第4話 自分の心臓を見たことがないように

 翌日、私は担当編集の下へと赴いた。明石さんに代筆を任せている官能小説と、私が自力で書き進めている怪奇小説の草稿を、古びてひび割れた革鞄に押し込んで……。


 担当編集の方は、妙齢の既婚者だった。左薬指に嵌ったダイヤモンドの結婚指輪を見て、何故だか私はいつも居心地が悪くなる。以前から彼女を好いていた……などという後暗うしろぐらい嫉妬ではなく、純粋に私は「結婚」や「家庭」という言葉に対して何かうとましさを感じているようだった。


 先に官能小説の草稿を提出すると、彼女は満足げに頷いて、その内容が吾々の間で予め練っておいた筋書プロット通りである事を喜んでいた。度々スランプにも似た状態に陥りながらも提出期限をキッチリと厳守する私の事を、この出版社の人間は好意的に捉えている。


 ペンネームは本名をそのまま名乗っていて、当初は編集者の方々に再三の確認を取られるほど心配されていたが、あの時の私は、私自身でも不思議なほどかたくなに、自作品に本名を記載して出版してもらう事へのこだわりを見せていたようだ。塔婆とうばとばり。私は、私が思っている以上にその名前に深い執着を持っていた。


 官能小説の確認が終わると、次に例の怪奇小説の草稿を提出した。そうすると、決まって彼女は苦笑を浮かべて困った表情をした。私の性質上、得意分野であるエロチズムを濃厚に絡めた官能小説はそれなりに人気があったけれども、反面、ヒトよりもずっと保身的に振る舞って生きてきた私の怪奇小説はずっと淡泊だった。構成や言葉選びはそれなりに書けているのかもしれないが、官能小説とは違い、性欲や背徳感のような燃料の宛てがない怪奇小説は、どこか空々そらぞらしい感じがした。ハリボテの世界と、布綿で出来た人間と、新聞紙の切り抜きを並べたような言葉。


 それを読み終わると、彼女は決まってこう言った。


「じゃあ、原稿貰っていくね」


 彼女が去った後、この窮屈で白に統一された病室こしつには、官能小説作家の塔婆帳と、卓子テーブルの上に残った怪奇小説の草稿だけが置き去りにされた。そうして憤慨するでもなく、悔し涙を流すでもなく、私はトテモ申し訳ない気持ちになりながら出版社のロビーを抜けて外に出た。


 南坂戸中学校の通りを抜けて、古い養護施設の廃墟の前を過ぎ、やや背高なビルディングの歩道を杖を突きながらヨタヨタと歩いた。途中、目が留まった家電製品店の陳列棚には、新品のブラウン管テレビが幾つも並んでおり、見本の画面には、ちょうど何かの授賞式が映し出されていた。パリッとした小綺麗な背広を着て、左胸に赤い造花を刺し、自信に満ちみちた表情で壇上に上がる。

 ふと目の焦点が近くなって、広い硝子に私の姿が映し出された。


 消炭けしずみ色の帯で締めた煤竹すすたけ色の着物。

 千切れかけた下駄の鼻緒。

 杖を突き立てねばヨロめいてしまう枯柳のような背高の木偶の坊。

 耳周りから襟足を刈り上げただけの蓬々とした黒髪。

 睡眠不足で浮き出た目の隈と、落ち窪んだ眼孔に潜む淀んだ灰色の瞳。

 尖った鼻……痩せこけた頬……蒼褪めた横長の唇……。


 見るに堪えなくなって、私は黒縁の丸眼鏡をかけた。


 硝子の壁に背をもたれた。

 懐より抜き出したルーシー・ストライプの煙草を一本、五寸程度の軽銀製シガレットホルダーに挿入して、先端をオイルライターで軽く焦がした。


 こんなものを態々使うのには勿論、ヤニをすという目的もあったけれど、それとはまた別に、私は煙草を吸うのが他人ひとより下手だったので、どうしても流れてくる煙が目に染みてしまうからだった。


 私はシガレットホルダーのチップを軽く噛んだ。


 一旦吹き戻して蘞味えぐみを飛ばしてから、葉をダメにしないようユックリと煙を口腔くちに導く。煙が口腔全体に広がるのを味わい、喉奥の舌根にまで慎重に煙を通わせ、十分に煙を楽しみ尽くしてから外へと吐き出す。


 この煙草を巴旦杏アーモンド玉蜀黍トウモロコシのように穏やかな甘い風味であると感じるのは、私だけなのだろうか。感性の違いとは真に興味深いもので、私にとっての味覚だったり色覚だったり諸感覚器官は、他人には全く違うように設計されているるのかもしれない。いつも前触れもなく始まる耳鳴りは、実のところ健康的な肉体の生理作用で、当たり前だと思っているから誰も言わないし医学論文にもしないので、誰しも日常的にアタマの中で蝉の大群を飼っているのかもしれない。大胆な濡れ場を書いた文でも、それとなく別の隠語に置き換えて表現しているので、斜め読みをしていると何も不自然ではない日常風景を描いたものとしか読めないような事にも似ているか……?……否、違うか。


 真相はこうだ。ヨロコビやカナシミといった言葉等々に、いくつも同音異義語があるのと同じようなもので……悲しみ、哀しみ、愴しみ……喜び、歓び、悦び……そんな感情ですら、すぐ身近にいる明石さんだって、どのように感じているのかを相互に理解し得るのはトテモ難しい事だ。


 担当編集の薬指に嵌った結婚指輪に対して覚えた感情が、嫉妬や性的倒錯なのかすら……テレビに映された受賞者を見た私の中に渦巻くこの感情が、羨望せんぼううらみなのかすら……分からない。共通の解答が無いのだから、自分の感情に対して「こうである」と安易に名を与える事は出来ない。


 魅惑的な女性と肌を重ねたい。プックリと膨れた紅色の唇にキスをしたい。その形の良い乳房に触れてみたい……そのような、畜生ですら神仏に授かり得た欲を書き出せる反面、人間という種の表情の裏に隠された、複雑怪奇を極めた個々の心理を書き出すのは、私にとってあまりにも困難な事だった。それに踏み込んで行くついでに、塔婆帳というやつの思想を改まって分析せざるを得ない事になってしまい、ひた隠しにしてきた浅ましさを浮き彫りにしてしまうのが恐ろしくて自然と目を背けている。臆病者だ。


「ああ、いらっしゃいませ。お決まりの商品は御座いますか?」


 通りを藁帚わらぼうきで掃いていた中年の男性店員が、私の姿に気が付いた。そういえば自宅にテレビなど無かったな……と、あまりにも今更な事実が発覚した私は、良い機会だと思ってテレビを購入する事にした。


 私が家を留守にしている間、家事やら勉強やらに追われている明石さんを労うためにも、このくらいの娯楽は与えて然るべきだ。


「ビデオデッキが付属した品で、何かお薦めの物などありますか?」

「成程。では、あちらなど如何でしょうか」店員は、棚に陳列されたブラウン管テレビの一つを硝子越しに指差した。


 昭和のレトロテレビを彷彿とさせる、赤い天然木の筐体きょうたいで包まれた品である。画面の下には蓋をされたビデオデッキが確かに付属しており、スピーカーの音質もそれなりに良い。私はそれを購入する旨を伝え、他にも『機械仕掛けのオレンジ』を含めたビデオテープをあわせて何本か購入していく事にした。


 そうして、ブラウン管テレビを段ボール箱へと梱包し終え、自宅に配送するかどうかという話をしていたところで、背後から威勢の良い男の声が私を呼んだ。


「先生」


 私を先生などと呼ぶのは、知人の中でもこの氏素性を知るごく限られた人物であったので、振り返らなくても声の正体を推察する事が出来た。


「先生ってば」


 脇からヒョッコリと顔を出したこの男は、とちのき やすし。珍しい名前だが、蜥蜴とかげという漢字から虫偏むしへんを除いた言葉遊びなので、どちらかと言えば記憶しやすい部類の名前である。


 袖を捲り上げた桃色のワイシャツ……革のベルトを通したホワイトデニム……高価そうな茶革のサンダルもさる事ながら、極めつけはブリーチを掛けた短髪ときている。派手な身なりをした男だ。


 私と頭が並ぶくらいの六尺程度の背丈でありながら筋骨隆々なカラダをしていて、青白い肌の私と並んでみると小麦色の肌は際立って見えた。

 まさに私とは対極にいるような人間である。


 店員はとちのき君を見るなりギョッとした表情になって、深々とお辞儀をした後、店の奥へと逃げ込んでいった……というのも、彼こそは南坂戸のみならず埼玉県では広く名の知れた暴力団の若頭であったからだ。


……ハハハ……否々いやいや、私が真実ほんとうに彼のような反社会的勢力と密接な繋がりを持っていたのか如何どうか……という点については、そちらのご想像にお任せしたい。チョットした私のお茶目から生まれた創作人物なのかもしれないし、正に今、どこかで、吾々と同じように皮膚かわの下に血を通わせている生きた・・・人間なのかもしれない。


「ご無沙汰しております。近々、俺の方から足を運ぼうと思っていたんですが、まさかこんな場所でお会いできるとは思いませんでした」


 栃君は爽やかな笑顔を浮かべながら、かしこまった態度で私に挨拶をした。


「お久しぶり。以前に会った時より、また立派に成長されたようだ」

「いえいえ、俺には勿体ないお言葉です。ところで、先生さえ宜しければ御自宅にお邪魔したいんですが、この後はもうお帰りで?」


 私が「ええ」と短く答えると、彼は地面に置き去りにされた段ボール箱を軽々と担ぎ上げた。こんな芸当ができるのは、精々ウェイトリフティングの選手くらいなものだろう。到底私には出来ない事だ。


「ありがとう。出版社から家までは遠くてね。とても助かるよ」

とばり先生。差し出がましい事を言うようですが、平屋の戸建てくらい俺が用意して差し上げるのに」

「こんな乞食みたいな私を尊敬してくれる数少ないファンに、そんな事させられない。遠慮しておく」

「乞食だなんてそんな。先生は立派な御方ですよ」


 栃易は幼少の頃、近所の子供からよく虐められるような病弱な少年だった。彼の父親はとても厳格な男で、子供のするような下らないしゃもの喧嘩は、子供の内で解決するべきだと教育していたのである。


 栃君とは同じ年なので、その頃の私はまだ養護施設にいたのだと思う。三人掛かりで寄ってたかってむごい仕打ちをされていた現場を見かねた私が、栃君の助けに加わった事をおぼえている。まだ私の内側に正義感のようなお気持ちがあった頃の話だ。


 彼らの背後から忍び寄って、木造こづくりの棍棒バットでアンヨをこれでもかと滅多殴りにしてやった事も憶えている。虐められた栃君の悲鳴が大人に聞かれないよう、わざと人気のない施設の裏側に連れ込んだその狡猾さが、彼らにとって最大の失態である事を思い知らせてやった。


 まともに立ち上がれず地面に這いつくばった彼らに、官能小説で学んだキタナラシイ罵詈雑言ばりぞうごんを思いつくままに彼らへと叩きつけてやると、その翌日から、栃君は二度と虐められなくなったようだった。それ以来、大人になった今でも、彼は私を神か何かのようにあがめている。義理堅い男だ。


 しかし、あの制裁は私にとって一種のさ晴らしに過ぎなかった。物心つく前から施設にいた私は、その生活に対して何一つ不満を抱かなかったけれど、やはり子供ながらに思うところがあったのかもしれない。


 先程の煙草の味の話題に繋げるのならば、栃易にとって塔婆帳は正義のヒーローに見えたのかもしれないが、その一方で、私にとっては醜い八つ当たりに過ぎなかったのだ。それは又、彼から向けられる崇拝の眼差しが、未だ過去の功績にしがみつこうとする私の恥ずべき性を水面みなもに引き揚げようとする釣針であるように。深く深く私の口角こうかくを刺し貫いて、上へと吊り上げている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る