第4話

 病室に戻った2人の表情は、さっきまではしゃいでいたとは思えないくらい凍りついていた。

 車椅子からベッドに移乗した一護は、項垂れる姉に何と声をかけるべきか分からず、ただ俯いている。ベッドサイドの椅子に腰掛けた一花は、そんな弟をぼんやりと見つめていたが、しばらくして思い立ったように椅子から立ち上がり、精一杯の笑顔を浮かべて言った。


「今までだって、散々同じようなこと言われてきたじゃない?」


 まるで自分に言い聞かせるかのように、段々と力の入った声へと変わる。


「その度に、一護はちゃんと乗り越えてきたんだから。今回だってなんとかなるよ!一緒に頑張ろ!」


 一花の笑顔は明らかにぎこちなく、口角がピクピクと引き攣っている。それでも絶対に表情を崩そうとはしなかった。そうやって、何度も一護を励ましてきたのだ。

 そんな姉に対して、一護は今までとは違う反応を見せた。目を伏せたまま、静かに言葉を選ぶように答える。


「姉ちゃん、俺……手術は受けない」


 その言葉は驚くほど冷静だった。


「もうやれるだけのことはやったよ。俺も、姉ちゃんも、もう充分頑張ったよ」


 一花の顔が固まった。今までの一護なら、どんなに困難な状況でも最後は必ず「頑張るよ」と言ってきたのに。あまりにも冷静すぎる弟の言葉が、頭の中でこだまする。彼女にはもう、弟に寄り添う余裕などなかった。


「……勝手に投げやりになって、諦めないでくれる?」


 さっきまでの力んだ声とは打って変わり、弱々しい声量になる。


「なんか、そういうの気分悪いんだけど」


 一花は、心の奥から湧き上がる焦燥感を抑えきれなかった。どうしてこんなに簡単に諦めるのか。これまで何度も一緒に乗り越えてきたのに、なぜここで投げ出そうとするのか。彼女の胸には、じわじわと怒りが広がっていった。


 一護はそんな姉の様子に動じず、真剣な顔で穏やかに続けた。


「投げやりになってるんじゃないよ」


 一護は、ゆっくりと一花の方を向き、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。


「実は、ずっと前から考えてたんだ。次に手術を勧められたら、もう断ろうって。退院して、残りの時間を姉ちゃんと二人で穏やかに過ごしたいって」


 天井にある電球の光が、一護の顔に当たっている。その目の奥に見えるのは、決して揺るがない決意だった。


 そんな弟の言葉に、一花はその場で立ちすくんだ。頭では理解できても、心がそれを拒絶するようで、ただただ心臓が苦しくなる。ショックで何も言葉が出てこず、胸の奥からふつふつと込み上げる感情に、何もできない自分がもどかしい。


 何より、今まで見たことないほど真剣な表情の弟を前にして、もう自分が何を言っても届かないのか、という恐怖が渦巻く。


 一護はそんな姉をじっと見つめながら、さらに言葉を続けた。


「ただ、俺がいなくなった後の姉ちゃんのことだけが心配なんだ。だからさ、今のうちに趣味とか、楽しいこととか、新しい友達とか、ちゃんと見つけて、俺を安心させてよ」


 その言葉が一花の耳に入った途端、目の前の弟が涙でぼやけていく。こみ上げてくる涙が、溢れそうになるのをぐっと堪えた。


「なんで……なんでそんなこと言うの………」


 震える声で、一花は何とかそれだけを絞り出した。涙でかすむ視界の中、彼女は弟の顔を必死に見つめる。彼が言っていることは全て現実なのか、自分が聞き間違えたのではないかと、そう願うしかなかった。


「姉ちゃん、」


 一護の声は、とても穏やかだった。しかしその穏やかな声と表情は、今の一花にとって耐えがたいものだった。


「私は、あんたが生きててくれるだけで、それだけでいいのに……」


 一花は、感情を押さえつけるのも限界だった。自分にとって、一護がどれほど大切な存在なのか。どうすれば、自分の思いが届くのか。


「姉ちゃん、聞いて――」


 一護が何かを言おうとしたが、一花はそれを遮った。今の弟の言葉を、これ以上聞き続けることには耐えられなかった。


「……もうバイトの時間だから、行くね」


 一花は涙を拭い、顔を一護から背けた。感情が爆発しそうになる自分を必死に抑えながら、最後に小さく付け加えた。


「でも、手術は絶対受けてもらうから」


 それだけ言い残すと、一花は背中を向けて病室のドアに向かった。ドアを開けると、冷たい廊下の空気が彼女の顔に触れる。けれど、その冷たさが彼女の心まで冷ますことはなかった。ドアが静かに閉まる音が響き、病室は再び静寂に包まれた。


 一護はそんな姉の背中を、ただ見送ることしかできなかった。


♔♔♔


 一護はベッドの上で頭を抱え、ため息をつく。一花との会話が頭の中で何度も繰り返され、胸が締めつけられそうだった。どうすればいいのか分からず、時間だけが刻一刻と過ぎていく。


 ふと向かい側のベッドから、誰かの視線を感じた。一護がカーテンをそっと開けると、博人が心配そうな眼差しでこちらを見ている。


「一護くん、大丈夫かい?」


 博人の声は落ち着いていて、表情には温かさが感じられた。一護は驚きながらも、少し申し訳ない気持ちになった。きっと会話を聞かれたんだろうな。


「ごめんね。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、二人の会話が聞こえてきちゃって……」


 博人はそう言って、心配そうに一護の顔を見つめた。

 その優しさに少しだけ気が緩んだが、同時に罪悪感も募る。


「博人さん、こちらこそうるさくしちゃってごめんね」


 一護はそう呟いた。


「いやいや、全然うるさくないよ」


 博人は静かに首を振る。彼は一護と一花に出会って以来、何かと2人のことを気にかけるようになった。自分の息子と歳が近いというだけでなく、若くして苦労しながらも助け合って逞しく生きる2人に、どうか幸せになってほしいと願わずにはいられなかった。


「ただね、どうしても心配になってしまって。部外者なのに、つい声をかけてしまったんだ」


 そんな博人の言葉に、一護は少しだけ気持ちが軽くなった気がした。彼の言葉は、心の中のモヤモヤを少しずつほどいてくれるようだった。

 しばらく考え込んでから、一護は小さく息を吐き、ゆっくりと博人に向かって口を開く。


「……博人さん、一つお願いがあるんだけど」

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