上克下

 ――領主、思ったより優しかったな。

 意外と傅役ふえきの教育の賜物だろうか。代吏だいりから他にも聞かされた先の領主の所業を鑑みるに、きっとそうなのだろう。あの人は、身内には優しい。


 生母は産褥死、産まれた子にも難があった。

それをあろうことか、使えない女と口走った先の領主は――川下りの不幸な事故に遭うのも当然か。



 阿諛あゆは帰りの荷物を背負い、律儀に最初の別れた地点で待っていた傅役ふえきに話し掛けた。


あるじ、懇ろになるってそういう事だったんですね。確かにあれなら、心が通うこともあるかも知れない。人から求められるのは素直に嬉しいし」


「きさま……今なんと言った」


「なにって、お分かりでしょう。でもあるじは少し、母君の面影を領主に見ているのではありませんか。領主の女装は健康祈願のまじないとも取れますが、もう虚弱体質でも何でもない。びっくりする程お元気でしたよ」


あっ、しまった。これは逆鱗だったか。拳が顔面に飛んできてようやく気がついた。不意を突かれて地面に倒れたところを更に足蹴される。


「とうとう取り柄の阿諛あゆも失ったか、一度領主と寝た位でくだらん妄言を。その耳障りな舌叩っ切ってくれるわ」


「仰せのままに。剃刀ならここにあります」


懐から差し出して手渡したのは、我ながら気が利くようになったと思う。痛みで呼吸もしづらいが、首を掴まれて上を向いた。


「おい傅役ふえき。そこで何をしている」


領主の声に反応し、向き直るため、傅役ふえきの手と刃が止まった。


「罰を与えているのです。領主のお庭を汚して申し訳ありません」


「そんなに血が見たいのか、ならば傅役ふえき、そなたの背中の皮をはいで今すぐよこせ」


――うわ、それはちょっと。阿諛あゆは慌てて身を起こして領主へひざまずく。


「おやめください領主、誤解です」


「馬鹿を申すな、その流血はなんだ。どこに誤解がある」


「私は浅手ですし、替えもききます。でも傅役ふえきは違う。かけがえのないお方です。例えば――え~っと……夫が他所で子を儲け、長年暮らした妻を捨てたらどう思いますか。本音がどうであれ、傅役ふえきがずっと領主に尽くして来たのは正真正銘の事実なのに。その結末は、あんまりです」


「おい、その例え話はまさか――あの色呆けジジイ、またよそに子供こさえたのか。これで七人目だぞ、いい加減にしろっ。やはり乳母の今後をあんな奴には任せておけぬ。お望み通り離縁を薦めてやるわ」


「それは傅役ふえきの勘違いです。変な邪推はやめてください。今のは単なるものの例えです」


「あやつにそこまで庇う価値があるとは思えんが。まあ案ずるな、代吏だいりに累は及ばぬ。こちらも傅役ふえきは降りるでな。領主もいよいよ元服じゃ。――領主。最後に名代として、王朝へ報告に参ります事をお許しください」


「許すも何も、当然だろう。吾人の為にさっさと行って来い」


「ありがたき幸せ、しかと承ります。おい、帰るぞ阿諛あゆ。これから王朝詣での支度をせねば。お前も末席に加えてやる」


「はいあるじ。ぜひお伴させてください」


「えーっ、そんなあ。試したい事が山程あるのに。怪我人なんだしこのまま置いてってよ~」


 いや、そもそも怪我人に手を出すなよ。俺はとうに湯浴みを終え、着替えながらそう思った。


「そう云うことか、出会ってすぐに迫ったから……あやつ吾人を好き者と勘違いしておるのでは……」


確かにそれは、しつり様の言う通りかも知れない。ただ世の中には、仮に思っても口に出さない方が良いこともある。今がそれだ。


「ななな、何ということだ。しまった、今からでも訂正は間に合うだろうか。どう思う霧彦きりひこ


「私に分かるわけがないでしょう。長上おさがみに直接聞いたらどうですか」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る