の風に溶けだすようになり、その間、「私は自分という存在がイッタイ何処にあるのか」と認知するすべを忘れてしまうほどであった。


 アイツにさとられた。


 その変え難い現実に直面している事で、ロクに息も出来ず、正面の戸、戸の上、足元をただ茫然と見回しているのみである。時が訪れると、無念にも戸は一息に押し破られてしまった。それほど凄まじい音がした。吾々はあまりの事に目を瞑っているしかなかったのだ。


 けれども、何時いつまで経っても男は襲い掛かってこない。


……おかしいぞ……。


 そう思った私は、恐ろしく思いながらもウスウスと目蓋を開いてみた。すると奇妙な事に、正面の戸は未だ閉め切られたままではないか。あの戸を蹴り破るような音は何だったのだろう……そのような事を考えていると突然、この森閑しんかんとした空間をヒトの声が切り裂いた。


「動くな」


 女性の声。私は明石さんと顔を見合わせて、それが紛う事なき桓口さんの声であると確信した。助かった。もう大丈夫だ。私はホッと安堵の息を吐いた。


 それから間もなくして、拳銃の発砲音が鳴り響いた。

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