第2話

 大学の課題も終わり、もうすぐ大学が始まる頃バイトの試用期間が終わった。これからはもう少し長い時間働くことになる。働けることは純粋に嬉しいし、バイト先の人も優しい人たちで安心した。


 明日から大学生だというのに、大学の準備をせずにバイトに来ていた。まだ実感がわかないのだろうなと他人事のように思う。

 その日はお客さんが少ない日で、中野さんが休憩へ行き、四宮さんが冷蔵庫のペットボトルを補充しに行っていた。

 レジで時計と睨めっこしていると、ひとりの若い女性が入店した。

「いらっしゃいませ」

こういう挨拶にもだいぶ慣れてきた。

 女性は私の顔を見ると立ち止まり、レジに近づいて来た。支払いしに来たのかとバーコードを読み取る準備をする。しかしその必要はなかった。

「あの、すみません」

「どうされましたか」

「急にこんなことを言うのは失礼かもしれないんですが」

「はい」

「四宮について何か思い出したら、ここに連絡して」

四つ折りの小さな紙を渡された。なぜ四宮さんなのか聞く前に女性は出て行ってしまった。


 その紙は持ち帰った。バイト中に落とさないか心配になったけれど大丈夫だった。帰りは母が迎えに来てくれた。

 車に乗り込むとすぐに母が口を開く。

「お疲れ様。どうだった?」

「試用期間中より時間が長いだけで変わったことは無いかな」

「そう。大学の準備まだしてないでしょ」

「帰ってからするよ」

あなたはいつも準備が遅くて、と小言が始まった。


 母の小言を聞き流していたら家に着いた。

「迎えありがとう」

そう言って車から降りた。

 部屋に入ってもらったメモを取り出す。そこには電話番号が書かれていた。数字の8を真ん中の交差するところから書く人のようだった。


 夢を見た。

「だから言ったじゃない」

と誰かが言った。

「助けられる算段はついていたんだ。本当に」

と別の誰かが言った。

 声しか聞こえない。目の前は真っ暗で、目隠しをされているのかと思った。でも違うようだ。体が鉛のように重い。瞼さえも動かすことができない。

「今回はもうダメね。次は…」

次は、何?どんどん声が遠ざかって聞こえない。

 私は目を覚ました。涙が溢れてきた。悲しくて仕方がなかった。


 20歳までしか生きられないことを思い出した。何度生まれ変わっても最後には殺されてしまう。

「あと2年か。大学も卒業できないんだ」

その日はいつだろう。私は誰に殺されるんだろう。怖いけれど、その恐怖を私は今までも乗り越えてきた。きっと大丈夫だ。もしまだ来世も記憶を取り戻せるなら、来世の自分のためにできることをしよう。


 もう少し混乱するかと思ったけれど、私は意外と逞しい。机の上に置きっぱなしにしてあったメモを手に取る。

 電話をかけた。コールが2回鳴り終わり頃、声が聞こえた。

『もしもし』

昨日は感じなかったけれど、色っぽい声をしている。

「おはようございます。昨日コンビニで電話番号を渡してもらった者です」

ふふ、と電話越しに笑ったのがわかった。

『電話くれると思ってた。ねえ、会って話さない?今日はバイトあるの?』

「バイトはないんですけど、これから学校なんです」

『あら、大学生?』

「はい」

『…そう。よかったわね』

少し悲しそうな声に聞こえて、その声のせいか胸が苦しくなった。

「受験勉強頑張った甲斐がありました」

私は誤魔化すようにおどけてみた。


 学校が終わった時間が15時過ぎだった。16時に駅近くのカフェで待ち合わせをしている。中途半端に時間が余った。

 久しぶりに散歩でもしてみようかと駅までの道をのんびり歩いた。道路は工事したばかりのようで、穴をふさいだような場所と舗装された場所と、まだ手を付けられていない場所でパッチワークみたいになっていた。

 駅までは10分もかからないから、のんびり歩いていてもすぐに着いてしまう。そろそろ駅が見えるころだ。

 誰かが私の腕を掴んだ。驚いて掴まれた腕の方を見る。まだ肌寒い季節には似合わない、胸の開いた服を着た女性が私の腕を掴んでいた。

「ごめんなさい。あなたが歩いているのみえたから、思わず走ってきちゃった」

確かにそう言われてみると胸元が少し乱れているようにも見える。私ではない違う誰かだとして、相手がこの女性に下心があったら大変なのではないかと余計なことを考える。

「電話番号のお姉さん」

「そう!」

女性は元気よく答えた。

「走らなくてもいいのに」

「いいえ、あなた歩くのが早いわ」

「この後一緒にカフェで話しますよね」

「でも少しでもあなたと話す時間を長くしたいの」

まるで告白みたいだな。そんなはずないけれど。

「予定より早いですけれど、カフェに行きますか」

お姉さんは大きく頷いた。


 カフェに着いた。先に注文と会計を済ませるカフェだった。

 席を確保してから注文をしに向かう。

「何にする?」

「お姉さん先に決めてください」

「じゃあ、ほうじ茶ラテのホット」

「私はホットのカフェラテにします」

私が出すよ、とお姉さんが会計してくれる。申し訳ない気持ちもあったけれど、素直に払ってもらった。


 それぞれの飲み物を持って席に着いた。お姉さんは両手でカップを持ち、息を吹きかける。恐る恐る口をつけ、ふぅと息をつく。

「まだ肌寒いから温かい飲み物が沁みるね」

「もう少し暖かい服装したらいいじゃないですか」

「おしゃれは我慢よ。私首短いから、なるべく胸元開いてるの着たいの」

それにしては開きすぎのような気もする。

「お姉さん、綺麗だからそんなことしなくてもいいのに」

「ノンノン」

お姉さんが人さす指を突き出して左右に揺らす。

「謙遜ですか。本当に綺麗なのに。本心ですよ」

呆れた風にお姉さんは言う。

「違う、そっちじゃない」

「なんですか」

「私ね、じゅりっていうの」

「じゅりさん」

「違う、じゅり」

言っている意味が分からず首を傾げる。

「呼び捨てにしてよ。敬語も禁止」

「はあ」

「これからは秘密の共有者でしょ」

お姉さん―――じゅりは、そう言ってウインクした。ちょっぴり下手だったけれど可愛らしかった。


 これから私たちは、秘密の共有者になる。

「じゃあ、本題に入りましょうか」

じゅりは真剣な顔つきになる。その顔を見てから私は口を開く。

「私が電話したことについてだよね」

「そうね」

「私が思い出した記憶について話す前に、じゅりに聞きたいことがあるの」

「なあに」

「昨日、私に四宮さんについて思い出したら連絡しろと、あなたは言ったよね」

「そうね」

「四宮さんと私は知り合いなの?」

じゅりは目を丸くする。

「四宮について思い出したから電話をくれたんじゃないの?」

私は頷く。

「四宮さんについて思い出したわけじゃないし、私は何を思い出せばいいのか分からないし。ただ、私は死ぬ前の記憶っていうか、なんて言ったらいいか分からないんだけど」

「記憶を持って生まれ変わる。それは前世の記憶だけではなく、今まで生まれて死んでを繰り返した時の記憶が蓄積されていく」

「そう。それ」

じゅりはほうじ茶ラテを一口飲んだ。

「まずそれを思い出したのね。全部思い出したの?」

私は首を横に振る。

「全部じゃない。誰と一緒に過ごしたのか、どんなことを話したのか。そういう細かいところは何も思い出せない。でも私が毎回誰かに殺されていることは分かった。だから、今回も殺されてしまうとしても、次生まれ変わった時のために何かできることをしたい」

「なるほどね」

「じゅりは何者なの?私は記憶を思い出して、あなたしか頼れる人がいないと思った

。だから連絡した。でもあなたのことを完全に信用しているわけじゃない。疑う気持ちの方が強い」

そう言うと、じゅりは嬉しそうに笑った。

「そういうところは相変わらずなのね」

「どういう意味」

「私も記憶を持ったまま生まれ変わるの。あなたと私と四宮は友達だった。前世じゃないと思うけれど、どこかの時代で仲が良かったわ。いつだったのかもう思い出せない」

本当だろうか。私はカフェラテを一口飲む。

「疑っているでしょう」

まだじゅりは楽しそうだ。

「まあね」

「嬉しい。今から信じてもらうのは難しいから、これから定期的にこうやって会わない?バイト先にも顔を出すし」

そう、バイト先。

「四宮さんは?」

「ん?」

「四宮さんも記憶を持ったまま生まれ変わるの?」

「そうね…私にはよくわからないわ」

じゅりは冷たい表情をしていた。私はそれ以上何も聞けなかった。


 記憶を持ち始めて49回目のようだ。今のところ生活に支障はないし、記憶の進展もない。じゅりとはたまに会っている。

 その日は大学が午後からだった。午前中は課題をしたり本を読んだりして過ごした。もう少し寝れたのに、こういう日に限って早起きできてしまう。

 大学へ向かう途中、じゅりを見かけた。じゅりはいつも派手だから自然と目がいく。派手といっても色遣いが派手ではなく、じゅりがもともと持っている華やかさが前面に出るような恰好。じゅり自体が派手といった方が分かりやすいかもしれない。

 じゅりは四宮さんと一緒にいた。何やら親し気に話をしているように見える。じゅりの人柄のせいなのか、彼も記憶を持っているのか、どちらなのだろう。

 その日の夜、じゅりから連絡があった。短い文だった。

『今日、四宮に遭遇。』

私はもちろんそのことを知っていた。けれど

『そう。どんな話をしたの?』

と知らないふりをした。

『四宮も記憶を持っているみたい。私とあなたと仲が良かった時の記憶。』

『私が記憶を持っていることを話した?』

『話していないわ。自分で聞いてみたらどうかと提案した。』

そうなると、私は四宮さんに仕事の話以外で話しかけられる可能性があるということになる。

『なるほど。明日四宮さんとシフトが一緒だから進展があったら連絡する。』

『了解。』




 「雨の日はお客さんが少ないね」

四宮さんは感情の読めない表情をしている。

「そうですね」

私はさほど興味もなさそうに返事をする。

 シフトでもうひとり入っていたが、体調が悪いようで早退した。お客さんが少ないから二人でも大丈夫だろうという四宮さんの判断だった。

「お聞きしたいことがあるのですが」

急にかしこまった口調になったことに緊張して、思わず四宮さんを見上げる。

「な、なんですか」

四宮さんは高い背を丸めてこちらを見ている。なんだか叱られた犬のようにも見える。

「じゅり、知ってますか。たまにここにも買い物に来るんだけど」

おや、と思った。

「じゅり、知っていますよ」

そう言うと、急に四宮さんの顔がパッと明るくなった。

「本当ですか!実は昨日じゅりに会って、あなたと友達なんだって言ってて」

こんなに表情豊かな人なのか、少し意外だ。

「そうですね。じゅりとはよく会いますし、連絡も取っています。昨日四宮さんにお会いしたことも連絡を貰っていました」

よく会い連絡を取る関係を友達と呼んでいいのか分からないけれど、四宮さんが納得すれば何でもよかった。

「え。じゅりが僕と会ったこと言ってたの?なんだ、驚かせようと思ったのに」

四宮さんは今度は口を尖らせている。

「期待に添えずすみません」

「いえいえ」

 次に何を話せばいいのか、嫌な沈黙が流れる予感がして、つい聞いてしまった。

「四宮さんは、じゅりとは前から仲良かったんですか?」

その質問は間違いだったのだと思う。表情から全て感情が読み取れてしまうような、分かりやすい四宮さんに聞くことではなかったのだろう。

「話せば長くなるから」

声のトーンがひとつ下がった。目が合わなくなった。悲しそうな、苦しそうな顔をしていた。

 私は何を言っていいかわからず、その四宮さんの顔を見つめていた。

 すぐに笑顔になり、四宮さんは私の質問には答えなかった。

「ほら、退勤の時間になったよ。お疲れ様」




***




「雪道を走るのは危険だと思わない?」

君は私のすぐ側でしゃがむ。私は恐怖で声が出ない。

「雪道を走るとさ、凍ってるところとかあるかもしれないじゃん。危ないじゃん。君が今みたいに転んで、もし頭とか背中とか、当たり所が悪くて……みたいな感じになって、後遺症残ったら、僕はすごく残念」

君は本当に私を心配しているようだった。私は泣いていた。雪がしんしんと降り続く森の中で、私の息と涙だけが温かかった。君は冷たかった。

「私を殺すつもりなんでしょう」

弱々しい声だった。けれど君に届いて欲しかった。

「殺すしかないからね」

君は悲しそうだった。泣いているのは私なのに、君の方が泣いているように見えた。

「殺さないでと言ったら見逃してくれるの?」

「それはできない」

「どうして」

「君を、愛しているから」



***



 朝起きてすぐ、君を想う。


「明日から夏休み?もうそんな季節か」

じゅりの服の露出度が上がってきて夏を感じる。

「うん。夏休みの課題もあるけれど、そんなにたいしたことはないし。バイトいつもよりは入れて嬉しい」

 じゅりとカフェに来ている。初めて秘密を共有したカフェだ。

「四宮とは進展あったの」

「何その恋バナみたいな言い方」

私は呆れた表情を意図して作る。

「似たようなもんじゃない。実際気になってるんでしょう。いつも四宮の話ばかりするし」

「じゅりとは四宮さんとか記憶とか、そういう話しかすることがないってこと」

「たまには、大学で気になる人がいるんだけど…みたいな話をしたっていいんだよ」

じゅりはどんどん前のめりになる。

「近い」

私はじゅりの顔の前で手をひらひらさせる。

「もう。からかいがいがない」

じゅりは膨れている。

「すみませんね。からかわれ慣れていないもので」

「まあいいわ。ところで、本当に四宮のことなんとも思ってないの?」

今度は真剣な表情だ。ここではぐらかすのも失礼かもしれないと思い、素直に答えることにする。

「正直、素敵な人だなとは思うよ」

じゅりは嬉しそうに笑う。こちらの表情を注意深く観察しながらアイスティーのストローに口をつけた。じゅりは先を促す。

「続けて」

「それで、一緒にシフトに入る時が多いんだけど、新人だというせいもあると思うけれど、気にかけてくれるのがなんだか嬉しい。私が私として生まれてくる前にも、お互いを知っていたんだと思うと、それだけでも相手を特別扱いできてしまえるほどの意味を持ってしまうんだなって感じる」

「わお。運命だね」

私は俯く。傍から見たら、きっと恋する女の子みたいな仕草だ。

「運命なんてそんな大げさなことじゃなくてもいいから、四宮さんと縁があったんだなって思いたい。もちろん、じゅりとも」

「私はおまけでしょう」

じゅりはケラケラと笑う。そんな彼女を見て私も笑ってしまう。


 恋はするものじゃなく、落ちるものだと誰かが言った。歴史的に偉い人じゃないと思う。

 少女漫画では、小学生でも中学生でも高校生でも、いつ何時でも恋をしている。そんなに恋とは重要なことだろうか。確かに周りにいる同級生たちは、甘酸っぱい恋をしていたのだろう。たまたま帰り道で告白の現場を目撃したことがある。

 道端で告白するのかと当時は驚いた。一本道だからそこを通らなければ家へ帰ることができないのに。仕方がないから告白が終わるまで待った。結果がどうなったのか知らない。そこからどう帰ったのかもよく覚えていない。

 私は恋愛には興味がなかったし、他の人の恋愛事情を聞いている方が楽しいと思っていたため、いつも話を聞く側だった。

 だから、じゅりに自分の恋愛話をするのは少し変な気分だった。けれど楽しくもあった。




***



「仕事、だいぶ慣れてきたね」

四宮さんが小さく拍手をする。

「四宮さんのおかげです」

そう答えてから、自分の顔が緩みきっていることに気が付いて恥ずかしくなる。意味はないけれど、ひとりで頷いてみる。

「あのさ、この後時間ある?」

「え?」

「話したいことがあって」

「…はい」

「あ、記憶のことね」

なんだそっちか。少し期待してしまった。

「はい。時間あります。大丈夫です」



 退勤の支度を済ませ、外で四宮さんを待つ。じめじめとした風がゆっくり吹いている。

「おまたせ」

電気がない場所で待っていたから四宮さんだと声を聞くまでわからなかった。

「お疲れ様です」

「いつも帰りは歩きなの?」

「母が迎えに来てくれるんですけど、今日は仕事が長引いちゃってるみたいで」

「そっか。じゃあ行こうか」

四宮さんは手に持っていたスマホのライトをつけた。

「男の子だから夜道は大丈夫でしょって言われるけれど、怖いものは怖いからね」

でも僕責任を持って送り届けるよ、と四宮さんは付け加えた。

「心強いです。お願いします」

と私は答えた。


 四宮さんはいろいろなことを教えてくれた。

 生まれる前、前世以前の記憶はほぼ思い出していること。夢で見たことが記憶の一部だったりするから忘れないうちにメモをしておくといいということ。それを後で読み返すとパズルが完成するような気持ちになってすっきりするらしい。

 私は記憶は高校を卒業したあたりから少しずつ思い出していることや、大学のこと、じゅりのことを主に話した。

 アルバイト先から家までそんなに距離がないため、こんな話をしているといつの間にか家が見えた。

「そろそろ家なのでここら辺で大丈夫です」

私は立ち止まってそういった。四宮さんも一緒に立ち止まる。

「そっか」

四宮さんは何か言いたそうだった。

「どうかしましたか」

「…今日はまだ家に人いないんだよね」

前にも聞いたワントーン低い声だった。

 嫌な予感がした。

「それがどうかしましたか」

「ううん。お家に入ったらちゃんと鍵を閉めるんだよ」

「はい。わかりました。お疲れ様です」

私は四宮さんに頭を下げた。

「お疲れ様」

「気をつけて帰ってくださいね」

「ありがとう」

「おやすみなさい」

今度こそ四宮さんに背を向けて家へ急ぐ。

 なんでだろう。四宮さんに背中を向けてはいけないような気がする。

 家がすぐ目の前にあるのに。こんなに家が遠かっただろうか。

 早く。早く家に入って鍵を閉めなければいけないような気がする。

 でも、あまり早く歩くと怪しまれるのではないか。

 でも、でも。

「君は、いつも僕に背を向けるね」

冷たい声が聞こえる。自分の息が浅くなる。

 痛い。痛い?熱いような気がする。なんで?怖い。誰か。

 私はその場から動くことができない。必死に四宮さんの顔を見ようと振り返る。

 私を見つめる四宮さんの顔が、寒いあの場所を思い出させる。

「なんで?」

そんなこと聞いても無意味なことは分かっていた。でも。

「君を、愛しているから」

「だから、なんで?」

なんで、愛しているのに。殺されなければならないの。

「君が知る必要はない」

そう言って、四宮さんは私の背中に刺した包丁を抜いた。

 私は膝をついて地面に崩れ落ちた。血が流れ出る感覚がある。

 私を見下ろす四宮さんは今、どんな表情をしているのだろう。暗闇に溶けて見えない。

「どうして今回はこんなに早く手を出したの」

声が聞こえる。じゅりの声だ。

 四宮さんは業務連絡でもするようにたんたんと答える。

「いつも冬だから。寒いのは嫌かなって思って。あ、でも腐敗が進むのはやいかな。寒い方が君も処理しやすかった?」

じゅりは声を張り上げる。

「どうしていつもそんなことしか言えないの」

ひょうきんな悪役みたいな口調で四宮さんは言う。

「今何時だと思っているの。大きい声を出すと近所迷惑だ」

「冷静を装いたいならさっさと帰って。私はその子に話したいことがまだある」

「そう。好きにして」

四宮さんが暗闇に消えていく。


 じゅりはしゃがみこんで私の顔を覗いた。

「大丈夫?」

私は何も答えなかった。私は泣いていた。その涙をじゅりが優しくが拭ってくれる。

「大丈夫なわけないよね」

じゅりの方が苦しそうな顔をしている。

「あなたはもう長くはもたない。自分でも感じていると思う。でも、私はあなたと話をしなければならないの。だから」

じゅりが手で私の顔を覆う。

「意識だけ私が引き取るわ」




***



「うーん。思い出せるのはこのあたりかな」

私は大きく伸びをする。背中の関節が鳴る。ふう、と息を吐く。





 じゅりが言う意識を引き取るとは、身体は意識の入れ物であるため、身体が死んでしまうと意識を引き取ることができないらしい。そうなる前に意識だけ引き抜いて会話をした。


 意識を引き抜かれた後の私の身体は、もう動かなかった。死んでいた。包丁だけで人は死ぬんだなと感じた。自分の身体が他人の身体に見えた。

 意識だけの状態の私にも身体があった。意識だけの状態では、実際のものよりもイメージが優先されるから、私はじゅりに意識を引き取られても『自分には身体があるんだ』というイメージをしていたようだ。

 脳に直接じゅりの声が響く。

「あなたが疑問に思っていること、なんでも正直に答えるわ。答えられない内容については、答えられないと答える」

私が疑問に思っていることはいくつかあった。

「じゃあ、お言葉に甘えて。まず、じゅりと四宮さんの関係について」

「私と四宮は、あなたとは根本的に違うの」

「何が違うの?」

「私と四宮は、記憶を思い出すとか思い出さないとか、そういうことじゃなくて、そもそも死んでもいない」

「どういうこと」

「あなたは死んで、また次の人生を生き始めると記憶を取り戻す。遅かれ早かれ。でも、私たちは死んでいない。もう少し適切な言葉を使うと、死ぬことができない。生きることを強要されている」

私は無意識に眉間にしわを寄せる。

「誰に?」

「私に」

「どうしてじゅりは、じゅりに生きることを強要されるの?自分で決められるんじゃないの」

「それが、私が私自身にかけた呪い。四宮にも別の呪いがかかっているわ。」

「その呪いの内容を聞いてもいい?」

「細かく説明はできない。けれど呪いにも種類があって、ちゃんと名前がついているの。私が私自身にかけた呪いは『終止符』で、四宮にかかっているのは『神への誓い』」

「神への誓い」

私は小さく反芻する。

「その呪いというのは、じゅりがかけたものなの?」

「そうよ。私は人に呪いをかけることができるわ」

「じゅりは、人間じゃないの?」

「そうね。私は人間ではない。人間の形をとっているだけで、人間の言葉を喋るだけで、人間ではないわ」

「人間じゃないなら、何なの」

「一番近いのは、悪魔かしら」

「悪魔」

「そう、悪魔。聞いたことはない?悪魔と契約、とか」

「でもそれには見返りが必要」

「ちゃんと四宮には代償を払ってもらってある。後払いだけど」

私は緊張している。じゅりが次に私に言おうとしていることが分かったような気がしたから。

「じゅりは、私に何を求めているの?私はあのまま野垂れ死んでも良かったはず。どうして意識を引き取ってまで私と会話をしているの」

じゅりが小さく笑ったのが分かった。

「もう分っているんでしょう?」

じゅりはきっと今、悪魔のような顔をしているはずだ。

「私と契約しましょうよ」






 私は今、記憶を持ち始めて50回目を迎えている。物心ついたときにはもう記憶は取り戻していて、じゅりとも会っていた。今までで一番取り戻した記憶が多いような気がする。

 私がまずやりたいこと。それは、四宮さんに会うことだった。じゅりに居場所を聞いても「知らない」の一点張りで教えてくれない。本当は知っているのか、本当に知らないのか。私には判断がつかなかった。


 きっと彼は今も、殺し続けた私に気にも留めず、のうのうと生きているのだろう。

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