第8話 あ行の聖胚

 かつて立ち入りが許されなかった職員室の神秘は、今や、腐敗した襤褸ぼろカーテンの虫食いから光がポツポツと差し込むだけのへやであった。何処から這入り込んできたのか苔が生していたり、壁の罅割れから蔓が侵入したりしていて、他の場所よりも格別に自然へと帰されようとしている雰囲気である。


 しかし、そこに自然回帰や郷愁の美しさを私が見出す事はなかった。人間の汗や皮脂といった排泄物を一刻も早く微生物が食い尽くして、糞尿にして、土に還して、元からそんな図体の大きい生物などいなかったようにしたいという意志を感じる……これに対する私の感想は、やはり徹底して淡白で飽き飽きしたものであった。作家のくせに感受性の乏しいやつだと自分でも思うばかりである。


 幸い、一目見た限りでは鼠などの有毒な動物に巣食われているようではないが、このような高温多湿でいかにも菌類が好みそうな不衛生な場所には長居をしたくはない。


 合皮張りの柔らかいチェアは、経年劣化により内側のスポンジがはみ出している。黄砂に曝された机には、乾いたマーカーペンや、日焼けた印刷用紙の他にも、当時のままの品々が幾つか置き去りにされていたが、その中でも特に私の目を惹いたのは白陶器の小さなさかずきだった。


 その盃の内をこそぎ取ってみると、指の腹に残ったのは白い顆粒かりゅう。私の鼻は、甘いヨーグルトの香りを嗅ぎ取った。


 濁酒どぶろくだ。


 そうしていると、桓口さんもまた窓際で何かを見つけたようである。屈んだ彼女の足元には床下収納と思しきものがあり、底には赤い蓋をされた大きなガラス瓶があった。明石さんが持ち上げるには少々重たそうである。飛び付くように彼女へ手を貸したのは、他でもない好奇心旺盛で不用心な私であった。


 何かを漬け込んでいるような、液体の中に何かがトップリと揺らぐ感触がある。


 蜘蛛の巣が張られた、床下の涼しい暗がりから引っ張り上げた漬物瓶の中味なかみは、油の凝固したものが沈殿したような奇妙な粘液で満たされていた。半分が白、半分が黒といった塩梅である。……例えばこれを推理小説になぞらえて思考するにしても、作家の筋書きにより登場する独白文書や横領金、血塗れの凶器などをあたかも裏切るように差し置いて、まるで判別の付けようがないこの瓶詰のものを、イの一番に私の前へとご登場さしたのだから余計に分からない。


 私は不気味さよりも、その不潔極まりないショッキングな色合いに言葉を失った。これをどう観たものか。あれほど果敢に吾々の先陣を切っていた桓口さんでさえ、このグロテスクな物体には口唇を内側に巻き込んで噛み締めるほど嫌悪感を顕わにしていた。カーテンの陰で、暗い床穴から引き上げたその瓶を輪になって囲んだ吾々の疑念や不安が、重たい煙のようになって吾々自身の喉や肺を詰まらせようとしていた時、瓶の蓋へと手を掛けたのは明石さんだった。


 この時、明石さんは不思議な表情をした。痺れを切らしたかのように眉を顰めて瓶に立ち向かったかと思えば、蓋を空けた途端にハッと吾に返り、まるで自分の意志とは無関係に動いたカラダを叱責するような、どうしてコンナ思い切った事をしたのかと困惑したような表情をしたのだ。


「アッ」と驚いた栃君が静止の声を上げるも、それは蓋が回し開かれてしまうのと同時の事であった。


――四秒。たった四秒ばかりの沈黙である。


――これを一行で済ませてしまおうと考える怠けた作家の小説作品は、この時間を「永遠のように感じた」だとか「一分か一時間か、或いはそれ以上か、分からないほどに時が経った」だというように表現するのかも知れない。


――私にとっては、この沈黙の四秒があまりにも一瞬……文字通り刹那のように思えて……時計の振り子が揺れて戻ってくる間、どうにかその直前の一秒を買い戻せないかという焦燥感に駆られ……という間にまた一秒が経って……その一瞬間の内に、一秒という単位の残酷なほどの短さを余すことなく感じ取って、こんな高価なものを私は今まで無意識に浪費していたのか……というふうに凄まじい不安を覚えたのだ。


――これを簡略して書くなど、あまりに粗末な事だ。


――私は今、後からこの体験を何度もよみがえらせて真摯に執筆へと立ち向かっている。ここまでの言葉を宙へと呟いてみて、まだ不格好かと思い思い、そのためにまた脳髄の中で文章を推敲して、それを字にしていく永久の過程を繰り返している。これを思い返してみて、たったこの数行を書くまでに私が何秒何分何時間の時を費やしたのかが分からない。意識しない方が幸せなのだろうか……諸君は格別気にする必要はない。私みたく何でもかんでも怯えなくて良い。一秒一秒が経つにつれて余生が縮まっていく緩やかな感覚を味わい、一々、身近な時計の数字に気を遣る必要もない。諸君はそこでこの小説を読んで、気分が飽いたら読むのを止めるだけでいいのだ。


 突如、栃君のくぐもった悲鳴のおかげで、私は正気に返してもらえた。彼は目尻に涙を蓄えながら苦悶している。私も遅れて瓶の中味に鼻を近付けて嗅ぐと、その悪臭と来たら、咽頭のどがその汚れた空気を入れまいと勝手に気管を塞いでしまうほどであった。鼻腔から前頭葉までを、返しの付いた針でイッキに刺し貫かれるような酸っぱい刺激臭である。しかし、おかげで瓶の中味の正体が瞬時に理解できた。


 中でも、手巾で口元を蔽いながら桓口さんは確信のある反応を示した。


「濁酒を自家醸造。酒税法違反……マア、今更どうこう出来る話でもないし、こういう誰でも簡単に作れるお酒って法の縛りが緩いんだよね。実家のお婆ちゃんも炬燵こたつの中で発酵させてたくらいだから」

「でも、これ本当にお酒なんですか。黒カビみたいなものが山ほど生えてますけど」


 疑わしそうに明石さんが瓶の中身を覗き込む。


「容器がきちんと殺菌されていればカビは繁殖しない筈だよ。他にも、米粒みたいな大きい不純物が瓶の中に混じっていなければね……」


 机に転がっていたマーカーペンで濁酒の中身をさらってみると、糸状のくずがペンに絡みついた。酷く黒ずんでいたので、それが黒カビの発生源である事は一目瞭然であった。それは一瞬、頭髪の束のようにも見えたが、どうやら繊維のようである。どこからか無造作に千切られた雑草が瓶の中へと沈められてしまったようで、当時、偶然にもこの床下収納の瓶を発見した施設の子供がイタズラをしたような感じである。


 兎も角、結局それが事件と何ら関わりが無いようである事が分かると、捜査の時間も限られていたので、吾々はそれをさっさと元の場所へと戻してしまった。


「件の事故。遊具転落死の少女と、容疑者Kは歳が近かったらしいですね。この施設は年齢層ごとに寮を振り分けていたとの事なので、名簿を見れば何か手掛かりがあるかも知れません」


 栃君の言う通り、机の抽斗ひきだしには担当職員の名が記された末番の名簿が入っていた。それは白陶器の盃が置かれていた机に仕舞われていたようである。パンダが描かれた名簿の表紙を一枚めくると、そこには孤児達の名が一覧で記載されている。


――ここから仮に「転落死の少女をA、名簿の職員をB」と呼称する。


 人名の一つに斜線が引かれている。それが少女Aの名であると吾々は直感した……と共に、この幾つもの人名の中に容疑者Kの本名があるのだという確信を得た。それから室をくまなく調べていると、管理人の机の傍らにある棚から、年毎に撮影された集合写真のファイルを発見した。


 不思議だ。


 その写真を見た桓口さんと私は、どの子が容疑者Kなのか一目で見抜く事が出来た。


 今のような大人びた独特な魅力などは感じられないものの、その人並外れた女性的な美しさ……まるで天使のように静かに佇む彼の様子は、きっと今日こんにちの容疑者Kと一本のへそで結ばれているのだという真実味を帯びていた。しかし、同時に私は、天使という表現から数ミリの間隔で平行しているような異様さを彼の姿から感じ取っていた。


 無垢むくではない。


 それこそ、焼かれる前の陶器粘土をまだ練っているような状態とでも言うべきか。産まれておりながら、まだはいの形をしているような。まだヒトともケモノともつかぬ、肋骨あばらぼねが浮いたメダカのごとき葉脈の胎児……。


 私は、佇んでいる容疑者Kの幼少の写真を見ている内に、段々と、その瞳に白眼にらみ付けられているような感じをさとった。……不愛想に膨れッ面をしている子……恥ずかしそうに顔を隠す子……面白くなさそうに目を逸らしている子……などのような子供たちの中でも、彼だけはシッカリとこちらを凝視しているのだ。写真を見る私と、目が合っている。


 そこで栃君が言った。


「これ。Aちゃんがここに立っているので多分、五十音順の並びですね。名簿と照らし合わせれば容疑者の名前が分かる筈です」


 集合写真と名簿とで交互に目を走らせていると、それは直ぐに私の目に留まった。彼の名は、あ行の早いところに並んでいたからだ。容疑者Kの名は「猪去 過足いさり よぎあし」という、一風変わった珍しい名前であった。


……猪去いさり……過足よぎあし……。


 私はその名を反芻はんすうした。何度か口に出してみて、その舌触りを味わってみた。けれども何故か、ドウニモこれがまた、妙に喉越しが悪いのだ。

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