第3話 爛れた夜

 ボンヤリと光を放つ和紙提燈が吊られ、砂の塗壁ぬりかべに囲まれた八畳の和室。さきほど乗り越えてきた磨硝子窓の壁には、二人分の羽毛布団と枕が折り畳まれて寄せられている。その向かいにはダイニングキッチンとを隔てる白茶けたふすまがあり、右側には官能小説や怪奇小説の塔が幾つか屹立していて、その壁には簡素なカレンダーと……『時計仕掛けのオレンジ』のワンシーンが切り抜かれたポスターを並べて鋲を刺してある。


 主人公のアレックスが、リドロックで目蓋をじ開けられてルドヴィコ療法を施術され、あまりの恐怖に歯を食いしばりながらこちらを見つめているである。このポスターを飾っている理由としては、私が個人的に気に入っている映画だから……というだけではなかった。


 小学生が使う通学路の電柱に貼り付けられているアレを見た事があるだろうか。ギョロリと見開かれた人間の目の球が描かれた、犯罪防止をうたう啓発ポスター。視線を感じると犯罪的な行為に躊躇ためらいを覚え、無意識にかしこまる人間心理を利用した――言ってしまえば、ある種、強迫的で攻撃的な意味合いをもつ矯正器具とも呼べる。


 私は、教師のように堅固な道徳観念を持ち合わせた、人間ではないので、何をしでかすか分からない不安定なやつだった。その為、その監視の目として、私はこのポスターを目立つ場所に貼り付けていたのだった。しかし、ねやに就いた時までジロジロと監視されるのは尻にムズ痒さを覚えなくもなかったけれども、そのくらいの過剰さが私には必要なのだと思う。


 部屋の中央に置かれた扇風機が勿体らしく振り向いてくる。ボーッと放心していた私は、その生温なまぬるい風に吹かれた事で、自分は今、小説の執筆をしているのだという事を思い出した。……とはいえ、執筆・・という表現には少々語弊があった。この作業中、私はあくまでも語り部に過ぎなかった。


 私は目が弱い。


 こうして分厚いレンズが嵌った丸眼鏡を掛けている訳は、そこにあった。何度も落とした眼鏡のレンズは所々傷付いていて、フレームも皮脂で色褪せているが、いくら小説で稼ぎが増えたとしても私の貧乏性は変わらなかったので、新たに買い替える気など起きなかったのだ。


 兎も角、そういう事情があって私の小説は明石さんが代筆してくれている。所謂ゴーストライターなどのような不名誉なモノではない。口頭で伝え、明石さんがラップトップから磁気媒体に記録してくれているのだ。


 煩悩と色欲にまみれた官能小説を書く仕事を、良い歳をした大人が、年端もいかない女子高生に手伝わせている。その情けなさ……。


 文机ふづくえの前で明石さんが行儀よく正座している。私はその対面から胡坐あぐらを掻いて、閉じた扇子で顳顬こめかみをポクポクと叩きながら構想を練っている。この作業風景も見慣れたものだった。しかし、ふとした拍子に集中力が切れた際、自然と目を惹かれてしまう明石さんのなまめかしい居住まいには、まだどうにも悩まされて仕方がない。


 あの廃神社で初めて出会った十二歳の頃と比べてみても、彼女の肉体は年齢不相応なほどに魅力的な成長を遂げていた。……丸く実った乳房は、黒と灰白はい色のセーラー服に情欲を掻き立てる膨らみを作り、その腰や臀部でんぶは、さながら熟れた女が発する色香にち溢れている。……プリーツスカートから覗く、その黒いタイツを穿いた脚が目に留まれば、太腿ふともも脹脛ふくらはぎが淑やかに畳まれた隙間でクニクニと歪む様子が見て取れ、その肉のしなやかさを十分に感じさせる。……天井の和紙提燈に照らされて、煌めく黒髪の御河童おかっぱ。眉のうえで綺麗に切り揃えられた前髪。時折、その毛先を指で弄ぶ姿は、彼女が十六歳である事実を危うく忘れさせるほどの魔性を秘めていた。無垢な魔性を。

 明石さんは、ラップトップの画面から視線を上げて私を見た。


とばり先生。禁煙された訳でもあるまいし、仕事中くらい別に遠慮なさらなくても良いんですよ。先生の吸ってる煙草の香りが好きなんです私。お気に入りのルーシー・ストライプだって取っておいたんですから」


 日ノ丸印が特徴的な煙草の小箱が、私のほうに差し出される。

 私はそれを文机の端っこへと遠ざけた。


「ありがとう。後でね」


 私がそう短く答えると、彼女は軽く咳払いをした。


「そうは言われましても、一時間も経って原稿用紙一枚分も書き上げられていないのは流石に調子が良いとは思えません」

「申し訳ない。しかし、書きたいものが見付からないんだからしょうがない」

「去年は気が狂ったように官能小説ばかり書いていらしたのに。何かあったのですか」

「いいかい、明石さん。ロクすっぽ文学の勉強もせずに、感覚と衝動だけで作家をしようとするとこうなるんだ。決して私みたいな懶怠者やくざものにだけは成っちゃアいけないぞ」

「……その点に関してはマア色々と物申したい事がありますが、今夜はそういう事にしておきましょう」


 明石さんがラップトップを閉じる。そうして座布団から徐に立ち上がり、和紙提燈の紐を引っ張って灯りを消すと、まるでめられた烏賊いかのように虚空は色を失った。仄暗くなった和室の中で、私と明石さんの立てる物音がカタチをもって這い回っている。


 胸高に結われていた真っ赤なスカーフを解いた音が聞こえる……ポリエステルの布が擦れる音が近寄ってくる……私が胡坐を掻いている一枚の畳に、ヒト一人分の重みがユックリと侵入してきて、私の膝と膝の間にまで這い寄ってくる……ぬるい夏の夜風とは異なった、痺れるような人肌の温かみが空気を伝って感じられる……。


 私はその引力とも斥力せきりょくとも付かぬ生々しい存在感に、惹かれるような押し退けられるような心持ちになりながら、すぐ近くの壁にまで追い詰められた。


 質量を伴ったぬくもりは、やがて熱となり、私の右耳に触れるかどうかという所まで接近してきた。火傷しそうなほど熱い吐息が、この耳をゾワリとくすぐった時、私の皮膚の下を通う血の流れは、何処かへと吸い取られるように早まった。


 包装を破く音。

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