2-8 セイレストの結界は越えたぞ

 竜が啼く。


 長い時間のようにも思えたが、それは一瞬で終わりを告げた。

 前触れもなく重圧から解放され、呼吸が楽になる。


 ベルランは口を開き、空気を思いっきり吸い込んで、肺のなかに新鮮な空気を取り込む。


 今までいた場所とは違う空気だ。

 匂いも違うし、風の種類も違う。なによりも魔力の濃度が薄くなっていた。


「よし。セイレストの結界は越えたぞ」

「はい」

「大丈夫だったか? 気分は悪くないか? まあ、気分が悪くても時間がないから今は休めないけどな。休憩地点まで耐えろ」


 竜を駆る男は、なにごともなかったかのように高らかに笑う。


「どうだった? 『門』を通らずに、竜での結界越えは?」

「話に聞いていた以上の『壁』の厚さに驚きました」


 ベルランの正直な感想に、ミルウスは何度も小さく頷く。


「だろ? セイレストの結界はなかなかに頑丈なものだろう? なにしろ、竜たちを大人しくさせておくための檻だからな。これが大丈夫なら、他領の結界は薄壁、いや、薄い紙だ。恐れることはなにもない!」


 ミルウスの「ははは」という笑い声が空に吸い込まれ、瑠璃竜が「ガルウゥ」と小さく鳴く。

 瑠璃竜は主人に無事に結界を越えることができたことを褒めてほしいようだ。

 ミルウスは[素晴らしい結界越えだった]と誉め言葉をいくつも並べながら、ペチペチと竜の首筋を叩く。

 

 護らなければならないものを領内に抱えている領主たちは、それを護るために自領の境界に結界を張って、他者の侵略に備えていた。


 西の果ての竜が空飛ぶ辺境地――と呼ばれるセイレスト辺境領は、帝国の西側国境付近にある。


 西側国境防衛の要として近隣の領主たちをまとめることと、領内に生息する野生竜の保護と管理がセイレスト辺境伯の主な務めだった。

 それはフォルティアナ帝国が誕生してから二千余年すぎた現在も変わらず続いている。


 セイレスト辺境領には禁足地とされる広大な森林と、『空天の渓谷』と呼ばれる野生竜の群生地が存在している。


 領内には様々な種類の竜が生息し、空を飛び、大地を走り、湖に潜んでいた。

 空天の渓谷は竜の繁殖地で、多くの竜が渓谷で出産と子育てをする。

 竜の傷を癒す泉も数か所確認されており、この地には竜に関する数々の言い伝えがあった。

 竜の聖地といってもいいだろう。 


 小竜から上位竜まで。草しか食べないおとなしい竜や、荒っぽい肉食の竜もここでは共存している。実に様々な竜を領内では見ることができるのだ。

 神竜クラスの古竜も、谷の奥地にいる。


 セイレスト領に生息していないのは、海竜くらい――と云われるくらいだ。


 竜の素材は希少で、高値で取り引きされる人気素材だ。

 武器や防具、魔道具や護符、薬などに使用されている。


 通常は、狂暴で手に余る邪竜もしくは狂竜に分類される『世に危害を与える竜』を討伐し、素材を採取する。

 当然のことながら相手は竜なので、命をかけた討伐になる。


 セイレスト領が豊なのは、剥がれ落ちた竜の鱗や、抜けた牙、折れた爪、脱皮した後の抜け殻、羽化した後の卵の殻などを素材として領民が採取し、加工したものを交易品として活用しているからだ。


 竜が生息する土地にしか育たない貴重な植物や、採掘されない鉱石などもある。


 このような竜からもたらされる『恩恵』が、領地の主な収入源となっていた。


 上位竜の素材ともなれば、小さな国の年間予算相当の金額がやりとりされる。

 だが、セイレスト領の民は必要以上の欲は抱かず、竜たちの生活圏を乱すことは決してしなかった。


 特別な事情がない限り、竜の狩猟採取は行わず、土地の開拓も必要最小限にとどめている。

 それは野生竜と上手に『共存』していくための、先人たちが残した『知恵』であり、脈々とセイレスト家に受け継がれている『戒め』であった。


 セイレスト領は『富を産みだす土地』だった。

 通常であれば、帝国の直轄領として召し上げられていただろう。

 セイレスト領の人々は、帝国が誕生する以前から野生竜と共存していた。

 帝国誕生の折には、竜を従えて建国に貢献した。帝国に従い、統一の助力をする見返りとして、セイレストの民は野生竜と自領の不可侵を要求したのである。

 その契約は今もなお継続中で、歴代皇帝もセイレスト領に手をだすことができないのだ。


 表面上では、帝国を支える名家として皇帝は敬意を払い、セイレスト家が皇帝に対して従順で忠誠を誓っているうちは、セイレスト家が無下に扱われることはない。


 セイレスト領内にいる野生竜が一斉に放たれたら、帝国はあっという間に全土を蹂躙される。それは帝国にとって脅威だ。


 巨大な戦力を誇る竜騎士と騎竜を帝国に提供し、西の国境を護り、竜の素材を帝国に供給することで、セイレスト家は帝国内でも有数の名家としての地位を保つことに成功していたのである。


 セイレスト家は豊かで歴史のある家門だったが、決して驕ることはなかった。そういう慎ましい暮らしぶりと、歴代のセイレスト辺境伯の政治的手腕によって、セイレスト家と野生竜は今日まで生き続けてきたのである。


 ヒトの欲望を遠ざけ、竜が住みやすい状況を保つことに、歴代のセイレスト辺境伯は細心の注意を払いつづけていた。それは領民も同じである。


 だが、他領や他国の者には、竜との共存概念がなかった。


 高価な値段で取り引きされる竜の素材を簡単に手に入れようと、セイレスト領の野生竜を狙う輩も多い。

 卵や幼竜を盗み出そうとする者もいる。

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