霧彦の章

むごさと甘さ

 実にお誂え向きな事で、その日のうちに長上おさがみから夕餉の席に呼び出された。しつり様もご一緒だ。


霧彦きりひこ、首尾はどうだ」


「よくわかりません。何度か短い距離を走ったり、鞠つきを横で見てました」


「結構じゃないか、足腰を鍛えるのはよい事だ。なあ、しつり」


 長上おさがみが汁物の椀に口をつけながら話を向けたものの、対するしつり様は食べながら話す事を良しとしないのか、しばらく咀嚼してからようやく口を開いた。


「知らぬわそんな事。領主は勇退したが、鍛錬の指南役に就いた覚えはない。会いたいというのは嘘だったのだろ。怒っているのだぞ吾人は」


しつり様がそっぽを向くと、長上おさがみもわざとらしく首を傾げた。


「ふうん、会う口実を作っては駄目か。隠居後わざわざこちらまで越して来たのは、の単なる思い違いだったのだな。身勝手に懸想して悪かった」


「なっ……、その手は食わぬ。吾人は騙されないぞ」


「信じてもらえないのは悲しいなあ。霧彦きりひこ、こちらに来て傷心を慰めてくれ」


 勘弁してくれ、俺まだ食べ終わって無いんだよ。

渋々食器を置いて膝に乗ると、あれよあれよという間に衣服がくつろげられていく。


「んんんっ、ちょっと長上おさがみどこ触って……あ、しつり様が泣きそう。いや泣いてますよ」


「放っておけ、こちらに集中しろ。どの辺りが好みだ。やって見せろ、閨の参考にする」


こんな状況で実演してたまるか。流石は初対面の相手と屋外でも構わずおっ始めただけのことはある。


「うわわわっ、えんがちょー」


そんな長上おさがみを相手取り、俺が必死な攻防戦を繰り広げていると、いつの間にかしつり様がにじり寄って来ていてぎょっとした。


「ぐずっ、……不公平だ。霧彦きりひこばっかり構われてずるい~。そんな新参のどこがよいのだ。吾人の方がずっとずっと慕っておるのに」


「それは良かった。晴れて両想いだなしつり」


 うわあ……そのまま笑顔で抱擁するなんて。長上おさがみも、まったくむごい事をする。ちょっとやそっとで揺らがない位、しつり様に好かれている自覚があるから、こんな横暴がまかり通るのだ。


「うぬぬ、たちの悪い色男め。この悔しさは何じゃ、惚れた弱みか、我ながらみっともない」


「どこが。しつりは本当に、会った時から素晴らしい。それに比べて霧彦きりひこのやつは自覚が無くて困る。単なる怯懦か自信が無いのか、あるいは高慢なひめ達に何やら吹き込まれでもしたのか……使用人の仕事を奪ってまで、下働きしたいそうだ。――しつりはどう思う」


「は、むかつく……そんな下っ端根性、吾人が叩き直してくれるわっ」


「では、明日からもよろしくな。ひめ達の所へ参るでな」


 まんまと長上おさがみにしてやられた。俺が愕然としている間にも、長上は用意された盥で手を洗い、控えていた使用人に差し出された布地で手を拭いながら、ひらりと身を翻して去って行く。ただ部屋を出てすぐの所に誰かが居たようで、こちらからは見えないが、話し声は聞こえた。


「ありがとうひめ。今日も美味であった。今後もよしなに」


「それはようございました。長上おさがみ、ではごゆるりと」


間一髪、俺が急いで身なりを整え終わったところ、現れたのは海媛うみひめだった。しつり様は怪訝な顔をした。


「おや、ひめがここまでお出でとは面妖な」


「何か文句でもおありか。知っての通りわたくしは炊事担当、たまには直々に、食の好みを確認しようと思い立ったまで。夫の身を案じるいじらしい・・・・・妻ですよ。……嗚呼もう、また残して」


いじましい・・・・・、そなたの腕が落ちたのではないか、もっとましな物でも食わせてやれ」


「あーやだやだ、これだから鈍い御仁は」




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