第2話

「──くん」


 唐突に、僕の名前が聞こえた。

 快適な睡眠から強引に意識を引き戻された感覚にもやもやしつつ、少しぼやけた視界で僕が目線を上げると、一人の女子生徒が僕の顔を覗き込むようにして立っていた。


 繊細な黒髪を耳にかける彼女。純粋無垢な瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。

 ……名前が出て来ない。


 いや、これは朝のせいだ。


 よく考えれば当たり前なこと。起きたばかりで顔と名前を一致させるのは難しいのだ。


 ……朝のせい?


 朝の、せい……。

 あさの、せい……。


浅野あさのせいさん?」


 何だか腑に落ちない思い出し方で僕がこぼした名前に、彼女は笑顔を咲かせた。


「当たりっ!」


 その笑顔に、僕は不本意にも頬が熱くなったのを感じた。

 寝起きで感覚が鈍っているだけ、昨日から気分が悪かった気がしなくもない、そう自分に対する言い訳を考えている間も、彼女は声を止めなかった。


「君、他人に興味ないのかと思ってた。嬉しいなあ、名前まで覚えてくれていたなんて」

「……なんで話しかけたんですか」


 プリントの回収やアンケートの協力なんかを、僕はどこかで期待していたのかもしれない。

 彼女が僕に話しかけた理由に、振り回されたくなかったから。

 しかし彼女は、見事に僕の心を掌に乗せたのだった。


「今日から、挨拶強化週間なの」


 彼女の胸元の委員長の印であるバッジが、爽やかな日差しに反射する。

 


「おはよう。今日も頑張ろうね」



 窓の隙間から吹いた強い風に目を閉じると、彼女は既に自分の輪の中に戻っていた。

 彼女の周りは、目線も交わしたことがないような生徒でいっぱいだった。


 僕とは違う。

 誰に何かを言われたわけでもないのに、僕はそう決めつけるしかなかった。

 それほど、彼女は、彼女のいる空間は、遠いものだったのだ。


 それと同時に、彼女のあの笑顔と声が、僕の頭にこびりついて剥がれない。


 笑顔って、こんなにも嬉しいものだっけ。

 おはようって、こんなにも心に残るものだっけ。

 僕の頭は、気付けば彼女に支配されていた。


 彼女の笑顔と挨拶が脳裏で生きている今、自分が強くなった気がした。

 まるで、失敗してもこれがあるから大丈夫、と、自信を持てる武器のようだった。


 今まで、自分が嫌だと感じる事から逃げて来た。今まで、変化を恐れて進まなかった。

 そんな、ほぼ役割を終えたような僕の歯車は、今日、再び音を立てて動き出した。


 笑顔と挨拶がこんなにも人の心を動かすのだと、初めて知った。


 今まで勇気が出なかった授業の意見交流、気付けば僕の右手は堂々と上がっていた。

 あれだけ先が見えなかった未来に、目標を探す活力が湧いた。

 先生に溜め息をつかれるくらい受けていた試験後の補習も、出席命令の名簿から僕の名前は消えていた。


 あれもこれも、全て、たった一回彼女からもらった笑顔と挨拶のおかげだった。


 彼女は、浅野星は、真夜中だった僕の世界の星となって、見るもの全てを輝かせてくれた。

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