1章 児童養護施設の人食い

第6話 ジャーゴン・エロティカ

 ――冒頭へ戻る。


 容疑者Kの本名も、事件の新たな手掛かりも、何も掴む事は出来なかった。臆病な私は、ヒトの盲目的な信仰精神ドグマを目の当たりにして尻込みしてしまったに違いない。容疑者Kの犯行を白日の下へと晒す唯一の光明として警察に期待されている私は、その実、連続殺人鬼の共謀者。呉越同舟ごえつどうしゅうの恥晒し。


 しかし、桓口さんにはその事を話さなかった。


 あくまで容疑者Kの思想を伝えるだけに留めた。彼女は、自分の職務を全うする事で犯罪者の欲望を満たす事になるジレンマや、署の同僚に秘密を作る事に躊躇いを感じているようであったが、一先ず、私情は挟まずに仕事へと徹する事にしたようである。


 私が署を出た時、時刻は既に四時を回っていた。駐車場にはパールホワイトの日産プレジデントが留まっており、運転席には居眠りをした栃君がいた。どうやら明石さんを眠りに就かせた後で、いつまでも帰ってこない私たちを心配して、態々警察署まで車を走らせてきたようだ。警察署でヤクザが居眠りなど……と、吾々の間で張り詰めていた空気は微かに柔らかくなった。


 翌日の昼頃、栃君の遣いが空調機器を設置していった後のお話である。明石さんと栃君を含め、自宅の和室では小さな集会が開かれた。懐かしき面々だ。


 桓口さんは、自前のラップトップの画面に《ぴから児童養護施設》の正面写真とアクセス経路を映しだした。今は既に閉鎖されて廃墟となっている。


 それにしても、あすこで起きた過去の事件に容疑者Kが絡んでいるという言質を取った翌日には、もう既に廃墟の管理人へと立入り許可を貰っていたというのだから桓口さんの行動力には脱帽である。


 〒三五〇-××××

 埼玉県坂戸市南坂戸×丁目三〇番地一号

 電話番号〇四九-×××-××××


 前述した、私の古巣である児童養護施設とはこれのことだ。つまり私が施設を卒業した数年後には、あの施設にフラリとやって来た容疑者Kが、何やら物騒な事件を引き起こして施設を閉鎖せざるを得ない状況にまで陥れたという事になる。想像よりもずっと、私と容疑者Kの接点は多かったのだ。


 施設は商店街からそう遠くない寂れた場所にある。今はもう足が踏み入れられないほど背高な草木が繁茂し、錆びた有刺鉄線におおわれ、まるでイバラ姫の眠るお城のような有様になっている事を私は知っていた。


 画面の記事には、ぴから児童養護施設についてこう書かれている。


『一九八八年、施設を抜け出した女児がジャングルジムから転落して死亡。同年、ヒグマの獣害事件によって職員から死傷者を出した事が繋がり、施設は安全責任を問われて翌年閉鎖』


 山地に囲まれた坂戸市では、人里に降りてきたヒグマやサルなどの獣が畑を荒らしていくのは、あまり珍しい光景ではない。鬱蒼とした緑がそこかしこにあるこの町では、森の奥に棲む姿の見えない生き物たちとヒトが暗黙の了解の下で共生している。特にこのような夏場は、森の奥深くの湿った土の香りが梅雨に流されてくるので、より一層その気配を感じ取ることが出来るだろう。


 そういう意味で言えば、ぴから児童養護施設は件の人食いヒグマによって、人間の手から森へと奪還されてしまったのかもしれない。雨に曝され、土埃に塗れ、微風に運ばれた種子が根を下し、濃緑色のベールに覆われたアノ施設の内側の様子を知る者はいないのだから。


「じゃあナニか。十数年も経ってるオンボロ屋敷に、その人殺しの痕跡が残されてるっていうのか」


 栃君は、捜査の方針に懐疑的な姿勢を崩さなかった。


「容疑者Kはこの事件について何も手がかりを残さなかった。いえ、この時期には彼の求める……犯行の有形化……という欲求が具体的に意識に浮かんでいなかったとしたら、わざと痕跡を残すという考えには至らなかったと思う。だから、この捜査が錯綜しない為に、敢えて彼が情報を絞ったと考えるなら、いずれにしろここから調べる他には無いわ」

「手取り足取りだな。なら、わざわざ先生を出張らせる必要はねえ。そっちの警官を数人寄越せば済む話じゃないか」


 栃君の言い分は正しい。本来なら、私のような素人よりも証拠物の発見に長けた人材を寄越すべきだが、しかし、それは容疑者Kの提示した規則に抵触する行為なのだ。


「容疑者Kは、私と桓口さんを人員として固めたつもりでいる。それに、警官と私は面識がないので、彼のいう……塔婆帳の知人……にはあたらないんだ」

「そのKという方は拘置所にいらっしゃるのですよね。でしたら、捜査の手段くらい多少ズルをしてもバレないと思いますが……」と明石さんが言った。

「話によると、彼は長期にわたって四件の殺人事件に絡んでいるそうだ。だというのに、今までただの一度も容疑者の候補に挙がった事がないのだとか。すると、主犯である容疑者Kの他に、彼に助力する共犯者がいないとも限らない。幸い、彼は対話に応じる姿勢を見せてくれている。迂闊にルールを破りでもしない限り、彼は捜査に協力的である筈だ。今はこの関係に誠実であることが賢明だろう」


 昼食を終えた吾々は、早速、桓口さんの私用車でぴから児童養護施設へと向かった。目的地は、私の住む団地から一キロメートル先の西にあった。


 昔は、施設が主催した祭りなども頻繁にあって、通りにはいつも子供の駈け回る足音が聞こえていたものだが、施設が閉鎖されてからは人影がメッキリと消えてしまっている。古びた住宅には、もはやヒトが住んでいるのかすらも判別できない。……ここはホントウに私が住んでいる南坂戸の一部なのか……私が幼少を育った古巣に間違いはないのか……そんな錯視じみた気分になった。


 吾々は、ぴから児童養護施設と思しき場所に到着した。大人の背丈よりも高い金網フェンスは、薄緑色の塗装が摩耗して、内側から樹皮のようなデコボコの錆が剥き出しになっている。金網の隙間からは、蓬々とした柘植つげが自然樹形の思いのままに伸び切っていて、その根元の蔭からは枯れた鈴蘭がはみ出ている。


「こう言っちゃあナンですが、見る影もありませんね」と栃君が言った。

「アレですよ。当時はここの金網の前をよく不良が通ってね。施設のガキンチョと中坊がよく取引をしていたもので、あの時期はここいらも人気がさかんだった」

「ヘエ。どんな取引です」

「成年誌のヌード写真と、若い女性職員のパンティ」

「ハア。慥かにお盛ん・・・ですね……」


 桓口さんが吾々男どもを咎めた。


「そこの男子諸君。下世話なハナシは止して頂戴。子供の前なんだから」


 桓口さんがそう言うと、ふと明石さんが彼女を見上げる。


「刑事さんは、ストロベリーパイを召し上がられた経験はおありですか」

「エッ、無いけど……」

「左様ですか。あの団地の裏手の坂を下ったとこにある歓楽街に良いお店があるんですよ。さか海月くらげっていうんですけど」

「コラ、大人を揶揄からかうもんじゃないぞ。一体何処でそんな言葉を覚えたんだ」


 堪らず止めに入った私に一言。


「先生の小説ですよ」

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