第7話 油舐泥舐

 桓口さんのスーツの衣嚢ポケットから取り出された古絹の切れ端には、造りの簡単な鍵が一つ包まれていた。鏡面が曇って、少し錆びただけの状態の良い鍵である。


 私はそれを取って、金網の戸に掛けられた南京錠と見比べてみた。


 錆や緑青に蔽われて一回りふくよかになった錠前に、果たしてこれを挿し込めるのだろうか……?……とさえ疑ってしまうほどである。これらのつがいは互いに大きく異なってしまっていて、言うなればアゲハの雄と、蚕の雌ぐらい違って……いや、吾ながらおかしな喩えをした。


 ともあれ、この南京錠。雨風に曝されていたとはいえ、十余年の間に出来上がったものとはにわかに信じ難く、年季の具合だけでみれば、星宮神社にある枯れた手水屋の銅屋根ぐらいの感じである。


 そうして、いざ錠穴に鍵を突っ込んでみようとすると、私は思わず……ムッ……となって、暫くそのまま硬直した。それと言うのも、どうやら鍵穴はチューイングガムで塞がれてしまっていたのだ。


「誰だ。こんな巫戯化ふざけた真似をした奴は」


 歯をキリキリと噛み合わせて栃君が苛立った。


「仕方がないので、目立たない側面の金網を工具で破ってしまいましょうか」


 明石さんは、車のトランクに栃君の工具箱が積まれている事を知っていた。悪知恵がよく働く娘だ。桓口さんはその様子を呆れたように見て、責めるように私を白眼にらみつけてきた。


「もう事情は聴いたけど、あの子が居候し始めたのは十二歳の時なんでしょ。帳君、貴方イッタイどういう教育をしたの」

「私を見て育ったら、そらイタズラの一つや二つ。鉛筆の摘まみ方より先に覚えますよ」

「貴方も高校の時から、先生を翻弄させたり、規則の抜け道を探るのが好きだったわよね。気に入らない体育教師の車に、河原で見つけた捨て猫を山ほど押し込んで、その先生を一週間くらい寝込ませてやったっけ。おまけにその犯人は、全然無関係なクラスの虐めっ子という話になって……」

「私の授業態度は真面目でしたから。偏見っていうのは怖いですよ。一旦好かれてしまえば、一部の教師は私をお抱えの密偵のようにして信頼しましたから……クラスの雰囲気はどうだ……概ね問題はありません……誰々が虐められているようだが本当なのか……ハイ、実は隣のクラスのあの子が陰で云々……みたいな塩梅に」

「フフ……」

「いえ、あの教師は別ですよ。ご存じの通り、私の体育の成績は良くありませんでしたから。運動部だった桓口さんにとっては、あまり面白い話ではないかもしれませんが……」

「ううん。アイツは運動部の女子生徒にセクハラする事でも有名だったんだから。いい気味だわ。新聞部にそのネタが舞い込んで、それが一面を飾った時なんてもう……」


……バチン!……とカッターの噛み合うような音が吾々の会話を遮った。金網の柵には、吾々のような大人でも這い蹲れば抜けて行かれるほどの小穴が空いていた。


「このくらいの穴なら……ナア、栃君」


 彼の美事なお手前に感心していると、明後日の方向から誰かが素ッ頓狂な声を上げた。何の声かと思い、辺りを見回してみれば、それは誰でもない栃君のものだった。開いたトランクの蓋の縁から顔を突き出して、肩眉を上げて私を見ている。彼はまだ工具箱の中からフェンスカッターを取り出してもいなかった。


「お手々を清めませんと」


 そうして明石さんが私に水筒を寄越した。言葉の意味も分からずに水筒を受け取ると、握った水筒がカナブンの甲殻のようにヌルりと滑って、危うく取り落としそうになった処で漸く、この手が汚らしく真ッ黒に濡れているのだと気が付いた。


「そんな目立たない所をよく見つけられましたね。イタズラ好きな子供が隠れて空けたんでしょうか」

「私が見つけた……」

「エエ。先生がこの穴を見つけられたんでしょう」


 古いグリセリンで指が黒くなって、爪の隙間には鉄臭い錆が挟まっている。これではまるで、植物の蔓に絡め取られて半ば閉じかけていた金網の穴を、私が素手で無理やりに抉じ開けたようである……そうなのだろうか……よく考えて、思い出してみたらそんな気がする。無意識に開けたのかもしれない。


 狼狽えて、桓口さんの方を見た。けれども、彼女もまた私の慌てた様子を見て不思議そうにしているばかりである。何を言いたいのか、何を訊ねたいのか。それを全然理解できていないような感じであったので、私は益々訳が分からなくなった。……そうしている内に、ひょっとして私はホントウに、桓口さんと昔話に浸っている間に、いつの間にかこの抜け道を探り当ててしまって、歪んで閉じかけていた金網の小穴を、何の気なしに力づくで抉じ開けたのではないか知らん……という話を信じる気になってきた


「じゃあ、行きましょっか」


 怯みもせず進み入った彼らに遅れて、私も後から穴を潜った。


 ささくれた棘だらけの穴をくぐると、先ず、金網を破って出て行きたがっている柘植の枝に押し返された。それはまるで岸壁を削らんとする波濤のような迫力で、私はその間にギュウッと挟まれていた。


 この中を無理やり掻き分けて進んだために、私の手や顔は枝葉に撫で回され、引ッ掻き回されたりした。植物の細指が、裾や袖や襟から触れてくる無遠慮な感触は、何かの拍子に服の内側へと蜘蛛や毛虫が這入はいり込んできても分からない……と思うほどだった。けれども、私はその場で立ち止まるよりも、一刻も早くこのような怪虫地獄から抜け出したい一心で、唇を横にキュッと結び、黙々と出口を目指した。


 柘植の葉は、青竹色をしていた。


 煤竹色や老竹色よりもモット若々しい色だ。その色をズンズンと掻き分けているうちに、何故か、段々と私の呼吸がいつもより楽になってきたのが分かった。煙草のすすに塗れた肺が洗い流されていくようだった。


 ようやく植物の根っこが及ばぬ石畳まで抜け出られた私は、およそ二十年ぶりにぴから児童養護施設へと帰郷したのであった。


 すぐ正面には、小さな子供たちが背伸びをして水を飲める石造りの水道蛇口があって、その下水溝シンクには干乾びた雀の巣が転がっている。石畳の上には禽獣とりや猫の糞が幾つも散らばり、人が去ったのを見計らった雑草が花壇を占領している。かつて孤児の彼らが愛を込めて育てたゼラニウムの花の香りは消えている……寂しいような……懐かしいような……私はよく本を読む仔だったので、このおかげで塔婆帳の小説には皮肉めいた花の言葉遊びがよく登場する。


 こうして眺めていると、空き缶や雑誌などの不法投棄はなく、ましてやカラースプレーで吹きかけられた幼稚な落書きが見られない事からも、件の閉鎖より今日まで立入りが厳しく禁じられていた事が分かった。全てが当時のままなのだ。


 懐からり紙を取り出して、正面にある矩形くけいのモニュメントの土埃やらつるを払ってみると『ぴから』という文字が見えてくる。表面から掘り抜かれた鈍色にびいろの明朝体。その字の並びを見るなり、私はトテモ強い郷愁の念に駆られた。


 ぴから児童養護施設は一階建ての建築物たてものである。子供らは年齢層ごとに三つの寮へと振り分けられ、それぞれ《ゾウ組、パンダ組、キリン組》などといった動物の名を冠していて、中でも私はパンダ組だった。


「あの一件のお礼に、父に連れられて鯉幟こいのぼりを寄付した事がまるで昨日のようです」


 郷愁の思い出からいぶり出されるようで、一息に厭な気分にされた。私はその気持ちを表情に出さないようにした。


「訳を話さなかったから、施設の大人は目を白黒させていたね。君のおかげで、お節句には毎年大きな鯉がヒラヒラと中庭の宙を泳ぐようになったんだ。五メートルはあったかな。私はその腹の下をくぐるのが好きだったよ。桃色や水色、橙色……綺麗だったなア……」


 階段を上がって玄関へ行くと、硝子張りの戸は経年により割れてしまっていて、日に灼かれたステッカーは半ば剥がれて外側に丸まっている。私は割れた硝子の隙間から鍵を開け、握りの近くにある、膨れた扁蜘蛛ひらたぐもの巣に気を遣りながら施設の中に入った。


 窓が閉め切られているから屋内にまでは獣や植物の浸食はそれほど及んでいなかったが、一九九五年ごろに発生した阪神淡路大震災の影響を少なからず受けているのか、幾つかの下駄箱は倒れ、廊下には亀裂が見られ、天井の蛍光灯はダラリと垂れさがっている。


「まず手近な職員室から調べてみましょうか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る