第5話 虫の報せ
商店街を後にした
……車窓から見下ろせる場所にヒトは見当たらない。
色街通りやシャッター商店街、坂戸駅のほうに行けば人通りがあるのかもしれないが、この南坂戸は昭和時代に取り残された半田舎に過ぎず、目に留まるのは爺婆か小学生のような極端な年齢層ばかりである。交通の便も悪く、この南坂戸という区域から隣町へと行くには、ロクに舗装もされていない劣悪な細道を通るしかない。
この街にいる若者は、泣くなく左遷された親の都合に振り回される哀れな青春喪失者と、骨の髄まで馬糞臭い田舎文化に取り込まれてしまった時代変遷の犠牲者である。
このような南坂戸がつい数年前まで、
少なくとも私が子供の頃は、雨風に
『――城山大学病院前。城山大学病院前。
お降りの際は、足元にお気をつけください』
車掌のアナウンスが聞こえると、会話を打ち切って吾々はバスから降りた。それから大学病院の駐車場を抜けて、あそこでレクシスの車体に寄り掛かっている大学生たちが見向きもしないような寂れた未舗装の細道に入り、小さな墓場の前を無言で歩いた。
昨日の色街通りとは正反対にある道で、玄関から帰宅するには、どうしてもこの墓場を視界に入れねばならぬ所に団地の正門はあった。そのせいで私はこちらに回るのが
このような不景気のせいで、孤独死した者の先祖の無縁仏がそこいらに山ほど
水鉢には腐って溶けてしまった菊。
香炉には、いつ焚いたのかも
墓石は摩耗して虫食いのような小さな穴ぼこが出来ており、まるで何年も体を清めなかった乞食のごとき緑色の
私は、この荒れ果てた墓場の前を通るのが恐ろしいと言いつつも、本当は、その健気で
吾々が団地の正門に到着すると、その
吾々の姿に気が付くと明石さんは小走りになった。あまりにも重たそうだったので、私からも彼女に
「少し見ないうちにまたお綺麗になられましたね」栃君が言った。
先程の店員の男とは違い、明石さんは、栃君に軽く微笑んでお辞儀をするまでの余裕があった。暴力団のボンを前にしておきながら肝が据わっているというか……処女を捨てた女は強し……という言葉が相応しい振る舞いであった。
「ご苦労様。家事は良いから汗を流してきなさい。少々早めだが、私が夕食を作っておこう」
「では、お言葉に甘えますね」
頬を伝う汗をグイと
「良い女性に成長されましたね。いや、それにしても驚きました。俺を見て怯まない女性なんて、あの
「ウン。そういえばその
そう訊ねながら明石さんの背中を追い、団地の通路を歩いていく。
「それがですね。近頃、どうもアイツの職場が穏やかでないようでして。コッチから連絡を取ってみても中々電話に出ないんです」
「何か派手な死傷事件でもあれば君の耳に入りそうなものだけど」
「ええ、奇妙なのはそこなんですよ。ヤクの摘発や違法風俗店の取り締まり、それこそ強盗、誘拐、殺人なんて物騒な事が起これば一発で情報が舞い込んでくるんですがね。ただ……」
そこで栃君は歯切れを悪くする。敢えて私が追究してみると、栃君は散らかったアタマの中身を言語化しようと少々
「……南入間の警察連中は鞭を打たれたように慌ただしいのにも関わらず、町の連中はケロッとしているんです。まるで本当に何も知らないって
私は
「実は
「ハハ。それは小説の読み過ぎですよ」
吾々が玄関に入ると、山盛りの着替えとバスタオルを抱き締めた明石さんが、
埃だらけの
「先生。これじゃあ熱中症になっちまいます。平屋がダメなら、せめてエアコンの一つくらいプレゼントさせてくださいよ」
「いや、それは――」
私が断ろうとすると、すかさず彼は言葉を
「いいえ。今回ばかりは
そうしていると、風呂から上がった明石さんが涼しげな寝間着の格好で和室に入ってきた。
「お腹減っちゃいましたね」
吾々は、玄関隣の押入れから折畳みの
ベーコン、
食事の締めには瓶コーラを贅沢にラッパ飲みして、胸の中央に滞っていた物がスーッと洗い流されていく感覚を楽しんだ。
夏だ。そんな実感を得ると、また来年の夏までは精々生きていこうという前向きな気持ちになる。そうして、テレビに映るクイズ番組の音声を聞き流しながら、食後の豊かな沈黙にシミジミと浸っていると、
「ハア、珍しい。こんな夜更けに、それも私の家に何の御用が……」
二人を和室に残したまま、軽く返事をしながら玄関の方へと向かった。下駄箱の前まで辿り着くと、私の足音を聴いた客人が戸をコンコンと叩いた。
「どちらさまでしょう」
そう訊ねると、聞き覚えのある女の声が返ってきた。
「帳君、
妙に落着きのない声色だった。
戸を引くと、スッカリと陽が落ちてしまった
そして又、当時は栃君も陸上部員の一人であった。性別の違いこそあれど、桓口さんと栃君は、同じ陸上選手として切磋琢磨しあった好敵手であった……が、ある日、桓口さんが警察学校を志望している旨を公表すると、己と同様に体育大学を志望しているものとばかり思っていた栃君は、当然の如く憤慨した。
私が思うに、栃君が、好敵手とはまた別の特別な想いを桓口さんへ寄せていた事は明らかであるし、そんな彼女が暴力団とは天敵にあるような立場に就きたいと言い出したのだから、当時の彼の落胆ぶりは見るに堪えなかった。
以来、二人が犬猿の仲となったのは周知の事実であったが、根底の部分では未だに互いを友人として認め合っているのか、度々、それぞれが何かに付けて私の自宅に上がり込むようになった。特に理由もなく集会できるこの家は、直接約束を取り付けるのが気恥ずかしいと感じる彼らにとってトテモ都合が良かったのかもしれない。……なので今回も、栃君が私の家に上がり込んだという噂を嗅ぎ付けて、桓口さんがやってきたのだとばかり思っていた。しかし、どうやら今回は少々事情が違うようである。
その甘栗色のショートヘアから光が失われている様子は、南入間警察署が
桓口さんが身嗜みにヒト一倍気を遣う方である事をよく知っていたので、そのスーツパンツの裾に、まるで苔のように分厚い
「夜分遅くにごめんなさい。久々の再会を喜びたい処ではあるんだけど、チョット緊急の用事でね。今すぐ南入間警察署まで来てもらいたいの」
「エッ、私が何かお
心臓の鼓動が跳ね上がった。身内でもない身元不明の少女を自宅に住まわせている……そんな不審な様子に疑いをもった近隣住民が、義心に駆られて通報でもしたのだろうか。
「まさか、とんでもない」桓口さんは、すかさず私の想像をキッパリと否定した。
ハッと我に返ったように、桓口さんは声を
「別に帳君を何らかの容疑で警察署に連行しようって話じゃないの。ただ、署内で起こった問題にどうしても帳君が必要で……」
「ハア。事情は分かりかねますが、何の取り柄もない私でお役に立つのであれば、喜んで協力いたします」
私がそう返事をすると、今まで緊張で強張っていた桓口さんの表情が微かに
そこで突然、背後から栃君の大きな声が発せられる。
「デカチョコ。何でここに」
桓口さんの名前を置き換えると「
桓口さんは栃君を見るなり目を見開いた。
久々にその名で呼ばれたからという理由もあるのだろう。
「栃君。どうやら私に御用があるみたいなのでチョット署まで。明石さんを頼んだよ」
彼が「俺も付いていきます」という言葉を喉の奥に必死に留めているのがよく分かった。けれども私は知っている。私が桓口さんの頼みを断れないように、彼もまた私の頼みを断れないのだと。
栃君は、桓口さんの顔を
「分かりました」
彼は和室の方へと引き返して行った。
私は、桓口さんの後を追って玄関を抜け出た。
その一歩を踏み越えた瞬間、まるで
広葉樹の
光背を背負う仏の姿は見えなかったが、何かがこちらを見ている事だけは分かった。遠巻きに、物言わぬ地蔵のように微動だにせず、目玉だけを見開いて私を凝視しているような生々しい視線……。
うなじから
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