R-15 奇貨

 俺はひとしきり長上おさがみの腕の中で笑ってから、ようやく地面へ降ろされた。


「湯殿に行くからついて来い。背中を流してやる」


「望むところです。でも本当に、流すだけでいいんですか」


「――それは霧彦きりひこ次第だな」




 せっかくさっきまで落ち着いていたのに。長上おさがみの涼しい顔して余裕そうな態度が癪に障る。俺はまた段々イラッとしてきた。

このままじゃ本当に、背中だけ流して解散する勢いだ。そしたら今度こそ、新顔のひめの所に行っちゃうんだろうな~。


そんなの許せるはずがない。それでもって、今日は偶然気が向いて、出迎え直前まで練習に耽っていたから都合が良い。残念でしたねひめ、指でも咥えて寝てればいい。俺が急に椅子から立ち上がって後ろを振り返ると、少し困惑気味の表情と目があった。


「どうした急に、かゆい所でもあったか」


「本気で言ってるなら、もう職業病ですよ、それ」


「どちらの話だ。……訳が分からん」


よっしゃ、これで思考の渦にはまったな。今のうちに再準備しよう。にしてもうちの義兄と同じく、考え出すとおっそろしく無防備だな。


顔が見える位置で横になってあちこちいじりながら、様子をうかがうと。あらら、まだ考えてる。いい加減こっちを向いて欲しい。こんなんでよく無事に戻って来れたよな。いや、ひょっとして例の……。あ、やばい新たな興奮材料が。


「はっ。そういう事か、洗髪で言うからか。調髪師の方だな。なあそうだろう霧彦きりひこ、ところで何してるんだ」


「だって俺経験とぼしいし。人から聞いた昔のあなたを思い浮かべてたら、正直興奮しちゃいます」


「……ふっ、何を言い出すやら。くくっ、ふ……あははははっ、あまり笑わせるな」


やったね、また抱っこされた。お返しに柔い唇に喰らいつくと、頭を引き寄せられた。これでもう興味は完全にこっちのもんだ。気がつけばずうっと、ただ単純に抱き合っていた。長上おさがみも俺もあまりに静か過ぎたから、湯係が身を案じて遠慮がちに外から声を掛けてきてから、ようやく離れた。


「あーあ、酷い夫ですね。新妻放っといて、私にばかり構うなんて」


「本音は真逆だろ、顔からにじみ出てるぞ」


「やだなあもう自惚れちゃって。そんなはずないんですけど」




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