恙なきや

 杼媛とちひめは、使用人の手も借りて礬水ばんすいを引いた布地を用意することと、非力な方が逆に都合良いとかで、いつの間にやら墨磨り専属係にまでなっていた。


それに比べると俺は、画が必要になるかも知れないという理由だけで、長上おさがみに同席が許可されている。


そして留守役るすやくは、文の内容を吟味する係だ。送り先のサルヌリ朝だけでなく、報せの鳥が他朝の手へ渡っても支障がない範囲か、長時間話し合う事もしばしばあった。そこへ呼んでもいない人物が出現した。


「ちょっと失礼しますね。長上おさがみ、タマル冠が参りました」


「何の用だ。兄自慢は聞き飽きたぞ」


「そのようですね。皆方、最初は聞いてくださるのに、数日経ったら途端に都合がつかなくなるんです」


なんだ、タマル冠にも自覚はあったのか。だったら話題を変えるか、聞き役に回ればいいのに。同じく様子を見ていた杼媛とちひめが、すずりへ墨を置いてひそひそと話し出した。


霧彦きりひこ、あの方どうかしてましてよ。部屋付の使用人曰く、居室に戴冠タイカンの肖像を飾って毎日話し掛け、一人微笑んでいるそうです)


たぶん本当なんだろうな……、タマル冠ならやりそうな事だ。納得しながら想像すると、下手な怪談より怖かった。


「ですから、にいさまと文通なさっているのでしょう。うちにも書かせてください。あて字は地面に沢山書いて覚えてきました」


「それがどうした。布も墨も葦筆も、貴重なものだぞ。報せの鳥だって手塩にかけて育成している」


「わからない方ですね。神鳴り山は、うちの持ち物なんですよ。長上おさがみが、産出する磁石石じしゃくせきで、砂鉄や餅鉄の在処を探して何を企んでいるかは存じませんが。山の主の機嫌を損ねても、得などありません」


「分かった分かった。もうタマル冠の好きに書け、ただ忠告するが、返事は期待するなよ」




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