推理をする
プールサイドに上げられた春香の死体には、これといった異常はなかった。
どこか傷つけられた様子もなく、ただびっくりするほど白い肌だった。目を見開き、口からは微小な泡を吐いていた。
「溺死だね」と死体のそばに立った長谷川が言った。
「……わかんの?」と俺は呟いた。
「口から泡を吹いてるのは、溺死の特徴だから」
「へえ。お前、そういう本も読むんだな」
返事がなく、おやと思って長谷川の顔を見ると、彼女は静かに泣いていた。
俺はびっくりした。長谷川が泣いたことにではない。長谷川が泣いて、俺は自分が泣いていないことに思い至り、そのことにびっくりしたのだ。
俺は、悲しくないのか?
自分で自分の気持ちがわからなかった。
「春香……」と長谷川がもらした。
俺はいたたまれなくなって、長谷川から顔をそらし、またプールサイドに座り込んだ。
きっと、まだ実感がわかないのだ。目の前の現実に。
とりあえずは、そう思うことにした。
「で、どうするんだ?」とまだ泣いている長谷川に、俺は言った。「とりあえず、職員室に先生を呼びに行くか?」
「待って」と長谷川は言った。「もっとちゃんと調べたい」
「は? やめとけよマジで」
長谷川は俺の制止を聞かず、春香の制服のポケットをあらため、次いで制服を脱がし、肌を確認し始めた。
「ポケットにはなにもない。肌にも外傷はない……爪の間も綺麗」
「いや、溺死なんだろ?」
「溺死だとして、どうして春香は昨日の夜にこのプールにで溺れていたの? 昨日は一度、家に帰っていたんだよね」
「まあ……」
「じゃあどうしてここに戻ってきたんだろう?」
知らねーよ。俺が聞きたい。
「なあ」と俺は言った。「やっぱりお前、なにか知ってるんだろ。なにか心当たりがあるから、自分で調べようとしてるんだろ」
「…………」
長谷川は春香の服を元通りにすると、俺に向き直った。長谷川の目からはもう涙は流れていなかった。頬にかすかに涙の流れた跡が残っていた。俺はプール脇にあるモニュメントクロックに目を向けた。時計の針はそろそろ生徒たちが登校し始める時刻を指していた。
「春香はね」と長谷川が口を開いた。「実は、ここ半年くらい、ずっと虐められてたんだよ」
「は?」
驚いた。寝耳に水、というやつだろうか。
春香が虐められていた?
知らなかったし、気づかなかった。恋人なのに、そんなことがあり得るのだろうか?
「春香、ずっと広瀬君に隠していたから」
「どうして」
「それは……とにかく、私は、春香がここで死んでいたのは、あいつらが関係しているんじゃないかと思ってる」
あいつら、というのは春香を虐めていた人間たちのことを指すのだろう。
「誰だよ。どこのどいつが春香を、どう虐めてたんだよ?」
思わず、語気が荒くなった。
「同じクラスの人たちだよ」と長谷川は言った。「変わったことはない。きっかけもわからないし。ただ気づけば無視をしたり、嫌がらせをしたり。そういう空気が作られてた。中学の私の時と同じ……」
それからいじめの主犯格として長谷川が上げた名前を、俺は誰も知らなかった。けれど一人だけ、同じ部活の奴の恋人で同じ名前の奴がいた。おそらく、同一人物だろう。
「だから三つ、可能性がある」と長谷川は俺の目を見て言った。
「なんの可能性だよ」
「溺死の原因。一つは自殺。もう一つは他殺。最後は事故」
「…………」
確かにな、と俺は思った。
本当に春香が虐められていたなら、それを苦にして自殺した。あるいは虐めの延長戦での他殺もありえるということだ。
「考えてみよう」と長谷川が言った。
「……ああ」
「まずは自殺。自ら死ぬためにプールに身投げした」
「待ってくれ」と俺はこめかみを押さえた。「まず、自殺しようとして、プールに入水するという選択肢が出てくるか? 普通は、首つりや飛び降り飛び込み、手首や首の動脈を切る、有毒なガスを発生させる、あとは薬の大量摂取とかあるだろ。プールで死ぬなんてことあるか?」
「全然、ありえるよ。家に家族がいて自殺しにくい場合は、それらの選択肢が大部分ダメになる。邪魔をされたり、迷惑をかけるからね。痛いのが怖いって場合も、入水なら痛くなさそうというイメージがある。まあ実際は、窒息はもの凄く苦しくて、自殺手段のなかでも苦痛の大きい方なんだけど。まあいいや。それに動機としても、プールで死んだなら、広瀬君に見つけてもらえる」
「はあ?」
「毎朝、一人で朝練してるでしょ? だから、ここのプールで死ねば、最初に広瀬君に見つけてもらえる可能性が高い。そういう意味では、動機としても成り立つ」
そう言われ、俺は反論できなくなった。言葉に詰まったまま、青く澄み渡った空を見上げる。
太陽光は相変わらず燦々と降り注ぎ、肌を焼いた。さっきプールに入ってびしょびしょに濡れていた長谷川の制服も、すでに乾き始めていた。
「でも、おかしい」と俺は言った。
「どうして?」
「プールに入って自殺するには、そう、手足をしばったりしないといけないはずだ。人間は、そんな意図的に溺れることなんてできない。よっぽどの金槌じゃなければ」
「春香は金槌じゃないよ」と長谷川は笑った。「プールの授業、一緒に受けたことがあるけど、普通に泳いでた。確かに意図的に溺れるなんてできないよね。溺れようとしたら、手足をしばったり、あるいは睡眠薬を飲んだり……」
「手足は縛っていなかった。だったら睡眠薬を飲んでいたのか? でも、これも厳しいだろ」
「どうして厳しいの?」
「入水自殺するってなったら、それこそ大量の睡眠薬を飲む必要がある、と思う。半端な量なら、水に入った瞬間に覚醒してしまいそうだし。でもだったら、その眠剤を入れていたケースや、薬のシートなんかが残されているはずだ。夜だから校舎やロッカー室には入れないし、さっきお前が調べてた通りポケットとかにも残っていない。だったらプールサイドや校庭にそういったものが残っているはずだ」
そう言って俺は、ロッカーに戻り靴を履いて、校庭を走って一周し、またロッカーに靴を戻して、プールサイドに戻った。
身体中に激しく汗をかいていた。
「……そういったものは見つからなかった」
「ははは」と長谷川は笑った。「お疲れ様。今ので否定しきれるとは思わないけど、まあとりあえずいいよ。でも、広瀬君の言った通りだとして、春香はもしかしたら家で睡眠薬を飲んできたのかもしれないよ?」
「それはない。家から学校まではおよそ自転車で二十分ほどだ。学校に着く頃には眠剤が効いてる」
「だったら、来る途中に眠剤を飲んだのかもしれない」
「……まあ、その可能性は否定しきれない」
痛いところを突かれたと思った。
長谷川は笑った。
「自殺は否定しきれない……でも、とりあえず次、他殺についても考えてみよう」
「それは自殺以上にありえないと思う」と俺は言った。
長谷川は目を細めた。
「へえ……それはどうして?」
「これもさっきお前が確認していたけど、まず外傷の痕が見当たらない。もし他殺によって溺れさせられたなら、多少なりとも揉み合いになったはずだ。それなのに、春香の肌に傷跡や打撲痕はないし、爪にも肉のかすが残ったりしていない。というかそもそも、プールで殺されたとして、どうやって春香を呼び出すんだよ」
「別に方法なんていくらでもあるよ。なにか弱みを握って、それを餌に呼び出したのかもしれない」
「それで呼び出して、プールに突き落として溺れさせた? 死体を回収しなかったのはどうしてだ?」
「殺したのは突発的なもので、運ぶ手段は用意していなかった。仕方ないから死体をそのまま残した」
「長谷川……」
「傷や痣がなかったのも、不意をつかれて突き落とされたのかも。水中でパニックになって、そのまま溺れたとか」
「……そうか。でももし他殺なら、一応アリバイも確認しないといけないな」
俺はまたロッカー室に戻ると、携帯を取り出して部員の一人に着信をかけた。春香を虐めていたらしい一人と付き合っている男だ。
数度目のコールでそいつは出た。朝早くからなんだよとぼやくそいつに、俺はいくつかの事実を確認し、また長谷川と春香の死体があるプールサイドに戻った。
「誰と話してたの?」と長谷川が言った。
「さっきお前が言ってた、春香を虐めてた奴らの主犯格の一人が、俺の知り合いと付き合ってる。だから、昨日その知り合いがその恋人と一緒にいたかを聞いた」
「へえ。それで、どうだったの?」
「一緒にはいなかった。けど夜八時から十二時に寝落ちするまで通話を繋げていたらしい。相手は自宅にいたみたいだ。俺が昨日春香と別れたのが七時半過ぎ。それから八時までの数十分は空白だが、その間に殺されたとは考えにくい」
「どうして?」
「その女の家も学校から自転車で二十分ほどの距離だ。春香をプールに呼び出して、殺して、自分も家に戻るまでに三十分弱では足りない」
「なるほど……じゃあその子が殺した可能性は低いかもしれないね」と長谷川は頷いた。「でも虐めのメンバーは一人じゃない。他の面子が殺したのかもしれない。あるいはやっぱりその子も殺しに関わっていて、彼氏がアリバイ作りのために口裏を合わせているのかも」
「…………」
「広瀬君さ、自殺や他殺はありえないって言うけど、それを言うなら溺死の方がありえないよ」
「どうしてだよ」と俺は言った。
「だって、溺死だったらそれこそ動機がない。どうして真夜中のプールに忍び込むの? それも制服で」
「……そうかな」
「そうだよ」
「…………」
俺のなかに、ある違和感が首をもたげていた。その違和感は、長谷川と話せば話すほど大きくなっていくようだった。
「お前さ」と俺は言った。「どうして、そんなに自殺や他殺に拘るんだ?」
「え?」と長谷川は目を丸くした。「拘ってなんかないよ。ただ、客観的にそっちの方が可能性が高いと思ってるだけ」
「そうか? 俺には、お前が自殺や他殺に拘っているように見える」
「そう?」
「そうだよ。どうしてだ?」
俺は長谷川の目を直視した。長谷川の目は最初見開かれていたが、だんだんと後ろ暗そうに瞼が下がると、一旦目線を外し、最後に俺を睨みつけるように細められた。
「……事故じゃ、罰せられない」
「あ?」と俺は聞き返した。
「ねえ」と長谷川は諦めたような顔で言った。「もしある人が、自分のせいで死んだとしてさ、それでも自分がなにものにも罰せられなかったら、その人は自分のやったことを後悔するのかな? 反省して、二度と同じ過ちを繰り返さないようにしようと思うのかな?」
「思わないだろ」と俺は切り捨てた。
「……そうでしょ」
「ああ。人間は、自分が悪いなんて思わないようにできてるよ。基本的に。まあ別に罰したところで後悔や反省するかはわからないけどな。するとしても、自分の境遇のためだ。本当に相手に申し訳ないなんて、そんなことは思わない。思うやつは、誰かを殺したり死ぬまで追い詰めたりしない」
「……でも、それでも、自殺や他殺なら、なにかしらの責任を問える。でも事故なら……それはできない」
「お前……」
「それに事故だったら、きっと広瀬君は自分を責めることになる」
「……どうしてだ?」
意味がわからなかった。なぜ春香が死んだのが事故だったら、俺が自分を責めることになるのだろう。もしかして長谷川はすでにある程度真相に近づいているのだろうか? そしてその真相には、俺が絡んでいるのだろうか?
「説明しろよ」
そう俺は言ったが、長谷川は俯いたままなかなか話しだそうとしなかった。
「長谷川!」
「……さっき、聞いたよね」と長谷川は口を開いた。「広瀬君は、春香のどこが好きなのか」
「それは……」
そう、春香の持っていた強さ。その強さに、俺は打ち抜かれた。
そう言おうとして、俺は目を見開いた。
春香の死んだ真相……
プール。
真夜中。
溺死。
外傷のない死体。
底に落ちていた眼鏡。
虐めの事実。
俺が春香を好きな理由。
あらゆる要素が浮かび上がり、俺の頭のなかで繋がろうとしていた。
「だけど……そんな」
「そうだよ」と長谷川は言った。「広瀬君は、春香が強いから好きだった。そうでしょ? だから春香は、虐められていたことを広瀬君に言えなかった。知っていたから。広瀬君が、自分の強さこそを愛していたことを。だからもし自分の弱いところを見せたら、広瀬君が自分から離れていくと思ってた」
俺は呆然とした。
ああ、そうか。俺は俺が春香を好きな理由で、春香のことを追い詰めていたのだ。
「これ」と長谷川は手に持った、春香の眼鏡を俺に見せた。「この事件の一番の違和感は、これ。昨日、春香はコンタクトをしていたはずなのに、プールの底には眼鏡が落ちていた」
「一度家に戻って、コンタクトから眼鏡に変えたのかもしれない」
「そうかもね。でも、私は違うと思う」
「…………」
「春香は最初から、コンタクトなんて付けていなかった」
不思議と、反論はなかった。それころか、自然と腑に落ちるような気がした。
「そもそも、突然コンタクトに変えたなんて言っていたのが不自然だった」と俺は言った。「だけど問題は、どうして嘘を吐いたのか……コンタクトではなく裸眼だと言えば、困ることがあったんだ」
長谷川はなにも言わず、先を促すようにじっと俺を見つめていた。きっと、俺が最後まで答えを出すのを見守ることに決めたのだろう。
「裸眼だと言って困る状況……つまり、どうして眼鏡を付けていないんだと言われたくなかった……?」
「…………」
「眼鏡をなくしたのか? でもそうだったとして、俺に隠す必要はない。俺に嘘をつく理由、俺からなにかを隠す理由……それは虐めに関係している? だったら眼鏡は奪われたのか? でも眼鏡はプールの底にあった……あ」
そうだ。眼鏡はプールの底にあったのだ。
俺は最初、春香は眼鏡をかけたままプールに入り、そこで溺れて、眼鏡も水の底に落ちたのだと思った。でももし眼鏡が最初からプールの底にあったとしたら?
「眼鏡は、虐めによってプールの底に落とされた……」
「春香は真夜中にしか、その眼鏡を取りに行くことができなかった」と長谷川がようやく口を開いた。「だって朝も夕方も、プールにはあなたがいて、大会に向けた練習をしているから。そんななかで、プールに落ちた眼鏡を探すことはできない」
俺は頷いた。
「もしそんなことをしていたら、俺は不審に思って春香に尋ねる。どうしてプールの底に春香の眼鏡が落ちているんだって」
「春香は、それを避けたかったの。そして、なるべく早く見つける必要があった」
「どうして?」
「その眼鏡が、広瀬君と二人で選んだものだから。広瀬君がその眼鏡を見て、春香のものだとわかってしまうから。だからプールで活動している広瀬君が底の眼鏡を見つける前に、眼鏡を回収する必要があった」
「昨日、俺が部活を終えてすぐに、春香から一緒に帰ろうと連絡があった」
「そう。昨日春香は、突然私のいる教室に入ってきて、ずっとこのプールを眺めてた。広瀬君の練習している姿を。きっと、祈るような気持ちだったんだろうね。広瀬君が眼鏡を見つけませんように……春香がそんなことを考えていたなんて、私は全く想像していなかった」
俺は愕然とした気持ちだった。そして同時に悲しかった。教室から俺の練習を眺める春香の姿は目の前の死体よりも現実感を伴って迫っていた。その時の春香の気持ちを想像し、俺は目尻に涙が浮かぶのを感じた。
春香の死体を見ても、流れなかった涙。
「……眼鏡は、水泳部が部活を始める前にプールに投げ込まれたんだな」と俺は無理やり口を動かした。
長谷川は頷いた。
「そうだと思う。そして水泳部が部活を始めて、春香は私のクラスの教室から、広瀬君が眼鏡を見つけないかを見張っていた。そして部活が終わったタイミングで、一緒に帰ろうと連絡し、待ち合わせの場所に向かった。そして落ち合って、一緒に帰り、別れた後、春香はまた学校に戻った。そしてプールに忍び込んだ」
「二つ、わからないことがある。どうして春香は溺れたのか? あいつは別に金槌ではなかった。それに、春香は制服だ。さっき長谷川も言ってたけど、普通、制服のままプールに入るか?」
「おそらく、プールにまだ水が張っていると思っていなかったんだろうね。部活が終わったら、水を毎回引いてるものだって勘違いしてたのかも」
「はあ? だとしても、見えるだろ。水が張ってあるなってくらい」
「見えないよ。だってあたりは真っ暗で、春香は眼鏡もコンタクトもしていなかった」
「……あ」
「だからプールに降りて、びっくりしたと思う。制服はびしょびしょに濡れて、でももう濡れてしまったからいいかって開き直ったのかも」
「それで、プールの底にある眼鏡を探した。そして溺れた」
「真夜中で、視力もおぼつかないなか、きっと大変だったと思う……ねえ、春香がどうして溺れたのか、私も確信を持って答えることはできない。でも、おそらくこれじゃないかなって仮説を立てることはできるよ」
「なんだよ」
「春香はきっと、なかなか眼鏡が見つからないことに焦っていたんだと思う。このまま見つからず、明日になって広瀬君が見つけてしまったらどうしよう。春香は何回もプールに潜った。あたりは真っ暗で、視界も悪く、手探りのような状況。そうして何度も潜水を繰り返すうち、春香はうっかり水を吸い込んでしまった。慌てて水中でもがくけど、制服を着たままだからうまく泳げない。そして……」
「…………」
「春香が死んだのは、どうしようもなく事故。誰かの責任を問うことはできない。だけど、誰にも責任がないなんてことは言えない」
そう言うと、長谷川は疲れたように俯いた。
クソ、と俺は思った。最悪の気分だった。重苦しさが胸に渦巻いていた。それは、もはやどうしようもない罪の重さだった。
全くなんて結末だよ。
冗談じゃない。
……冗談じゃねえぞ。クソ。
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