第6話

 その翌日。

 一花が病室のドアを開けると、そこには湊人と喋る楽しそうな弟の姿があった。


「あ、姉ちゃん!今日も湊人が来てくれたよ!」


 一花に気づいた一護の声は、明らかにいつもよりはしゃいでいる。


「一花ちゃんこんにちは!今、父さんがリハビリ行っててめっちゃ暇で、一護に構ってもらってます!」


「姉ちゃん聞いてよ!湊人がさ、おかしいの!」


 盛り上がっている2人を前にして、一花の胸には黒いモヤモヤが広がっていく。正体不明の苛立ちは、じわじわと一花の心を侵食していった。


「ほら、姉ちゃんも一緒に話そうよ〜」


 楽しそうな弟の声。だめだめ、苛ついちゃだめ。せめて2人の邪魔はしちゃだめ。

 一花は何度も深呼吸をし、顔を伏せて険しい表情になっているのを隠しながら、心の中で自分を静めようとする。笑え、笑え、笑え、自分。


 しかし、彼女の中でプツリと何かが切れた。2人の会話を横で見ているのは、もう限界だった。



「ずいぶん楽しそうで何よりだけど、一護、あんた今の状況分かってる?先生から手術しないと死ぬって言われてんの。どうしてそんな呑気でいられるわけ?」



 その瞬間、病室の時が止まった。やばい、と思ったのも束の間、一護が信じられないといった表情でこちらを見ている。


「姉ちゃん……?」


 今まで見たことのない形相の姉を、心配そうに覗き込んだ。


「……………ごめん」


 事態が飲み込めていない表情の弟を見て、一花は慌てて小さな声で呟いた。自分でも信じられなかった。ただ笑っていてほしいだけの存在を、世界一大切な存在を、あろうことか傷つけて、こんな顔をさせてしまうなんて。自分のことが、信じられなくなりそうだった。


「一花ちゃん大丈夫?もしかして体調悪い?」


 湊人も心配そうに声をかける。

 

 この人だって、悪い人じゃない。自分のことを気にかけてくれている。なのにどうしても、この苛立ちを抑えることができない。

 一花は2人への罪悪感と、自分に対する情けなさで、胸が張り裂けそうになる。


 ついに一花は、勢いよくドアを開けて病室を飛び出した。


「姉ちゃん!待って!」


 一護が叫ぶも虚しく、一花の背中はどんどん遠ざかっていく。


「……あんな姉ちゃん、初めて見た」


 あんなに苦しそうな姉を前にしても、自力でベッドから動けず、追いかけることすらできない。自分への不甲斐なさで泣きそうになる一護に、湊人は優しく声をかけた。


「一護、俺が代わりに追いかけてもいい?」


「湊人…………」


 ごめん、姉ちゃんをお願い、と一護は顔の前で手を合わせる。

 任せろ、と親指を立て、湊人は病室から出て行った。 


♔♔♔


「待って、一花ちゃん!」


 湊人の声が廊下に響く。一花の背中を捉えると、そのまま小走りで彼女を追いかけた。廊下の壁に沿って歩く一花は、湊人の声を無視してスタスタと歩き続けるが、湊人はすぐに彼女に追いつき、手首を掴む。一花の足が止まった。


 「俺、父さんから毎日2人の話を聞いてたんだ。2人の事情が複雑なことも、大変な状況だってことも、なんとなく知ってる」


 湊人の言葉が、一花の耳に届く。彼女は湊人の手を振り払い、振り返った。

 そして、湊人を牽制するのかようにギロリと睨む。


「だったら何?」


 一花の口調には、明らかな棘が含まれていた。しかし湊人はその態度に動じることなく、冷静に続ける。


「でも俺が2人に会いにきたのは同情なんかじゃない。父さんから、どんなに辛くても笑顔を絶やさない一護と、そんな弟を精一杯支えるブラコンな姉ちゃんの話を聞いて、ただ、友達になってみたいと思ったんだ」


 湊人はそう言いながら、真剣な眼差しで一花を見つめた。


「ブラコンは余計なんだけど」


 キッと自分を睨みつける一花に、ごめんごめん落ち着いて、と両手を前に出す。


「じゃあとりあえず、君の弟の友達ってことで。それでどう?」


 湊人はニッコリと微笑みながら、改めて一花の前に手を差し出した。

 一花は、その手をじっと見つめた。彼女の心の中には、さまざまな感情が渦巻いていた。



 一護に死んでほしくない。


 たったひとりの、大切な弟。

 たったひとりの、大切な家族。


 ずっと一緒に生きていたい。



 でも、それはもう叶わないかもしれない。



「……嫌だなあ」


 消え入りそうな声で、一花はポツリと呟いた。

 そんな一花を見た湊人は、少し考えてから柔らかい声で言った。


「実は、父さん伝いで一護からお願いされたんだ。自分が死んだら姉ちゃんが1人になっちゃうから、俺に姉ちゃんと友達になってほしいって」


「……そんなことだろうと思った」


「でも俺は、一花ちゃんがひとりぼっちにならないように来たんじゃないよ。一護がこれからもずっと笑っていられるように、2人がずっと一緒にいられるように、俺に出来ることがあったら何でもしたい」


 湊人の言葉に、一花がゆっくりと顔を上げる。


「1人より2人、2人より3人でしょ?」


 湊人はニカっと歯を見せて笑った。


 その瞬間、一花の心に、フワッと温かいそよ風が吹いたようだった。

 

 物心ついた頃から一人で闘ってきた。私が守らなきゃ、だって一護には私しかいないから。ずっと孤独な闘いだった。それでも、闘うことをやめたいと思ったことなんて一度もなかった。どんなに辛くても、苦しくても、一護の笑顔を見た瞬間、全部どうでもよくなったから。


 私が一護を支えていたんじゃない。私が、一護に支えられていたんだ。

 じゃあ、一護がいなくなったら?もし本当に一護が死んじゃったら、私はどうすればいいの?


 こんなこと、気付きたくなかった。ああもう、ムカつく。こんなポっと出の男が、なんで私よりあんなに一護を笑わせてんのよ。


 涙で滲む目を腕でゴシゴシと拭い、自分より20センチ以上高い湊人を見上げる。どこまでも真っ直ぐで、眩しい瞳。あまりにも自分と違いすぎる、余裕と多幸感いっぱいのオーラ。一護がこの人に懐く理由が、少しだけ分かるような気がした。


「……信じてくれる?」


 突然の一花の問いに、湊人は不思議そうに首を傾げる。


「一護は死なないって、これからもずっと私と一緒に生きていくって、あなたは信じてくれる?」


 それは一花の心の奥から溢れ出た、縋るような願いだった。

 そんな彼女を見て、湊人の顔も真剣な表情へと変わる。


「信じるよ。一護はこれからも、一花ちゃんといろんな試練を乗り越えて、ずっと幸せに生きていく。俺はそう信じてる」


 その瞬間、一花の目から滝のように涙が溢れてきた。拭っても拭っても、とめどなく溢れて止まらない。最後にこんなに泣いたのはいつぶりだろう。


 信じてほしかった。一護が病気に打ち勝つ未来を、これからもずっと一緒に生きていく未来を、自分以外の誰かに信じてほしかった。肯定してほしかった。大丈夫だよって言ってほしかった。


「一花ちゃんはひとりじゃないから。俺に出来ることがあれば、何でも言ってほしい」


 そう言って笑う湊人を見て、一花も泣きながら微笑む。警戒心が解けた様子の彼女に安心した湊人は、無邪気な顔で少しふざけるように言った。


「だってほら、友達の姉ちゃんは敬わないとだし?」


「………ふん、やっと気づいた?だったらもっと全力で敬いなさい」


「あ、意外とそういう感じのキャラなのね」

 



 

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