第5話
面会室での一件から、数日が過ぎた。あれから一花は手術の話題には一切触れず、何事もなかったかのように過ごしている。それはまるで、現実を受け止められず、必死にいつも通りの日常を装っているようだった。
そんな姉の様子を伺いながら、一護は慎重に口を開く。
「姉ちゃん、今日はバイト何もないよね?」
「うん。ほんとは今日もホテルの清掃があったはずなんだけど、なんか事故があったらしくて、急遽来なくていいって連絡がきたの」
「そっか、ちょうどよかった。実は姉ちゃんに会ってほしい人がいるんだ。もうすぐここに来てくれるから、カーテンを開けて一緒に待ってて!」
「会わせたい人?私に?」
病院の外に知り合いなんていないはずの一護が、私に会わせたい人だなんて、誰だろう。病院の関係者かな、看護師さんとか?
一花がそんなことをぐるぐる考えていると、病室のドアが突然ガラッと開いた。
「失礼します!東博人の部屋はこちらで合っているでしょうか?」
大学生くらいの若い男性が、少し緊張した様子で入ってきた。背が高く、明るい笑顔が印象的な好青年だ。
「あ!父さんいた!久しぶり!」
「おお、よく来たな。ほら、一護くん達にもきちんと挨拶しなさい」
てっきり自分への客人が来たのかと思った一花は拍子抜けした。なんだ、博人さんの息子がお見舞いに来たのか。
しかし、一護の様子がいつもと違う。ソワソワしていて、挙動が少々おかしい。まるで、彼がここに来るのを知っていたかのよう……。
そんな一花の予感は、見事に的中した。
「一護くん、一花さん、はじめまして!
「湊人さん、はじめまして。わざわざ来てくれてありがとうございます」
「ううん、俺も一護くん達に会いたかったんだ。父さんから話は聞いてるよ!」
湊人の無邪気な声は、まるで病室の冷たい空気を吸い込み、代わりに温もりを吐き出すかのような温かさがあった。実は内心ガチガチだった一護の緊張も少しほぐれ、改めて湊人の顔を真っ直ぐに見つめる。
「でも湊人さん、すっごく忙しいですよね。突然呼んじゃってごめんなさい」
「えー全然、そんなの気にしないでよ。てか気軽に湊人って呼んで、俺も一護って呼ぶから!あとさタメ語で喋らない?」
そう言って、湊人は手を差し出した。一護は彼の距離の縮め方に少々面食らいながらも、ぜひ、と笑いながら湊人の手を握る。
一方で、部屋の隅に立っていた一花の表情は冷たく固まっていた。湊人が弟に気さくに話しかける様子を眺めながら、彼女の胸には黒いモヤモヤが渦巻く。この湊人という男は、一体何をしに来たのか。一護が博人さんに頼んで彼を呼んだとして、その理由は何だろう。
………まさか、自分が死んだ後のため?
私を一人にしないために、私と出会わせるために、一護が彼をここに呼んだのだろうか?
彼女は、悪い想像を膨らませずにはいられなかった。
一方、一花がそんなことを考えているとはつゆ知らず、2人の会話はどんどん盛り上がっていく。
「博人さんから、湊人の話はたくさん聞いてるよ。とくにダンスを頑張ってるって」
「なんか恥ずかしいなあ。でもそう、ダンスは4歳の頃から続けてる。もう生活の一部って感じだよ。食べる、寝る、トイレ、歯磨き、風呂、ダンス、みたいな」
「すごい!もうそこまでの域なんだ、プロみたい!」
目を見開いて感心する一護に、湊人は笑いながら答えた。
「そうだ、よかったら来月発表会があるから観てよ!父さんのスマホに動画送るし、なんなら連絡先交換しようぜ」
その言葉に、一護はやや迷ったような表情を見せた。来月まで、果たして自分は生きているだろうか。何か言おうとモゴモゴと口を動かしてみたが、結局、誤魔化すようにただ微笑むことしか出来なかった。
その様子を見ていた一花は、胸の中に広がる不安を押し殺そうとする。もし一護が湊人に何かを頼んだとしたら、それは本当に手術を受けないという決意の表れのような気がしてならなかった。
湊人はしばらく一護と会話を続けた後、ふと一花に目を向ける。
一花の表情は冷たく、あからさまに湊人を警戒しているようだった。
「はじめまして!一護くんのお姉さんですよね?」
湊人は一花に向かってにこやかに話しかける。
「そうですけど」
そう短く返答した一花の声には、明らかに湊人を突き放すような圧があった。普段は誰に対しても人当たり良く接することを心がけている彼女だったが、今回ばかりは我慢ならなかった。
それでも、湊人は笑顔を崩さずに続ける。
「お会いできて嬉しいです!父さんから、いつもたくさんバイトを頑張ってるって聞いて……。俺は一花さんと同い年の18だけど、ダンスしかやってこなかったから、ほんと偉いなって」
嫌味か?わざわざ嫌味を言いに来たのか?
一花は、どうしても湊人の言葉を素直に受け入れられなかった。彼にそんなつもりがないと頭では分かっていても、卑屈に考えることを止められない。
「別に好きでやってるだけだし、何も凄くはないけど」
顔をしかめてそう答える。もはや態度を隠そうともしなかった。
「そっか」湊人は少しだけ微笑んで答えた。
「でもやっぱり、俺は凄いなって思うよ」
きっと何を言われても、一花の中にある壁は依然として崩れないだろう。湊人はその壁の存在を察し、それ以上は深く踏み込もうとしなかった。
♔♔♔
その日の帰り道、一花は病院を出て冷たい風に身を包まれながら、湊人の言葉を反芻していた。
「いつもたくさんバイトを頑張ってる」だって?何度思い出しても、やっぱり嫌味にしか考えられない。でも彼は、一点の曇りもない尊敬の眼差しで私にそう言った。きっと育った環境が違いすぎるのだろう。無理にでもバイトを詰めないと生きていけないこちら側の人生なんて、彼には想像もつかないのだろう。
一護が久しぶりに笑顔を見せていたことが唯一の救いだったが、それは同時に心残りにもなったのだった。
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