この雨が上がったら

@zoca111654

第1話

 『これは愛だ。』

こんな一文から始まる物語はどうだろう。なんてったって僕は君を愛しているから。

 『恋』と『愛』がどう違うのか。『好き』と『愛している』にはどのような差があるのか。僕の人生はそれを知るためにある。

 神が決めたんじゃない。僕が決めたことだ。

 僕が起こす全ての行動は、僕の意志によって起こっている。


 昔の話をしよう。後世に受け継がれることのない昔話だ。


***


 最初の記憶。誰かがそう言って昔話を聞かせてくれた。それはあの人自身のことだったのかもしれないし、違う誰かの話だったのかもしれない。今となってはもう知る術はない。彼は死んだのだから。

 彼は、誰だったのだろう。きっと大切な人だったはずだ。彼との記憶はすっぽり抜け落ちているのに、穴が開いたような物足りないような、そういう感覚はまるでない。彼は私の妄想だったとでもいうように。


 ウユニ塩湖をご存じだろうか。


『ウユニ塩湖はボリビア南西のアンデス山脈にある世界最大の塩湖――Google参照』


 彼の目はウユニ塩湖を連想させた。しかし、いくらウユニ塩湖を連想させたといっても相手は人間であり塩湖ではない。

 ウユニ塩湖を知ったのはクイズ番組だ。そんなに大きな画面ではなかったけれどテレビ画面いっぱいに映るウユニ塩湖に目を奪われた。本当に綺麗だと思った。こんな綺麗なものがこの世界に存在するのか、と。

 私は昔話を聞かせてくれた彼のことも、彼が話してくれた昔話の内容もあまり詳しく覚えていない。何度生まれ変わっても思い出せない。何度も会っている気がするのに。それがとにかく残念だ。

 来世では覚えているだろう。次は忘れないぞ。そんな風に過ごしてきて一体何十年過ぎたのか。もう数えていない。



 私はこれまでの記憶を持って生まれ変わる。人間は来世も人間だなんて言うけれど、私は人間になる前は何だったのだろう。私が持っている記憶はすべて人間の記憶だからわからない。もしかしたら犬かもしれないし、猫かもしれない。

 さっきも言ったけれど、私の最初の記憶は彼だ。名前も顔も忘れてしまった彼。大切な人だった彼。私は彼を探すためにこの力を使っている。

 生まれ変わっているたびに彼には会っているのだ。彼は私のことを覚えてはいないだろうけど。私は彼の姿を見るたびにウユニ塩湖だと感じるのに生まれ変わる頃には忘れてしまう。なんてもどかしいのだろう。

 もうひとつ、私について語るならこれがいいだろう。


 私は20歳までしか生きられない。生まれ、学生になり、死んでいく。それが私の人生。





 私が初めて生まれ変わった記憶を持ったときにウユニ塩湖に出会った。場所ではなく人物の方のウユニ塩湖。

 私はまだ4歳か5歳の頃だっただろうか。母に連れられて公園に行った。

 そこには同い年くらいの子供たちが数人遊んでいた。私よりも大きな体の子供もいて、小学生だったのだと思う。子供の両親なのか違う家族の人なのかわからないが、大人の男女が子供たちの様子を眺めながら微笑んだり話したりしている。私は母の隣でベンチに座っていた。

「遊んでおいでよ。お友達ができるかもしれないよ」

母は優しく私にそう言った。しかし私は

「やだ」

を膨れていた。

 なにがそんなに気に入らなかったのか自分でもよくわからない。母は困っていたように思う。母は私の左側に座っていたので、母がいない右側に顔をそむけた。すると少し離れた場所にあるもう一つのベンチに男の人が座っていた。その人はこちらを見ていて、目が合ってしまった。

 慌てて目を逸らす。意味もなく浮いた足をバタバタさせる。もう帰りたい、そう言おうと思った。

「遊ばないの?いい天気なのに」

びっくりして声がする方へ自然と顔が向いてしまった。さっきのベンチの人が声をかけてきた。

 母も驚いたようで驚いて声が出ない私とは違い「え?」と声を出していた。

 男の人はこちらの緊張を解そうとしているのか驚かせたことが申し訳ないのか、困ったように笑っていた。

「すみません、驚かせるつもりはなかったんです。この子と目が合ったので声をかけようかと。すみません」

すみませんを2回言った、と思った。母は

「いえいえ、この子も体動かしてくれてばいいなと思って来たのに全然遊ばないから」

と言った。

 私は人見知りをしてしまう性格なので知らない人が来ると何も話せなくなってしまう。ひっそりと息を潜めてこの知らない人が去るのを待とうと思った。

 「僕と一緒に遊ぶ?体動かすのが苦手ならお話ししよう」

お母さんも一緒に話しませんか?と言って3人で話をした。

 彼は小説家を目指しているから自分がつくった話を聞いてほしいと言った。『これは愛だ』から始まるお話。

 一通り話し終わった後に母は「すごいですね。頑張ってください」と言った。思ってないなとすぐに分かったけれど。男の人は満面の笑みで「ありがとうございます」と元気よく返事をした。話を聞いてくれたお礼だとお菓子をくれた。ホームパイだった。





 記憶を持ち始めて15回目。ある記憶を思い出す。前世を持つようになる前の私の記憶。それは視点が上からの映像だった。防犯カメラでよくあるような、全体が見渡せる映像。だからどれが私なのかわからなかった。

 暗い森の中。季節は冬。雪は積もっているが深くはない。たくさんの人が行き来するのか雪が踏み固められて道ができている。その道を人が走っている。

 ただ走っているのではない。逃げているようだ。落ち着きはない。怯えているようにも見える。その人の息遣いは見ている私も苦しくさせた。

 途中で滑って転んだ。悲鳴とは少し違う声を出して転んだ。しかしすぐに立ち上がる。後ろを一瞬だけ確認してまた走る。誰かが私の肩を掴んだ。


 思い切り顔を上げると、目の前に顔があった。状況を理解できなくてその顔をじっと見つめる。

「一番前の席で居眠りとは度胸があるな」

授業中だった。


 目の前に現れた顔は担任の顔だった。居眠りをした罰で日直がやる仕事を一部手伝うことになった。私の他にも居眠りをしている生徒はいたはずなのに。

 もしかして嫌われているのかもしれないと悪い想像をしながら廊下を歩く。廊下の窓は開いていないのにどこからか風が吹いてくる。そろそろスカートだと寒いなと感じる。明日からはストッキングを履こう。できるだけ厚めのものにしよう。

 担任は現代文を担当している。教室がある階の1つ上の階に現代文や古典を受け持っている先生たちの国語科研究室があるからそこへ向かう。30人ほどいるクラスメイト達全員分のノートを持ったまま階段を上るのはなかなか大変だった。普段鍛えていない帰宅部の私にはなおさら。踊り場で上がった息を整える。

 踊り場の窓はステンドグラスになっている。教会にいそうな佇まいの女性の絵になっている。頭から足元まで布で覆われていて何かを抱えているような仕草をしている。抱えているのは赤ん坊かもしれないし本かもしれない。別の何かかもしれない。そんなことを考えながら息を整えた。さてそろそろ出発しよう。

 息を整えている間もクラスメイト分のノートは抱えたままだったから腕が限界に近づいてきている。なんとか階段を上り切り国語科研究室の前まで来た。そういえば両手が塞がっているから扉を開けることができない。

「せんせー。持ってきました。ノート」

もしかしたらいないかもしれないなんて考えなかった。腕が限界だし息も整わないしでそんなことに気を遣う余裕はなかった。

 運よく聞こえたらしい。中から「はーい」と籠った声が返ってくる。

「お疲れ様」

扉を開けながら担任が出てきた。

「入って」

私は小さな声で「失礼します」と言いながら国語科研究室に足を踏み入れる。騒がしい廊下から急に静かになったせいで違う世界に来たような気持ちになった。薄暗い国語科研究室はより肌寒かった。

「ここに置いておいて」

促されるままノートを置いた。腕を軽く振って痛みを逃がす。その姿を見て担任が笑った。

「重かった」

「重いですよ」

「箸より重いもの持ったことないんだね」

私は担任を思い切りにらんだ。担任は楽しそうに笑っている。

「今度は私じゃなくて他の人にしてください。私の他にも居眠りしてる人なんているでしょう」

「わかったよ。しばらくは免除してあげる」


 国語科研究室を出て教室へ向かっている間、私はどうしてこんなに可愛げがないのだろうと考えていた。何度生まれ変わろうと人見知りはなおらない。人の性格は変わらないということなのか。

「天変地異が起こらない限りってね」


 ある日担任がこんなことを言った。

「みんなも色々あって、大変なのはわかるよ」

急にどうしたのかと生徒たちは騒めいた。

「先生どうしたの」

からかいを含んだ声で女子生徒が言った。しかし担任は気にも留めていない様子だった。

「だから今日は、昔話を聞いてほしい」


 私はその昔話を聞いたことがあるような気がした。



***


 記憶を持ち始めて28回目。ウユニ塩湖を思い出さない日々が続いた。

 これは後から振り返っているからわかることで、28回目の私はウユニ塩湖の存在さえ思い出さなかった。今思うとこのあたりから前世を思い出すのが少しずつ遅くなっているように感じる。

 私はまた学生をしていた。これから先も未来が続くことを疑わない私。なんだか滑稽だ。自分のことなのに他人のことのように感じる。友達を作って楽しそうに笑っている。次の教室はどこだとか、自習だからこっそり携帯を持ち込もうとか、そういう高校生らしい話をしていたと思う。

 HRの教室から移動教室まで少し距離があった。別の校舎に行かなくてはいけないから授業開始5分前には教室を出ていないと間に合わない。私は授業開始2分前にHRの教室にいた。忘れ物を取りに戻ったからだ。

 慌てる気持ち半分、どうせ遅れるから諦めてゆっくり忘れ物を探そうかという気持ち半分だった。

 忘れ物が見つかると同時にチャイムが鳴った。これは諦めるしかないなと余裕をこいて自分の席に座る。誰もいない教室はなんだか不思議とワクワクする。どこかのクラスが外で体育の授業をしている。どれが先生の声でどれが生徒の声なのかこの距離では判別がつかない。授業が始まって5分が経過した。

 もうサボってしまおうかと考えていると

「どうしたの」

と声をかけられた。

 後ろの入り口から声が聞こえた気がして後ろを振り向いたけれど誰もいない。気のせいかと思って前を見ると、黒板の近くに人が立っていた。

「忘れ物を取りに来ました」

「忘れ物は見つかった?」

「はい」

「じゃあ授業受けに行かないと。行かないの?」

「どうせ遅れるのでゆっくり行こうかと思って」

この人は誰だろう。首から来客用のネームらしきものが提げられている様子もない。この高校は私服だから、何年生なのかもわからない。

「警戒しているね」

当たり前か、と困ったように笑った。

「警戒されない方がおかしいんじゃないですか。初対面ですし」

「そうだね」

その人は上下ジャージだった。黒地に白いラインが入ったジャージ。学校指定のものではない。

「本当は怪しいものじゃないよって言いたいんだけど、信じてもらえるほどの材料がないから仕方がないよね。実は僕はここの卒業生なんだ」

校長先生に聞けばわかるよ、と補足した。本当かは知らないが校長に確認しに行くのも馬鹿馬鹿しいような気もする。

「卒業生が何の用ですか。私に用事じゃないですよね」

忘れ物を両腕で抱えて席から立ち上がる。

「残念ながら君に用事だよ」

「なんで?初対面のはずです」

「君にお届け物をしに来た。君からは信頼されていないからお届け物はここに置いておくね。受け取ってもらえると嬉しい。君以外の人に読まれたら死んでしまいたいくらいに恥ずかしいから」

そう言って教卓の上に小さなノートのようなものを置いた。

「じゃあね」

彼はそう言って立ち去った。

 そのまま置いていってしまおうかと思ったけれど、さすがに良心が咎めた。内容も気になった。

 手のひらサイズの小さなノートだった。教卓に忘れ物を置いて小さなノートを手に取る。硬い素材の表紙を開くと文字が書かれている。


『思い出さなくていいことを思い出してしまったら』


達筆ではないが綺麗な字だった。

 思い出さなくてもいいこと?私は何かを忘れているのだろうか。意味がよく分からないまま次のページをめくる。


『君が思い出す前に昔話をするよ。君がどうか僕のことを思い出さないように』


 君が僕のことを思い出さないように。その言葉はまるで、私に何かを思い出してほしいから書かれている文章に思えた。ページを捲れば捲るほど、彼は私に何かを思い出してほしいのだという気がした。


 結局授業をサボってしまった。友達にも心配された。

「授業来なかったじゃん。忘れ物見つからなかった?」

「見つかったんだけど、探すの時間かかっちゃって。教室遠いし、嫌になっちゃった」

笑ってごまかした。深くは追及されなかった。


 その日私は夢を見る。

 息切れがする。私は走ったのだと思う。血の香りがする。どこから?右手で自分のお腹に触れる。触れた手のひらを見る。手のひらは真っ赤に染まっている。ああ、私の血の匂いだ。そう自覚してから、口の中にも血の味が広がった。ゆっくり前を向いて微笑んでみた。君と目が合ったから。君は泣いている。


***


 記憶を持ち始めて48回目。前世なんて規模が小さく思えるくらい生まれては死んでを繰り返している。そろそろ終わりにしたい。

 48回目でついに、高校生活を思う存分満喫することに成功した。今までの記憶を思い出すことがなかったから。問題は高校を卒業した後だった。

 高校の卒業式を終えて3日後。私はこれからの大学生活に不安を覚えるわけでもなく、高校が終わってしまったことを残念に思うわけでもなく、ただいつもよりも時間が空いて暇だからバイトでも探そうかと思っていた。

 『バイト 求人』と検索をかける。大学の近くにするか家の近くにするか悩んだ。家から大学まで電車で1時間ほどかかる。大学の近くなら学校の帰りにシフトに入れるが、帰りは確実に遅くなる。一応世間的には10代のか弱い女子大生になるわけだから、遅い時間に家に帰るのは好ましくない。家に近くにすれば帰りは遅くなっても迎えに来てもらいやすい。遅い時間に迎えに来てもらうのはさすがに気が引ける。

 家に近くに求人がないか探し、ちょうど歩いて15分圏内の場所にあるコンビニが求人を出しているのを見つけた。早速連絡を取ってみる。

 電話番号を確認し、受話器のマークをタップする。スマホを耳に近づけると規則的な電子音が聞こえてくる。私は電話が苦手だ。相手の顔が見えないから。相手が悲しんでいても取り繕えてしまうから。自分が悲しんでいても取り繕えてしまうから。相手の顔を見たら泣いてしまいそうな気持ちになっても、そのまま相手の顔を見て泣くのが正しいと思うから。泣きそうになる相手なんて信頼している人しかいないから。

 忙しいのだろうか電話に誰も出てくれない。10コールしても誰も出なかったら切ろう。そんなにかけていたら迷惑だろうか。どうしよう、もう切ろうか。内心焦り始めた頃、電子音が途切れた。

『お電話ありがとうございます』

若い男性の声に聞こえる。

「あの、アルバイトって募集していますか」

『アルバイトですか?求人見て連絡くださったんですね。ありがとうございます。今担当のものが席を外しているので、また折り返しでも大丈夫ですか?』

「大丈夫です」

『かしこまりました。ではお名前とお電話番号を…』


 緊張した。電話は本当に苦手だ。握っていたスマホが汗でびっちょりと濡れている。でも電話出来た。折り返しが来るのも緊張するが、電話出来た自分をほめたい。

 約1時間後くらいに折り返しの電話が来た。履歴書を持参して明後日コンビニに行くことになった。


 電話した次の日に一応場所を確認しておこうという気になってコンビニまで歩いてみることにした。天気が良かったせいかもしれない。

 3月は春のイメージが強いから暖かい気持ちになるけれど、風が冷たいから少し混乱する。毎年経験することなのにリセットされてしまうようで毎年混乱する。この混乱が春の訪れを知らせてくれる気がしてなんだかんだ好きだ。

 坂道を下っていると向こうから自転車を引いてくるおばあさんが見えた。腰が曲がったおばあさんで、そのせいか小さく見える。

 おばあさんと挨拶を交わしてしばらく坂を下るとコンビニが見えてくる。車が5台ほどしか止まらない小さな駐車場のコンビニだ。

 ここのコンビニは店内の電気はLEDに交換したのに自動ドアにはしないようだ。

 中に入ると元気のよい声が聞こえる。

「いらっしゃいませ」

声を聞いた瞬間に電話に出てくれた人だと分かった。

 どんな人なのか気になってお菓子を見るふりをしながら盗み見る。目が合った。

 目が合うなんて思わなくて慌てて目を逸らす。きっと暇だからお客さんの動きを見ていただけだ大丈夫、そう言い聞かせながら適当にお菓子を手に取る。

 ぼんやりと店内を一周してレジに向かう。

「お願いします」

「ありがとうございます」

チラッと店員を見る。声の印象通り若い男性だった。

「158円になります」

目が合った。綺麗な目をしている。

「お客様?どうなさいましたか」

その声で我に返る。

「あ、すみません。ぼーっとしていました」

焦りながらスマホの画面に支払い用バーコードを表示させる。

「失礼いたします」

店員がバーコードを読み取ると、電波が悪いのか支払い完了の画面が表示されるまでに時間がかかった。

 支払いが完了したことを確認して商品を手に取る。

「ありがとうございます」

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

店員が深々と頭を下げた。


 あの店員に、どこかで会ったような気がする。あの目を綺麗だと思ったのが初めてではないような気がする。坂道を登りながら記憶をたどる。

 あの人の名前は何というのだろう。名札を確認してくればよかった。

 結局、家に着くまで思い出すことができなかった。


 バイトの面接の日になった。昨日のうちに買ってきたお菓子を食べながら履歴書を書いた。お菓子を食べながら履歴書を書くなんて人には言えないが、勉強するときも嫌な想像をして集中できないときや緊張で集中が途切れるときはいつもお菓子を食べながら問題を解いていた。履歴書を書くときも何度も書き間違えてしまうのでお菓子を食べた。こういう緊張する書類は汚さないように注意しながらお菓子を食べてやると気楽に書けると教えてくれた。汚さないのがポイントだと。

 面接に向かうために坂道を下りながら考える。私は一体そのことを誰から教えてもらったのだろう?思い出せない気持ち悪さと、漠然とした不安と、これから面接だということへの緊張で胃が痛くなる。

 少しでも落ち着こうと深呼吸をする。面接までにまだ時間はあるし。ゆっくり景色を見ながら歩こう。

 昨日とは時間帯が違うのに、また昨日と同じおばあさんが前から坂を上ってくる。天気が少し曇っていること以外は全部同じ景色だ。


 「君は記憶を引き継いでいくんだよ」

と誰かが言った。

どうして?と私は聞いた。

「僕がそうしたから」


 いつの間にか面接が終わっていた。明日から来て欲しいとのことだった。


 今日の予定はバイトの面接だけだったのに、なんだかすごく疲れた。バイトの面接から家に帰り、すぐ眠りについた。まだ5時半を過ぎた頃だったと思う。

 母親の声で目が覚めた。1時間くらい眠っていたようだ。ぼーっと時計を眺めていると部屋にいい匂いが漂ってくる。夕飯の匂いだ、とすぐに分かる。夕飯の匂いを嗅ぐとお腹が空いていることに気づくから不思議だ。


 部屋を出てリビングへ向かう。

「夕飯もうすぐできるから、お箸とかお茶碗とか用意して」

「はーい」

 食事の準備をして席に着く。いただきます、と両手を合わせる。スープを啜りながら母が言う。

「今日バイトの面接だったんでしょ」

「うん」

私はサラダに手を付ける。ブロッコリーを箸でつかんだ。

「どうだった」

「明日から行くことになった。最初は試用期間だから16時から19時くらいまでだって。良さそうだったら基本16時から22時までにして、学校とか用事とかあればその時間内で調節するって言ってた」

「夜10時は遅いから迎えに行こうか。明日仕事お休みだから送って行ってあげるよ」

「近いから大丈夫だよ」

「嫌なの?」

「嫌じゃないけれど」

「じゃあ乗って行けばいいじゃない」

そう言って母はご飯を頬張った。私はスープを啜る。


 夕飯を食べ終わって私はお風呂の掃除をした。お風呂の掃除か夕飯の片づけどちらかを一日交替で担当することになっている。今日はお風呂掃除の日だった。

 洗剤をまいて少し放置しておく。その間に歯磨きをする。薄いピンクの飴細工のような色の持ち手の歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を絞り出す。小さい破裂音のようなコミカルな音を立てて歯磨き粉の蓋を閉める。歯磨き粉のついた歯ブラシを口の中に入れる。

 鏡を見ながら歯を磨く。私は今日この顔で面接に行ったのだ、と思う。履歴書には証明写真を貼り持って行ったが、証明写真に写っていた自分の顔はこんな顔ではなかったような気がする。写真写りが悪いから写真は嫌いだ。


「どちらかというと写真は撮るほうが好き」

海が見える。風が吹いている。少し肌寒い。

「どうして?」

君の声が聞こえる。

「写真写りが悪いんだもん。写真のほうが綺麗に写るなら写真の方が好きだろうし、もっと撮ってって思えるかもしれないけれど、実物の方がまだましに思える」

私の声は不機嫌そうだ。対照的に君は機嫌が良さそうだった。

「確かに、君は実物の方が綺麗かもね。まし、というよりは実物の方が綺麗だ。写真を見て君に会いに来た人がいたとしたら、きっと実物が綺麗すぎて惚れてしまうね」

「何言ってんの」

私は呆れを含ませて笑う。けれど君が言うから本当にそうなのかもと少し嬉しくなる。


君は誰なの?


***


 朝起きてカーテンを開けると、雨が降っていた。天気が良ければこの時間は電気をつけなくても明るいのに、電気をつけないと頭がすっきりしないような気持ちがする。天気が悪い日は憂鬱だ。

「君もそうでしょ?」

私はそう言って後ろを振り返る。もちろん後ろには誰もいない。私の部屋には私以外誰もいない。

 混乱した。自分は誰に向かって言葉を発したのか。

 きっと夢でも見ていたのだ。誰かと一緒にいる夢を。

 きっと寝ぼけているんだ。そう言い聞かせて支度をした。


***


 「今日からお世話になります」

「よろしくね」

昨日面接してくれた人が今日も出勤していた。もうひとり男性がいたけれど、その人は今日はいないみたいだ。まだ2回しか会っていないのに、知っている顔があると安心する。

「これが制服ね。昨日も説明したけれどスカートはダメね。髪色とネイルは自由だよ。お洒落して来るところではないから、そういうところでお洒落楽しんでね」

「…ありがとうございます」

制服を受け取りながら、女の子に決め文句なのかなと考える。

 確かこの人が店長だったはずだ。ショートカットで顔立ちが中性的だから、男性なのか女性なのか、ぱっと見では分からない。一重で笑うと目が細くなる。店長は何歳くらいが平均年齢なのか分からないけれど、この店長は若く見える。

「最初は分からないことだらけだと思うけれど、分からなければ何度でも聞いて」

制服に袖を通しながら答える。

「ありがとうございます」

ありがとうございますしか言えないのかとか、思われないかな。まあ、どうでもいいけれど。


 初日は同じシフトの人に挨拶をして、少し仕事を教えてもらった。フェイスアップのやり方、挨拶の仕方、レジの打ち方…いろんなことが事細かにあって覚えることがたくさんあるなと思った。その度に汚い字でメモを取った。家に帰って読み返したら何を書いてあるかわからない場所がいくつかあって、メモの役割を果たしていなかった。


 次の日も同じ時間でシフトを入れてもらった。午前中は大学から出された課題に手を付けた。お昼ご飯を食べてだらだらしてバイトに行った。

 バイト先に着くと、昨日とは違う人がいて挨拶をした。その人は私より年上の女性で、私より背が低かった。その人は自分の胸元についているネームを指さして、

「中野です。よろしくお願いします」

と言った。話しやすそうな人だと思った。

 もうひとり、面接の前日にレジをしていた男性がいた。電話対応をしてくれた男性。その人は中野さんの後ろにいて、中野さんとの挨拶が終わるとこちらに来た。

「四宮です。年齢近い人が入ってくれて嬉しいです。よろしくね」

微笑むと少し幼い印象だ。

「よろしくお願いします」

私は頭を下げた。

「この前さ、お菓子買いに来たでしょ」

「覚えてるんですか」

四宮さんは得意げに言った。

「人の顔覚えるの得意なんだよね」

そんな話をしているとレジにお客さんが来た。

「レジやってみようか」

いきなりやるんですか、とは言えずにレジをやる。慣れない手つきでバーコードを読みとり、金額を伝える。

「研修中なの?頑張ってね」

支払いを済ませてからお客さんはそう言い残し出て行った。

「ありがとうございました」

と四宮さんが言うので、私も慌てて後に続く。

「ありがとうございました」


 「この調子ならすぐ仕事覚えられそうだね」と何を根拠にそう思ったのかよくわからないことを言われ、その日のバイトは終了した。

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