蚕月臥卵

八柳 心傍

プロローグ

第1話 容疑者K

 午後十一時を回る。


 ブラインドで閉め切られた警察署の窓からは、狭まった幾筋の灯りが煌々と照っている。硝子がらす張りの戸から署内に入ると、受付はおろかエントランスには人がおらず、小さな電球の弱々しい光が、ポツポツと虚空に降り注いでいるのみである。吾々はその光を頼りに仄暗いエントランスを歩き、そこから左の奥にある階段を上がった。


 この着物の色よりも微かに息のある老竹おいたけ色が、そこいらの空間を染め上げている。その為か、私は自らの臓腑はらわたを掻き分けて歩いていくような錯覚を覚えた。……私の腹の中を私が進み、その私の腹の中を私が進み……といった、たしかに私は上階へと向かっている筈なのに、ズンズンとどことも知れぬ地底へと下っていっているような心底息苦しい感覚を味わっていた。


 妙に長ったらしく感じる階段を通じて二階へと上がり、眩い人工灯の中へと足を踏み入れた時、私は、生き埋めにされるような思いからようやく解放されたのだと安堵を覚えた。けれども、そこには又、一種奇怪な風景が広がっていた。


 二階の刑事部には桓口さんと同じスーツ姿の警察官の姿が多数あり、一様にして草臥くたびれ果てた表情をしていた。彼らは何かに憑りつかれたように、おびただしい文字にビッシリと埋め尽された紙面へと穴が空くほど目を凝らしておりながら、それでいて誰も言葉を交わさず、独り言も零さず、ひたすらに書類を捲る音だけをそこに充満させていた。まるで黒い活字の向こう側に、在りもしない金塊でも視ているかのようである。


 隅で「面会室」と掲げた戸の前にいる男に、桓口さんが声を掛ける。男は目だけを動かして私を一瞥し、「彼が……」と何か言い淀んだ。


 桓口さんは一つ頷いて「録音の準備を」と男に指示すると、それから私の方へと振り返った。唇を真横に引き伸ばして改まった様子から察するに、どうやら彼女は件の事情についてようやく打ち明けてくれる気になったようである。


「御免なさい。ここまで連れてきて一度も事情を打ち明けなかったのは卑怯よね。車内で説明しておけば良かったんだけど、あたしったら失念してしまって……」

「構いませんよ。事情を聴かずに引き受けたのは私ですから」


 戸の向こう側にいるであろう人物に聴き取られぬよう、彼女はより一層声を潜めながら次のような事を語った。


 先日、身元不明の青年が何の前触れもなく署に姿を現した。彼はKと名乗り、「過去、この南坂戸で起きた四つの死亡事件の犯人は自分だ」と告白した。当初、彼の対応に当たっていた警察官は、それを単なる子供の悪戯だとして真面目に取り合わなかった。


 しかし、十三年前に児童養護施設の遊具から落下した少女の事故を例に挙げ、「自分がその子を殺害した犯人だ」と青年が証言した辺りから、事情聴取をしていた者らの目の色が変わり始めた。


 その幼女の遺体は家族葬で内々に弔われ、事故の存在どころか、娘の氏素性すら公表される事もなくヒッソリと消失していった筈なのだが、青年はその娘の実名や生年月日も全て知り抜いていたのである。又、他の事件にも紐付くかと思われる、如何いかにも真実味を帯びた情報を仄めかした事からも、急遽、彼の身柄を南入間警察署にて拘束する事となった……が、それまで九官鳥のようにお喋りをしていた彼は、自分が拘束される事が決まった途端、口を堅く閉ざしてしまった。


 このように黙秘をした場合、自首による減刑は効力を持たない。けれども、彼は自分の置かれている現状についてよく理解しているようであった。理解しておきながら、意図的に黙秘を続け、弁護士を呼ぶ素振りさえ見せない。


 程なくして、これが自首ではなく、単なる罪の示唆しさに過ぎないのだと分かった時、普段は冷静沈着な警察官でさえ怒りを露わにした。一回り、二回りも歳の離れた大人の激しい憤慨を前にしておきながらも、彼の、蛙の面に水といった様子を見れば、たとえ生爪を剥がされようとも口を割らない堅固さを誰もが感じ取っただろう。


 法律上の拘束期間を過ぎても、彼はそれについてチットモ言及せず、身柄の解放を求めるような事もしなかった。そのうち苔でも生すのではないだろうかと思われるほど、まるで地蔵のように沈黙を保っていた彼が唐突に口を開いたのは、他でもない桓口巴が聴取の席に着いた日の事だった。彼女の姿を見るなり容疑者Kは言った。


「作家の塔婆帳を呼んでください。南坂戸の城山大学病院を過ぎた場所にある、荒廃した墓地を抜けた先の、星宮神社の裏手にある団地にお住まいです」


 連続殺人鬼が私の素性を知っている。それはまるで、怪奇小説の作中で名探偵と血眼で追いかけっこをしていた架空の彼が、ページの紙面を見つめる読者の私と不意に目が合ってしまったような感覚だった。


 私は桓口さんの言葉も聞かず、いつの間にか戸の握りに手を掛けていた。蝶番ちょうつがいの軋む音が一つ、この職場の沈黙を突くように鳴り響くだけで、今まで書類の紙魚シミになっていた警察官らの視線が私の背中に向けられるのが感じられた。


 大したものだ。普段はあれほど病弱に振舞っているこの私が、遥かに健やかで高尚な人間の視線で刺される事よりも、僅か数センチの戸の隙間の暗闇にこれほど心を傾けているのだから。


 隙間から溢れた墨汁インキは、まず私から視界を奪った。それから音を奪った。黒の色が光を吸収する事よりも貪欲だった。やがて私は、私ごとその墨汁インキに呑み込まれた。桃色・水色・橙色などの豊かな光を黒に染め上げるように、私の足取りは活字上の文法に支配された。私は、アクリル板で仕切られた二間四方の、殺人鬼のいる紙面世界に足を踏み入れた。


 部屋は薄暗かった。四方の廉隅すみは深い暗闇に覆われ、丁度、中央の天井から、か弱い電球の光がシンシンと彼我ひがの机を照らしているのみである。


「明かりは」


 虚空に問いを投げると、直ぐに言葉が返ってきた。


「……ご不便をお掛けいたします。先生の弱視は存じておりますが、僕も近頃羞明しゅうめいに悩まされておりまして。光を目に入れると燃えるように痛むので、照明の点灯は控えていただいています」


 女性的な淑やかさを感じさせる舌遣いと、酒や煙草で灼け爛れたらしい響きを含んだバリトンに、私は思わず息を呑んだ。それから節々のオイルが一遍に干上がったブリキ人形みたように、下駄で摺足すりあしをしながら席に着き、アクリル板の向こうにある容疑者Kの顔を恐るおそる覗き込む。


 犯罪者。特に愉快犯といえば、私は次のような特徴を偏見的に思い浮かべる。ニタニタと薄気味悪い笑みを浮かべて、自分が立場的に優位であると思わせたいような企みを口元に貼り付けながら、その目には隠し切れない敵対心が剥き出しになっているような浅ましい輩などである。……けれども、偏見や先入観というものは時に厄介な代物で、予め「こうだろう」とタカを括っていた私の心構えはいとも容易く打ち砕かれる事になった。


 容疑者Kあるいは青年と呼ばれる彼は、まるで高校の女子生徒のような顔立ちをした中性的な人物であった。透き通った白い肌と、それよりも微かに血が浮かび上がった薄い唇。ハリのある頬の間に挟まれた高い鼻。亜米利加アメリカの白人俳優を思わせるツーブロック・マッシュの黒髪と、その陰からこちらを静かに見つめる瞳。


 私がブリキの人形であるのなら、さしずめ彼はフランス製の陶器人形といった風情であった。自然的な造形というよりも、ヒトの理想を形にした人造的な美しさであった。衝撃のあまり一言目を言いあぐねていると突然、彼は目元を柔らかく三日月にしてクスクスと笑い出した。


「失敬。先生がまるで生きた蟻塚を覗き込むように見るものですから。ウフフ、否々いやいや……」


 これが本当に件の連続殺人鬼なのだろうか。私は心底疑った。彼が都度披露する表情には品があり、所作にはやはり女性的な奥ゆかしさがあったからだ。私はその無邪気な笑顔にあてられて、体内を巡る血の一滴までをも一遍いっぺんし出されたような清らかな気分にさせられた。


「貴方のお名前は」

「現在はKと名乗っております。勿論、戸籍上の名がそうである訳でも、僕が西班牙スペイン人との混血でミドルネームがKという訳でもございませんが」


 偽名とはさとられないように名乗るべきものだ。私なら間違っても偽名であると一目で見抜けるような名を用いる事はしない。又、世間の注目を浴びたい愉快犯であれば、本人の強い承認欲求から、もっと小洒落た名を名乗る筈だ。


 言い逃れしたい訳でも、特に茶の間の話題になりたい訳でもないのなら、イッタイ何が目的で四件の殺人を態々警察署まで出向いて告白する気になったのだろう。


「何故、私の住所をご存じなのですか」少々強張った声色になって訊ねた。

「実は、僕は先生のファンでして。でも、先生はサイン会などは催されないでしょう。ですから不躾なお願いかと存じますが、直接お目に掛かりたいと思いまして……」

真実ほんとうにそれだけですか」


 私が問い質すと、彼は居住まいを正して答えた。


「先生になら一切の真相を打ち明けても構わないと、僕は思っているのでございます」

「真相を」

「ええ。事件の全貌を包み隠さずに」

「どうして私なのでしょう」

「特に理由などはございません。作家である塔婆帳先生にお話を聴いて頂けたら、それは私にとってトテモ愉快な事なのです」


 愉快・・とはまた不思議な言い回しをする。

 今度は彼から口を開いた。


「ただし、条件があります」

「条件」私が鸚鵡返しをすると彼は短く「はい」と答えた。


 彼が提示した条件は次のような事だった。


【イ】各事件を解決するまで未解決事件の内容は他者に口外しないこと。口外、公表して良いのは解決した事件のみとする。


【ロ】現場捜査にあたるのは塔婆帳と刑事課の桓口巴、警察関係者ではない塔婆帳の知人のみとする。


【ハ】以上二つの条件が反故ほごにされた場合、残りの事件の真相が今後白日の下に晒される事はない。


「どうでしょうか。聞き入れてくださいますか」


 いざ交渉を持ち掛けられると、自分が何かとんでもない大事に巻き込まれるのではないかと恐ろしくなった。このような枯柳に一体何ができるというのだろうか。精々切り倒され、燃やされ、灰になる程度しか能がないこの私に……。


 こんな面倒事は早々に切り上げて、後はすべて警察の方々にお任せしようと思った。そうしていつも通りの日常に帰って、また扇風機に吹かれながら気ままに漬麺でも啜りたいと思っていた。けれども、次に彼はこう言い放った。


「川を渡るには銭を稼がねばなりません」


 分厚い二重のアクリル板を隔て、言葉上でやり取りをしていたつもりが、突然敷居を土足で踏み込まれたような衝撃を覚えた。私は息を呑んだ。ありもしない私の骨壺の蓋を外して、頭蓋骨の一片を摘まみだされたような薄ら寒さを感じた。


「……私が地獄に堕ちると言いたいのですか。何の為に」


 彼が机に身を乗り出す。


「予ねてよりヒトは皆、地獄行きの切符を握らされて生まれます。そうして物心が付いてより吾々は……何の為に生きているのか……という問いの答えを求めながら生きずにはいられない脳髄の回路を持たされるように出来ています。


 自分が何の為に生きるかという問いの延長線上で、善行や、時には悪行を成しながら、死後の行方に想いを巡らしながら生きております。清く正しければ天国に行けて、偸盗や殺人を働けば地獄に行くと……しかし、何故、その道徳理念が正しいと本当に言い切れるのでしょうか。


 酒で酔っても滅多な事がなければ誰も困りませんし、禁酒禁煙の世の中なのですから不飲酒ならぬ不喫煙も無くてはなりません。


 女を犯しても、悲しんだり腹を立てたりする者が現れたり、胤袋たねの主によく似た顔立ちの赤子がり出てくるだけで、そのような事で地獄の釜が開くなどとは馬鹿馬鹿しくていけません。


 盗みや虚言を働いたからって明日にでも人類数千年の歴史が絶滅するわけではございませんし、人が人を殺したところで、死に行く者が今際の際に走馬灯を眺めている間、どこかでそれを祭りの提灯と勘違いした若い男女どもが熱心に子をこさえているのです。


 何も滞りなく世間が回っていて、仏様はイッタイ何に不満があるというのでしょうか。


……ハハア、成程。つまるところ善悪とは法に過ぎないのです。


 人間が取り決めた、正義定義の一線なのです。神が決めたものではございません。


 善も悪も一つの個としてヒトに組み込まれた内臓でございます。善を成せば天国へ、悪を成せば地獄行き……などという理屈はアンマリな誤解です。正義ばかり悪ばかりの一辺倒な世では仏様も大変退屈ではないですか。別に、仏様の娘をひッ捕まえて殺したり犯したりするわけでは無いのですから。


 では、何がヒトの死後の沙汰を振り分けるのでしょう。今まで何十人と殺めてきた獄中の殺人鬼が……自分は必ず地獄に落ちるだろう……と予言してみたり。冷めた振る舞いをしてきた無神論、唯物論者が死の間際にハッと我に返ったり。そこまでして人の根底に棲み付こうとする天国地獄とは何なのでしょうか。


 それは実に単純明快。働き者は天国に送られ、懶怠者は地獄に堕とされます。


 働く、というのは何でも構いません。……恋人やそうでない者と子を作り、命の蔓を紡ぐ事……それらにはさみを入れる事……今にも人を殺す事……それを阻む事……良いですか、帳先生。罪とは無価値の事です。その対義語アントニムこそは価値なのでございます」


 私は口を挟む事も出来ずにただ……成程、慥かにその規範から見れば、私はまさに地獄行きに違いない……と納得せざるを得なかった。それから、彼は最後に次のような事を言って面会室を去った。


「先生には容疑者Kの犯行を解き明かし、その全貌をノンフィクションの怪奇小説として執筆して頂きます」

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