第2話 堕落の作家

 金属みを帯びた無機質な耳鳴りの音が、私の有機質なアタマの内側から途切れなく響き渡っている。曖昧に揺蕩う私の意識がプカプカと浮き沈みするのを追い掛けるように、その耳鳴りは遠ざかったり近付いたりしている……。


 それはまるで不気味なほど統率が取れた蝉時雨の大合唱のようであった。昼間、思い思いに鳴き喚いていた蝉どもが、いつしか私が気付かないうちに、その何千何億もの群れを引き連れて、この耳の奥に飛び込んできたのだ。……かと思えば、それらの音は次々に消え薄れていって……ピロピロピロ……といった蟋蟀こおろぎの鳴き声が点々と、遠くから控えめに鳴り響くだけになった。


 平成十二年八月二十五日。

 私は煤竹色の着物を、消炭色の帯で締めるという如何にも焦臭そうな風貌で、埼玉県坂戸市の南坂戸にある色街通りから、その帰路を独りで歩いていた。皆が納涼祭で山車やら屋台やらの隙間を行き交っている間、私は摺鉦チャンチキや横笛を聞き流しながら、タンポンを噛ませた奥院を小太鼓の音に合わせてトントンと叩くお遊戯をしていた。


 陰湿な細道を暫く歩いていると、提燈の灯りがスッカリ見えなくなった。小太鼓の音色も……カランコロン……とアスファルトをひた蹴る下駄の音に入れ替わっていた。狗尾草に挟まれた緩やかな一本坂をそのまま上っていると、路傍の左ッかわに、ジメジメと湿気に満ちたオドロオドロシイ林が現れてきた。それから、道路に少々流れ出してしまっている砂利道を辿って、私は星宮神社の裏口に入った。


 百坪程度の半ば荒れ果てた敷地の中に……枯れた小さな手水舎と……カラの神馬小舎……鳥居に続く下り階段の手前に聳える、注連縄を巻かれた御神木……敷地の半分もない小ぢんまりとした本殿……。


 私は、その本殿の向拝のきざはしを謙虚に上った。鈴は鳴らさずに、賽銭箱のうえへと白酒を供えた。白酒を供えるのは週に一度、賽銭箱に五円玉を投げ入れるのは習慣となって長い。しかし、それは敬虔な仏教徒の資格を証明する為の儀式ではなく、飽くまで自分が地獄に転がり落ちた時に少しでも楽をするべく、命の蔓を腕いっぱいに買い漁っているようなつもりだった。……いつか地獄に落ちる。その予感がある。この恐れから逃れる為に、こうして仏様の機嫌取りをしている。


 こいつは、お世辞にも素敵な人間とは呼べなかった。日照権を損ねた団地の一階に、枯葉を貼り付けたハダカネズミのように棲みついて、大して愉快でもない小説を端金の為に書き散らかしている。ロクに高校も出ず、児童養護施設のガキ大将から厚意でもらった官能小説を読み耽っていただけの付け焼刃で、二十六歳にもなって色欲に塗れたキタナラシイ文を綴っている……。たとい口がひん曲がっても立派な人間とは呼ばれず、勉学にも浅い、貞操の意識も弛みきった、まさに風に吹かれる消炭のような男であった。


 南無阿弥陀仏。アア、仏様。せっかく頂きました御命を、このように穢して貴方にお返しするのが申し訳なくて……申し訳なくて……そんな事を片隅で考えながら、阿婆擦れの肌を愛しそうに撫でている……そんな人間であった。


 こうして合掌し、恥だの罪だのを懺悔している時、私の心は僅かに清らかになった。……けれども、その浅ましい変身願望を仏様はたしかに見抜かれていた筈だ。私は、そのどこからか向けられる非難と呵責の視線に鋭く射抜かれながら、静謐に瞑っていた目蓋をユックリと開いて、また徐に階を下って行った。


 階を下りて、正面に聳える御神木から右手にある……神馬小舎裏の薄緑色の鉄柵フェンスの一箇所に、この星宮神社に隣接する団地の塀へと繋がる近道がある事を知っているのは私くらいなものだった。私は、着物の裾が鉄柵のささくれに引っ掛からないように、又、誰かに怪しまれないように忍び足で、鉄柵に空いた穴を注意深く潜った。


 塀と建物の隙間は大きなネズミが一匹通れるくらいの窮屈な間隔だったので、私は鉄柵を潜り抜けた後、一旦下駄を脱いで持ち替えてから、塀の上へと跣足はだしで渡った。ここから直ぐ目と鼻の先にある、一箇所だけ窓の格子が外れた部屋こそが私の住まいだった。


……コン・ココン・コン・コン……コン・コン……。


 私は『猫踏んじゃった』のリズムで、その磨硝子の窓を叩いてみた。すると直ぐに窓が開かれて、内側からは十六歳の若い娘が顔を覗かせた。割烹着を着た彼女は、塀の上にいる私を軽く見上げた。


先生センセ。お仕事を放ほったらかして遊びに行かれるとは何事でしょうか」


 彼女の名は、樫木かしのき 明石あかし


 この付近の通信制高校に通う女子高生だが、私と彼女との関係にはやや込み入った事情が介在した。……先ず、私の職業が作家であると前述で明らかにした通り、明石さんが私を「先生」と呼ぶのは何も難しい事はない、正にそのままの意味であった。


 けれども、もしも私がこの事態を見聞きした第三の者であれば、そんな事よりも何故、二十六歳の男と、年端もいかぬ娘が、一つ屋根の下で同棲しているのかについて問い質さねばならぬ義務があっただろう。しかし、それを説明するには、やはりまた込み入った話になる。このような段落で、数十行も掛けてそれを筆舌にして語り尽すには早計、かつあまりにも無駄が多かった……ので、明石さんの過去については、また後程語る事にしようと思う。もう少し詳細に言えば、この小説の第三節にて。


 掻い摘んで言えば、明石さんはヒト免疫不全ウィルスに感染していた。吹出物が一つもない、この美しい顔立ちの少女にまさかそのような秘密事があるなどとは到底誰も思いもしなかった。しかし、この病気とはそういうものだ。『美しい花には棘がある』などと気障ったらしい表現を使うつもりはないが、この言葉が似合う女性は、私の知り得る限り、明石さんくらいなものである。そして、鈴蘭のように嫋やかな彼女にとって、取りも直さず棘とは毒の事であった。彼女自身の生命すらも脅かす、寄生虫の如き毒であった。


 明石さんの名誉の為に断言しておくと、彼女は清廉潔白な女性である。決して卑しい淫売などではない。小児性愛者と思しき男性に、かつて暴行を受けた事が原因であった。彼女が八歳の幼い子供であった時、何の前触れもなく誘拐され、彼女は数日の内に骨髄まで穢されたのだ。


 小学校を卒業するまでの当面、両親は明石さんの面倒を見る事にした。時が来ると、両親は中学三年分の学費が入金された通帳を手渡して、彼女を実家から勘当した。それが明石さんにとって幸か不幸かは曖昧なところであった。……そうして行く宛てもなく、寂れた星宮神社の母屋の中で飢え死にしかけているところを見掛けたのは、他でもない私であった。明石さんを保護し、その後に「家事をする。仕事の手伝いもする」という鬼気迫る明石さんの威勢に負けて、口説き落とされて、仕方なく居候として家に置いているというだけの情けないお話であった。


 勿論、明石さんの通帳には指先も触れてはいない。それどころか日頃の献身のおかげで仕事の稼ぎが増えたので、恩返しのつもりで明石さんの高校進学を援助した程である。明石さんの特異な事情を知る者は学校側でもごく少数のみで、今のところは彼女にとっても極めて居心地が良い状況にある筈だ。けれども、両親に疎まれた事や、幼少期に性暴力を受けた事などが災いし、明石さんは頻繁に私との肉体関係を求めるようになっていた。


 自傷行為。愛情の飢え。性依存。そのようなものが複雑に絡み合って、八つ当たり気味に私へと矛先が向いているような気がした。


 私は清廉な人間ではない。この快楽的な関係を浅ましくも利用しているのかもしれない。いや、きっとそうに違いなかった。私は弁解のしようがないほど心のキタナラシイ男だったので、明石さんと私との間に交わされた不文律に服従したのだ。


 仏様、これを読まれているどなたか。これを存分に叱責し、非難してください。このような人間は、世にも悍ましい醜悪で悪辣な非人間であると。これより貴方が繙かれる本は、こういうものです。以上を十分な警告としたうえで、初めてこの物語の主人公の名を明らかにします。私の名前は、塔婆とうば とばり

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