第9話 蝉諷経、阿呆陀羅木魚
「名前が分かった事ですし、パンダ組の寮に行けば他にも何か手掛かりがあるかもしれませんね」
私ほどとは言わないが、同年代と比べてみても明石さんは体が弱いほうなので、苦しそうに咳込んでいるのを見て心配しないわけにはいかなかった。あと小一時間でもこの窮屈な小部屋に籠っていれば、何か変な病気でも
廊下を、乾いた風が吹き抜けている。ゾロゾロと慌ただしく職員室を抜け出した吾々の肌が一瞬にして干上がった。……もう夕暮れなのだろうか……と思いおもい、窓のほうに目を向けてみると、微かに
「
明石さんはその場で
明石さんの表情に目を向けると、私は彼女を、思わず日本人形か何かと見間違えてしまった。普段は赤みを差していた肌が、まるで白く化粧をした
「ヒトがいます」明石さんが、ユックリと施設の入口の方向を指差す。
そいつは入口の端からヒョッコリと頭だけを覗かせていた。私の目の視線が、その目の視線と交わった。
桓口さんと栃君も、流石に、その状況の異様さに気が付き始めたようである。吾々は示し合わせる事もなく、音を立てないように
こうして走るのは久方ぶりの事だった。
逃げるという一点においては、いつも通りの人生だったが。
呑気に杖を突いている余裕などはなかった。裾を振り乱して、下駄を蹴たぐり、転がるようにして駆け出した。ジャングルジムの迷路を縫うように、幾つにも折れ曲がった廊下を走り回った。
元陸上部である栃君と桓口さんは足が速かったので、自然と彼らとは二手に分かれた。彼らは上手く中庭の方へと抜け出したようだったが、背後から砂利を踏みしめるような足音が聞こえたので、私と明石さんは、近くにあった男子便所へと咄嗟に駈けこんだ。
一番奥の個室。私はすぐに白い仕切りから身を乗り出し、杖を使って隣室の落とし錠を掛けた。それと同時に、便所の戸が開いたのが分かり、私はすぐに頭を引っ込めた。
……ヒタ……ヒタ……。
石畳に
……ギィィィ……ィィィ……ィィィ……。
爪で掻き毟るように引き伸びていく――
次に、二つ目の戸が開かれた。この男の一挙手一投足の度に、惨たらしく虐待された仔犬が悲鳴を上げるように部屋が
ついに、男が三つ目の戸の握りに触れたのが分かった。施錠した戸が、何度か小刻みに揺らされる物音。すぐ右斜め前、この白い仕切りの
私は確信した。鼓膜を食い破る以前、私のアタマの中で延々とあの大合唱を続けていた音の正体はこいつなのだ。これこそが、遠巻きに私を
それにしたって、お
……ポク・ポク・ポク……。
肝を握り潰すようなその声に慄いたのか、明石さんが微かに
血の気が一斉に失せ、一箇所に留まっていたカラダの熱が、
アイツに
その変え難い現実に直面している事で、ロクに息も出来ず、正面の戸、戸の上、足元をただ茫然と見回しているのみである。時が訪れると、無念にも戸は一息に押し破られてしまった。それほど凄まじい音がした。吾々はあまりの事に目を瞑っているしかなかったのだ。
けれども、
……おかしいぞ……。
そう思った私は、恐ろしく思いながらもウスウスと目蓋を開いてみた。すると奇妙な事に、正面の戸は未だ閉め切られたままではないか。あの戸を蹴り破るような音は何だったのだろう……そのような事を考えていると突然、この
「動くな」
女性の声。私は明石さんと顔を見合わせて、それが紛う事なき桓口さんの声であると確信した。助かった。もう大丈夫だ。私はホッと安堵の息を吐いた。
それから間もなくして、拳銃の発砲音が鳴り響いた。
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