1-2 おい、いい加減に離せよ!

 完全な不意打ちだった。

 ぶつかってきた『相手』は、身体強化系の魔法を使っていたようで、ベルランの体躯にずしりとした重みと衝撃が加わる。


 息が詰まり、チカチカと目の前に火花が飛び散った。

 一瞬、頭の中が真っ白になり、なにが起こったのかわからなくなる。


 上着に縫い込められていた防御の魔法陣が自動発動し、受け身もとれたので、怪我はない。

 だが、ぶつかったときの鈍い痛みと衝撃は、身体にくっきりと残っていた。


 優美な眉を顰めながら、カバンの中の気配を探る。

 カバンの中からは、苦しそうな「きゅぃぃぃっ」という鳴き声が聞こえたが、悲鳴ではない。圧迫から逃れようと、もぞもぞと動く気配が伝わってきた。


 前掛けカバンの中身も潰れることなく、無事なようである。

 とても元気そうだ。


 相手がベルランだったからよかったものの、魔法が使えない平民だったら、肋骨が砕けて、内臓破裂で死んでいただろう。


 学院内の廊下で使用する魔法ではないと思うのだが、魔法を使わなければならないほどの、急ぐ理由があるのだろう。


(田舎と違って、都会はせっかちなヤツが多いんだな……)


 今朝からずっと「時間がない、時間がない」と言われつづけ、少々うんざりしていた。


 夜が明ける前に領地を出発し、八時間かけて帝都に着いたが、休む間もなく、ベルランは編入試験を受けさせられている。


 今日中に編入試験に合格し、今日中に学院長から入学許可の証を受け取らないと『今期に間に合わない』らしい。


 詳しいことはまだ知らされていないのだが、大人たちには『深刻な事情』があるそうだ。

 それを解決するための足がかりとして、ベルランは今日の編入試験に合格し、『今期の生徒』として上級学院に在籍しないといけないらしい。


 ベルランは廊下に仰向けになったまま、天井に描かれている花模様を呆然と見上げていた。


 驚きすぎて身体が動かない。『なにかにぶつかって、自分がひっくり返ってしまった』ということに、ベルランは愕然としていた。


 壁とミラーノの陰になって視界が悪かったとはいえ、出会い頭でヒトとぶつかって派手に転ぶなど、久しぶりのことのような気がした。


 そろそろ立ち上がりたいのだが、『相手』がベルランの上にのしかかったままなので、身動きができない。


 カバンの中からは抗議するような「きゅうきゅう」声が聞こえてくる。


 伝わってくる感触と重みからして、相手は男性だ。自分とほぼ同じくらいの体格ではなかろうかと推測する。


「おい、いい加減に離せよ!」


 ベルランの耳元で、若い男の声が聞こえた。

 よく通る力強い声が、ぼんやりしていた心の中に染み込む。

 耳に温かい息がかかってくすぐったい。


「おい! 聞いているか!」


 刺々しいなかに、少しだけ焦りの色が混じっていた。

 声が聞こえた方向に顔を動かすと、くすみのある赤髪が目に入った。肩くらいの長さがある髪を、後ろで一つにまとめている。

 貴族男性の一般的とされる髪型だ。


「いつまで抱きつづけているつもりなんだ! 離しやがれ!」

「あ……」


 自分の手が相手の男の背中に回されていたことに気づき、ベルランは慌てて手を離す。

 

「くそっ! ぼっとしてるんじゃねぇぞ!」


 吐き捨てるような声とともに、不意に身体が軽くなる。


 と、空気が動いた。


(え? なんだろう? この匂い……? この空気?)


 とても爽やかで心地よい香りが、ベルランの鼻孔をくすぐった。

 もっとはっきりと確かめたくて、大きく息を吸い込む。

 多幸感と共に、甘やかな香りが全身に広がり、ベルランの心臓がドクンと脈打つ。


 目を大きく見開いて、ベルランは自分にぶつかってきた青年の顔をまじまじと眺めた。


 くすんだ色の赤髪、鋭い茶色の瞳。髪を結んでいる細いリボンは、髪と同色のくすんだ赤色。強く引き結ばれた唇。くっきりとした太めの眉は、不機嫌そうに歪んでいる。

 歳はベルランとほぼ同じだろう。

 背はもしかしたら、ベルランの方が少しだけ高いかもしれない。


 見た目はほっそりとしていたが、学院の制服越しに伝わってきた身体のラインは、本格的に鍛えている者の体つきだった。

 

 ベルランの夕闇色の瞳と、青年の鋭い茶色の瞳が絡みあう。


 怒ったような青年の顔が、一瞬だけとまどったように揺れ動いた。


 互いの口がなにかを言おうと開くが、言葉にならずにそのまま閉じられる。


 ふたりの視線が重なりあったのは、ほんの一瞬だけだった。

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