ホラー短編集

@ahdh

短編1

村の人々は、何代も前からその森に足を踏み入れることを厳しく禁じていた。だが、なぜ禁じられているのか、誰一人としてその理由を口にしようとはしない。ただ「行ってはならない」という言葉だけが、風に乗ってささやかれるかのように、村全体に漂っていた。


夏の終わり、ひときわ蒸し暑い日だった。俺――主人公の「カズヤ」は、友人の「タクミ」と共に、久しぶりに村の裏手に広がるその森の話を持ち出していた。友人と俺は、この小さな村で退屈な日々を過ごしていたため、禁じられた場所への好奇心は日に日に膨らんでいく一方だった。


「カズヤ、村のジジイどもに聞いてみても、結局何も教えてくれねぇな。なんか、めちゃくちゃ隠してるよな、あの森。」


「だよな。俺たち、ちょっと覗いてみてもいいんじゃね?」


タクミがそう言った時、俺は一瞬躊躇した。幼い頃から森には近づくな、と耳にたこができるほど聞かされてきたからだ。それでも、タクミと共に恐怖に挑む感覚が胸の奥で膨らみ、やがてその好奇心が恐怖を打ち消していくのを感じた。


夕方、村の裏手にある森の入り口に俺たちは立っていた。村の外れに位置するその場所は、昼間でも薄暗く、どこか重苦しい空気が漂っていた。木々は高く、葉は密集しており、光を遮るように覆いかぶさっていた。


「いくぞ、カズヤ。」


タクミが一歩先に進む。その背中を追いかけるように俺も森へ足を踏み入れた。


森の中は静まり返っていた。風の音さえ聞こえない。まるで、時間が止まっているかのようだった。森に入る前までは冗談を飛ばし合っていた俺たちだったが、その静寂に言葉を失い、ただ歩き続けた。


突然、タクミが足を止めた。


「なんだよ、どうした?」


「聞こえるか?」


俺は耳を澄ました。しかし、何も聞こえない。だが、タクミは確かに何かを感じ取っているようだった。


「なんか、囁いてる…誰かが俺に…話しかけてる…」


タクミの表情が変わった。その目には、確実に異常な何かが宿っていた。それは恐怖でもなく、驚きでもなく、まるで別人のような冷たさがあった。



それからの出来事は、あまりにも突然だった。タクミが振り返り、狂気じみた笑みを浮かべたかと思うと、次の瞬間には森の奥へと駆け出していた。


「おい、タクミ! どこ行くんだ!」


俺は必死に追いかけたが、すでにタクミの姿は木々の間に消えていた。心臓が早鐘のように打ち鳴り、恐怖が俺の全身を支配していく。何が起きているのか理解できないまま、俺はただ逃げることしかできなかった。



何とか村に戻り、息も絶え絶えのまま自宅にたどり着いた俺は、すぐにタクミの家に電話をかけた。だが、誰も出ない。不安が膨らみ続ける中、俺は再び電話をかけ続けた。


ようやく、タクミの母親が電話に出た。


「タクミなら…まだ帰ってきてないのよ。どこかに行ったのかしら?」


俺は何も言えなかった。タクミはきっとまだ森の中にいる。だが、そこに戻る勇気はなかった。


その夜、俺の眠りは浅く、何度も悪夢にうなされた。森の中でタクミが狂気に染まっていく姿。木々の間から現れる異形の影。そして、どこか遠くで囁く声が俺を呼んでいる。



数日後、タクミは村を離れたと聞かされた。彼の両親によれば、精神的に不安定な状態で、突然どこかへ行ってしまったという。村中でタクミを探したが、手がかりは一切なかった。


俺は自分が彼を森へ連れて行った責任を感じていた。しかし、どうすることもできなかった。村の誰にも、この恐怖を打ち明けられないまま、俺は一人でその重荷を背負い続けた。


ある夜、俺はふと気配を感じて目を覚ました。窓の外に、タクミが立っていた。


タクミが家を出た後も、村は平穏を装っていたが、俺の中では悪夢のような日々が続いていた。夜ごとに現れるタクミの姿――それはタクミそのものではなかった。彼はただ静かに俺を見つめ、何も言わずに消えていく。次第に、俺は彼の姿が夢か現実かの区別がつかなくなっていった。


ある夜、とうとう俺はタクミの姿に耐えられず、再び彼の家に電話をかけた。すると、電話越しに聞こえてきたのは彼の母親のかすれた声だった。


「カズヤ君…もうタクミのことは諦めてちょうだい。彼は戻ってこないわ…」


その言葉に何か引っかかるものを感じたが、深く追及する気力もなかった。しかし、その後、俺の頭の中にどうしても拭い去ることのできない疑問が残り続けた。


タクミの失踪から数週間が経ったある日、俺は村の古い住民である「シゲオ」という老人に話を聞く機会を得た。彼は長く村に住み、村の歴史に詳しかったため、あの森のことも何か知っているのではないかと思ったのだ。


「お前さん、あの森に足を踏み入れたのか?」


シゲオの鋭い視線に、俺は言葉を失った。しかし、彼の問いかけがあまりにも鋭かったため、すぐに頷いてしまった。


「やはりそうか…あの森には、何代にも渡って封じられたものが眠っている。村人が恐れているのは、その影響が人に及ぶからだ。だが、お前が今経験しているのは、ただの呪いの話じゃない。もっと個人的な因縁がある…」


「どういうことですか?」


シゲオは重い息を吐き、ゆっくりと話し始めた。


「タクミの家系は、普通じゃないんだよ。あいつの父親が若いころ、タクミの母親と結婚する前に愛していた女性がいた。その恋人は、村でも評判の美しい女性だった。しかし、あるとき彼は突然彼女を捨て、タクミの母親と結婚したんだ。そしてその後、彼女は失踪し、誰も彼女を見かけなくなった。村中の噂では、彼女は森に引き寄せられ、そのまま命を落としたと言われているが、真実は…もっと残酷だ。」


俺は驚いて聞き入った。シゲオはさらに続けた。


「本当のところ、タクミの父親は彼女を裏切り、彼女の魂をそのまま呪いに変えたんだ。彼女の恨みは今も続いている。それが、今タクミに降りかかっているんだよ。彼女の怨念がタクミに取り憑いて、復讐を遂げようとしているんだ。」


シゲオの話は、俺にとってあまりに現実味がないように思えたが、今までの出来事が次々に繋がっていく感覚がした。タクミの母親が略奪した愛、そしてその代償としての呪い。それがタクミに取り憑き、狂わせたのだ。


「彼の母親がすべての元凶ということですか?」


シゲオはゆっくりと頷いた。


「そうだ。だが、彼女はその罪をずっと隠し続けてきた。もう過去に囚われてはいけないと信じていたんだろうが、怨念はそう簡単に消えない。ましてや、命を奪われた者の恨みがね。」


シゲオの話に愕然とした俺は、真実を確かめるためにタクミの母親に会いに行くことを決意した。タクミの家に向かい、彼女に会った時、その表情には何かを隠しているような緊張が見て取れた。


「カズヤ君、何か用かしら?」


彼女の穏やかな声に、俺は一瞬ためらったが、ついに切り出した。


「タクミに何があったんですか?なぜあの森であんなことが起きたんですか?彼の父親のこと…シゲオさんから聞いたんです。あなたが隠していることがあるんでしょう?」


その言葉に彼女は一瞬硬直した。蒼白になった顔に、今まで隠してきた何かが溢れ出しそうな気配が漂った。


「もう…何も言わないで…お願いだから、忘れてちょうだい…」


その懇願するような言葉は、真実が明らかになることを何よりも恐れている証拠だった。しかし、俺は引き下がるわけにはいかなかった。


「タクミの父親が、昔付き合っていた女性を捨てて、あなたと結婚したのは知っています。けど、その女性がどうして失踪したのか、本当のところを教えてください!」


彼女はしばらくの沈黙の後、震える手でテーブルを握りしめ、ゆっくりと語り始めた。


「彼は…本当にその女性を愛していたわ。でも、私が彼を奪ったの。どうしても彼が欲しかったから。私は、彼女を傷つけることを恐れなかった…むしろ、私が勝ったって、心の中で誇っていたのよ。でも、それが間違いだったの。」


彼女の声は涙でかすれていた。


「彼女は森に消えた。誰も彼女がどうなったのか知らない。でも、私は感じていたの。彼女の怨念が、私に向かって静かに迫ってきているのを…彼女は私を許してくれるはずがなかったわ。」


俺は息を飲んだ。タクミの母親が犯した罪、その罪の重さが今、タクミに降りかかっている。


「じゃあ、タクミに取り憑いているのは…彼女なんですか?」


彼女は震える声で答えた。


「そうよ…彼女は、私が奪ったものを取り返そうとしているの。彼女はタクミを通じて、私に復讐しようとしている。私がしたことの報いを、タクミが受けてしまったの。」



タクミの母親は、体を震わせながら続けた。


「彼女は、タクミの父親を裏切った私を憎んでいるのよ。でも、彼女は直接私に手を下すことができない。だから、タクミに取り憑いて、私に復讐しようとしているの…タクミを使って。」


「そんな…タクミが犠牲になってるっていうんですか?」


俺の問いかけに、彼女は深くうなずいた。


「そう。彼女の怨念は今も消えていないわ。私がすべての原因なの。彼の父親を奪ったことで、彼女は私に全てを奪い返そうとしているのよ。」


その言葉に、俺の頭の中でこれまでのすべてが繋がっていった。タクミがあの森で狂気に陥った理由、そして彼の家族の過去。それは、父親を裏切られた女性の怨念が、今もなおタクミを通じて復讐を遂げようとしているということだった。


「彼女の恨みが消えない限り、タクミは解放されない…でも、どうすれば…?」


俺がそう聞くと、彼女は絶望的な表情を浮かべ、再び震える声で答えた。


「もう、手遅れよ。彼女は…完全にタクミに取り憑いてしまった。タクミが元に戻ることは、もう…ないわ。」


それから数日後、俺は再びタクミの姿を見た。今度は夢ではなかった。彼は夜の村外れで、ぼんやりと立っていた。


「タクミ…」


声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り返った。しかし、そこにいたのは、もうタクミではなかった。彼の瞳には、冷たい憎悪が宿っていた。


「お前は知ってるんだろう?」


タクミの口から発せられた声は、まるで別人のものだった。低く、冷たく、怨念に満ちていた。


「俺は…タクミじゃない。タクミの母親にすべてを奪われた…あの女の元恋人だ。今こそ、彼女に復讐を果たす時が来た。」


俺は言葉を失った。タクミに取り憑いているものが、彼の父親の元恋人であるという確信が、俺の中で一気に広がった。


「待て!タクミを解放してやれ!お前の復讐にタクミを巻き込むな!」


俺の叫びに、彼は冷笑を浮かべた。


「彼は私の道具に過ぎない。彼の母親が私から奪ったものを、私は彼女から取り返す。すべてが終わるまで…」


タクミの体はふらりと踵を返し、闇の中へと消えていった。



その夜、俺はタクミの母親の元に急いで向かった。彼女にすべてを伝えなければならない。タクミの命が危険に晒されていることを。


家に到着すると、家の中は真っ暗で、静まり返っていた。ドアを叩くが返事はない。俺は不安に駆られ、無理やりドアを開けて中に入った。


そこには、倒れたタクミの母親の姿があった。彼女は床に崩れ落ち、息絶えていた。そして、その目は、どこか遠くを見つめたまま、怨念に飲み込まれたような表情をしていた。


俺はその場で立ち尽くし、全てが終わったことを悟った。タクミに取り憑いていた怨念――彼の父親の元恋人は、最終的に彼女に復讐を果たしたのだ。


しかし、タクミはどこにもいなかった。彼はどこへ行ったのか、それは誰にもわからなかった。ただ、彼の母親の死とともに、彼もまたどこかに消えてしまったのだ。



それからしばらくして、村は再び静けさを取り戻した。あの森の話は、また誰も口にしなくなった。俺もあの日以来、タクミを見かけることはなくなった。


だが、時折、夜中に窓の外をふと見ると、彼が立っているような気がする。そして、その瞳には、今もなお消えぬ憎悪の光が宿っている。


村に伝わる禁忌の森。その森には、決して解けることのない怨念が、今も静かに眠っているのだ。






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