第8話 ・・・

 あの日以来、私は冷静になった気がする。 

 

 断ることも、触れる前に逃げることもできた。それなのに私は彼の思うがままになった。やってはいけないことだったという自覚もある。 


 あれ以来彼と会うのは今日が初めてだ。 

 

 「こんばんは。家庭教師の坂田です。」

  

 いつも通りの、ビジネスモードに切り替えてインターフォンを押すとお母様が迎え入れてくれた。 

 

 「今日もよろしくお願いします。」 

 

 一瞬、母親経由で何か言われるかと思ったが、何もないようで安心する。 


  

 「こんばんは。今日から1か月後に迫った後期中間試験の対策に入るね。」 


 「はーい。よろしくお願いします。」 

 

 私が何もなかったかのように接すると、意外にも春輝もいつも通りの態度をとった。 

 

 「先生、このプリント終わった。」 

 

 「じゃあ、これ解いて待ってて。」 

 

 当たり前すぎるくらい普段通りで、まるであの日のことは二人とも忘れているようだった。 

 

 なかったことにするなら、お互いやりやすい。そこらへんはまあまあ賢いんだなと思い感心する。 

 

 「おめでとう。今日も全問正解!」

 

 そう言ってプリントを返した時の事だった。 


 「まだ、俺のこと子供扱いするんですか…?」 


 その件には触れない約束かと思ったのに。 


 「そうだね。先生を困らせるだもん。」 

 

 「俺は本気です…。わかってもらえないならもう一度…。」

  

 「今日で、家庭教師の担当は最後にします。」

  

 とっさに出た言葉だった。本心じゃないことは自分が一番わかっているし、もっと彼の先生を続けたい。


 でもこれ以上彼と一緒にいたら、本当に自分がおかしくなる。 

 

 「…!どうしてですか?先生だって…。」 


 「単純接触効果って聞いたことある?」 


 私は彼の言葉を遮った。どこかの本で読んだ内容を自分に言い聞かせるように彼に説明する。


 「心理学的に証明されているんだけどね…。特定の人と何度も接触するうちに自然と好印象を抱くようになるんだって。」



 彼はじっと私を見つめていた。


 目をそらして、私は続ける。


 「一ヶ月くらいすれば、すぐに元に戻るよ。そしてきっと後悔する。あの時なんであんなことしたんだろうって。」


 「そんなことないです。それに先生がいないと、勉強も…。」


 「生徒といけないことをする人は、先生じゃないの。もう二度と会わないって約束しよう。」


 「そんな、俺はあなたが…。菜々美さんが先生だったから…。」 


 「お母さんには上手く説明しておくから、心配しないで。」

  

 私が笑って見せると、彼はただ首を横に振った。今にも泣きだしそうな顔をするではないか。 


 「だいたい、生徒と恋愛なんて絶対ダメなの。でも、これだけは忘れないで。」 

 

 私の言葉に彼は顔を上げた。 

 

「この先、春輝がどれだけ人気になって、色々なことを言う人が出てきて、時にはアンチみたいなひどい人もいて。でも、何があっても、私はあなたの味方だから。」 

 

 彼の前で泣かなかったのは、私にほんの少し演技の才能があるからかもしれない。来世は彼とテレビで共演かもな。 


 「じゃ、さよなら。」 


 へへっと笑って、いつも通り母親に挨拶を済ませると彼の家を出た。 

 

 11時なんて遅い時間で良かったなと思う。 

 

 そうじゃなかったら、道端で泣いてると目立ってしまうから。 

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