第4話 自分の心臓を見たことがないように
翌日、私は担当編集の下へと赴いた。明石さんに代筆を任せている官能小説と、私が自力で書き進めている怪奇小説の草稿を、古びて
担当編集の方は、妙齢の既婚者だった。左薬指に嵌ったダイヤモンドの結婚指輪を見て、何故だか私はいつも居心地が悪くなる。以前から彼女を好いていた……などという
先に官能小説の草稿を提出すると、彼女は満足げに頷いて、その内容が吾々の間で予め練っておいた
ペンネームは本名をそのまま名乗っていて、当初は編集者の方々に再三の確認を取られるほど心配されていたが、あの時の私は、私自身でも不思議なほど
官能小説の確認が終わると、次に例の怪奇小説の草稿を提出した。そうすると、決まって彼女は苦笑を浮かべて困った表情をした。私の性質上、得意分野であるエロチズムを濃厚に絡めた官能小説はそれなりに人気があったけれども、反面、ヒトよりもずっと保身的に振る舞って生きてきた私の怪奇小説はずっと淡泊だった。構成や言葉選びはそれなりに書けているのかもしれないが、官能小説とは違い、性欲や背徳感のような燃料の宛てがない怪奇小説は、どこか
それを読み終わると、彼女は決まってこう言った。
「じゃあ、原稿貰っていくね」
彼女が去った後、この窮屈で白に統一された
南坂戸中学校の通りを抜けて、古い養護施設の廃墟の前を過ぎ、やや背高なビルディングの歩道を杖を突きながらヨタヨタと歩いた。途中、目が留まった家電製品店の陳列棚には、新品のブラウン管テレビが幾つも並んでおり、見本の画面には、ちょうど何かの授賞式が映し出されていた。パリッとした小綺麗な背広を着て、左胸に赤い造花を刺し、自信に満ちみちた表情で壇上に上がる。
ふと目の焦点が近くなって、広い硝子に私の姿が映し出された。
千切れかけた下駄の鼻緒。
杖を突き立てねばヨロめいてしまう枯柳のような背高の木偶の坊。
耳周りから襟足を刈り上げただけの蓬々とした黒髪。
睡眠不足で浮き出た目の隈と、落ち窪んだ眼孔に潜む淀んだ灰色の瞳。
尖った鼻……痩せこけた頬……蒼褪めた横長の唇……。
見るに堪えなくなって、私は黒縁の丸眼鏡をかけた。
硝子の壁に背を
懐より抜き出したルーシー・ストライプの煙草を一本、五寸程度の軽銀製シガレットホルダーに挿入して、先端をオイルライターで軽く焦がした。
こんなものを態々使うのには勿論、ヤニを
私はシガレットホルダーのチップを軽く噛んだ。
一旦吹き戻して
この煙草を
真相はこうだ。ヨロコビやカナシミといった言葉等々に、いくつも同音異義語があるのと同じようなもので……悲しみ、哀しみ、愴しみ……喜び、歓び、悦び……そんな感情ですら、すぐ身近にいる明石さんだって、どのように感じているのかを相互に理解し得るのはトテモ難しい事だ。
担当編集の薬指に嵌った結婚指輪に対して覚えた感情が、嫉妬や性的倒錯なのかすら……テレビに映された受賞者を見た私の中に渦巻くこの感情が、
魅惑的な女性と肌を重ねたい。プックリと膨れた紅色の唇にキスをしたい。その形の良い乳房に触れてみたい……そのような、畜生ですら神仏に授かり得た欲を書き出せる反面、人間という種の表情の裏に隠された、複雑怪奇を極めた個々の心理を書き出すのは、私にとってあまりにも困難な事だった。それに踏み込んで行くついでに、塔婆帳というやつの思想を改まって分析せざるを得ない事になってしまい、ひた隠しにしてきた浅ましさを浮き彫りにしてしまうのが恐ろしくて自然と目を背けている。臆病者だ。
「ああ、いらっしゃいませ。お決まりの商品は御座いますか?」
通りを
私が家を留守にしている間、家事やら勉強やらに追われている明石さんを労うためにも、このくらいの娯楽は与えて然るべきだ。
「ビデオデッキが付属した品で、何かお薦めの物などありますか?」
「成程。では、あちらなど如何でしょうか」店員は、棚に陳列されたブラウン管テレビの一つを硝子越しに指差した。
昭和のレトロテレビを彷彿とさせる、赤い天然木の
そうして、ブラウン管テレビを段ボール箱へと梱包し終え、自宅に配送するかどうかという話をしていたところで、背後から威勢の良い男の声が私を呼んだ。
「先生」
私を先生などと呼ぶのは、知人の中でもこの氏素性を知るごく限られた人物であったので、振り返らなくても声の正体を推察する事が出来た。
「先生ってば」
脇からヒョッコリと顔を出したこの男は、
袖を捲り上げた桃色のワイシャツ……革のベルトを通したホワイトデニム……高価そうな茶革のサンダルもさる事ながら、極めつけはブリーチを掛けた短髪ときている。派手な身なりをした男だ。
私と頭が並ぶくらいの六尺程度の背丈でありながら筋骨隆々なカラダをしていて、青白い肌の私と並んでみると小麦色の肌は際立って見えた。
まさに私とは対極にいるような人間である。
店員は
……ハハハ……
「ご無沙汰しております。近々、俺の方から足を運ぼうと思っていたんですが、まさかこんな場所でお会いできるとは思いませんでした」
栃君は爽やかな笑顔を浮かべながら、
「お久しぶり。以前に会った時より、また立派に成長されたようだ」
「いえいえ、俺には勿体ないお言葉です。ところで、先生さえ宜しければ御自宅にお邪魔したいんですが、この後はもうお帰りで?」
私が「ええ」と短く答えると、彼は地面に置き去りにされた段ボール箱を軽々と担ぎ上げた。こんな芸当ができるのは、精々ウェイトリフティングの選手くらいなものだろう。到底私には出来ない事だ。
「ありがとう。出版社から家までは遠くてね。とても助かるよ」
「
「こんな乞食みたいな私を尊敬してくれる数少ないファンに、そんな事させられない。遠慮しておく」
「乞食だなんてそんな。先生は立派な御方ですよ」
栃易は幼少の頃、近所の子供からよく虐められるような病弱な少年だった。彼の父親はとても厳格な男で、子供のするような下らない
栃君とは同じ年なので、その頃の私はまだ養護施設にいたのだと思う。三人掛かりで寄って
彼らの背後から忍び寄って、
まともに立ち上がれず地面に這い
しかし、あの制裁は私にとって一種の
先程の煙草の味の話題に繋げるのならば、栃易にとって塔婆帳は正義のヒーローに見えたのかもしれないが、その一方で、私にとっては醜い八つ当たりに過ぎなかったのだ。それは又、彼から向けられる崇拝の眼差しが、未だ過去の功績にしがみつこうとする私の恥ずべき性を
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