第8話 あ行の聖胚
かつて立ち入りが許されなかった職員室の神秘は、今や、腐敗した
しかし、そこに自然回帰や郷愁の美しさを私が見出す事はなかった。人間の汗や皮脂といった排泄物を一刻も早く微生物が食い尽くして、糞尿にして、土に還して、元からそんな図体の大きい生物などいなかったようにしたいという意志を感じる……これに対する私の感想は、やはり徹底して淡白で飽き飽きしたものであった。作家のくせに感受性の乏しいやつだと自分でも思うばかりである。
幸い、一目見た限りでは鼠などの有毒な動物に巣食われているようではないが、このような高温多湿でいかにも菌類が好みそうな不衛生な場所には長居をしたくはない。
合皮張りの柔らかいチェアは、経年劣化により内側のスポンジがはみ出している。黄砂に曝された机には、乾いたマーカーペンや、日焼けた印刷用紙の他にも、当時のままの品々が幾つか置き去りにされていたが、その中でも特に私の目を惹いたのは白陶器の小さな
その盃の内をこそぎ取ってみると、指の腹に残ったのは白い
そうしていると、桓口さんもまた窓際で何かを見つけたようである。屈んだ彼女の足元には床下収納と思しきものがあり、底には赤い蓋をされた大きなガラス瓶があった。明石さんが持ち上げるには少々重たそうである。飛び付くように彼女へ手を貸したのは、他でもない好奇心旺盛で不用心な私であった。
何かを漬け込んでいるような、液体の中に何かがトップリと揺らぐ感触がある。
蜘蛛の巣が張られた、床下の涼しい暗がりから引っ張り上げた漬物瓶の
私は不気味さよりも、その不潔極まりないショッキングな色合いに言葉を失った。これをどう観たものか。あれほど果敢に吾々の先陣を切っていた桓口さんでさえ、このグロテスクな物体には口唇を内側に巻き込んで噛み締めるほど嫌悪感を顕わにしていた。カーテンの陰で、暗い床穴から引き上げたその瓶を輪になって囲んだ吾々の疑念や不安が、重たい煙のようになって吾々自身の喉や肺を詰まらせようとしていた時、瓶の蓋へと手を掛けたのは明石さんだった。
この時、明石さんは不思議な表情をした。痺れを切らしたかのように眉を顰めて瓶に立ち向かったかと思えば、蓋を空けた途端にハッと吾に返り、まるで自分の意志とは無関係に動いたカラダを叱責するような、どうしてコンナ思い切った事をしたのかと困惑したような表情をしたのだ。
「アッ」と驚いた栃君が静止の声を上げるも、それは蓋が回し開かれてしまうのと同時の事であった。
――四秒。たった四秒ばかりの沈黙である。
――これを一行で済ませてしまおうと考える怠けた作家の小説作品は、この時間を「永遠のように感じた」だとか「一分か一時間か、或いはそれ以上か、分からないほどに時が経った」だというように表現するのかも知れない。
――私にとっては、この沈黙の四秒があまりにも一瞬……文字通り刹那のように思えて……時計の振り子が揺れて戻ってくる間、どうにかその直前の一秒を買い戻せないかという焦燥感に駆られ……という間にまた一秒が経って……その一瞬間の内に、一秒という単位の残酷なほどの短さを余すことなく感じ取って、こんな高価なものを私は今まで無意識に浪費していたのか……というふうに凄まじい不安を覚えたのだ。
――これを簡略して書くなど、あまりに粗末な事だ。
――私は今、後からこの体験を何度も
突如、栃君のくぐもった悲鳴のおかげで、私は正気に返してもらえた。彼は目尻に涙を蓄えながら苦悶している。私も遅れて瓶の中味に鼻を近付けて嗅ぐと、その悪臭と来たら、
中でも、手巾で口元を蔽いながら桓口さんは確信のある反応を示した。
「濁酒を自家醸造。酒税法違反……マア、今更どうこう出来る話でもないし、こういう誰でも簡単に作れるお酒って法の縛りが緩いんだよね。実家のお婆ちゃんも
「でも、これ本当にお酒なんですか。黒カビみたいなものが山ほど生えてますけど」
疑わしそうに明石さんが瓶の中身を覗き込む。
「容器がきちんと殺菌されていればカビは繁殖しない筈だよ。他にも、米粒みたいな大きい不純物が瓶の中に混じっていなければね……」
机に転がっていたマーカーペンで濁酒の中身を
兎も角、結局それが事件と何ら関わりが無いようである事が分かると、捜査の時間も限られていたので、吾々はそれをさっさと元の場所へと戻してしまった。
「件の事故。遊具転落死の少女と、容疑者Kは歳が近かったらしいですね。この施設は年齢層ごとに寮を振り分けていたとの事なので、名簿を見れば何か手掛かりがあるかも知れません」
栃君の言う通り、机の
――ここから仮に「転落死の少女をA、名簿の職員をB」と呼称する。
人名の一つに斜線が引かれている。それが少女Aの名であると吾々は直感した……と共に、この幾つもの人名の中に容疑者Kの本名があるのだという確信を得た。それから室を
不思議だ。
その写真を見た桓口さんと私は、どの子が容疑者Kなのか一目で見抜く事が出来た。
今のような大人びた独特な魅力などは感じられないものの、その人並外れた女性的な美しさ……まるで天使のように静かに佇む彼の様子は、きっと
それこそ、焼かれる前の陶器粘土をまだ練っているような状態とでも言うべきか。産まれておりながら、まだ
私は、佇んでいる容疑者Kの幼少の写真を見ている内に、段々と、その瞳に
そこで栃君が言った。
「これ。Aちゃんがここに立っているので多分、五十音順の並びですね。名簿と照らし合わせれば容疑者の名前が分かる筈です」
集合写真と名簿とで交互に目を走らせていると、それは直ぐに私の目に留まった。彼の名は、あ行の早いところに並んでいたからだ。容疑者Kの名は「
……
私はその名を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます