本の話

 背中に冷たさを感じた。全身が回る感覚、重く痺れるような。

「大丈夫ですか」

 そう声をかけられた。瞑っていることに気づかないほど自然に閉じていた瞼が開いた。

 顔を覗き込む老紳士。同時に周りの景色が飛び込んできた。満天の星空。

 月明かりを頼り、顔がよく見えないけれど、善意を持った老紳士の雰囲気は何となくわかった。周りの情報をまとめ、平衡感覚が戻り背中に硬い土の地面を感じた。

 脳にかかる力が急速に抜けていった。

「一人で立つのはお辛いでしょう」

 そう言って手を差し出してきた。

「ありがとう、ございます」

 そう言って老紳士の手を握り立ち上がった。背中が地面から離れ、2本足で立つとまた脳が酷使され世界が揺れる。

 落ち着いた状態になるまで両手で体を支えてもらった。

 世界が凪いだように静かになり、だんだんとはっきりものを考えられるようになった頃、老紳士が口を開いた。

岩尾いわおはじめと申します。数年前までは小説家をしていた老人です。ここ数百年はそれ一筋で生きていたのですが、残り数百年の寿命を全うするために転職活動をしている老人です」

 岩尾さんはそう自己紹介をしてくれた。

「ところであなたはこんなところで何をしていらしたのですか?」

 そこまで質問されてからようやく気が付いた。私はどうしてここにいるのだろうか。

 ひどい夢を見て、お粥を持ってきた桃李が消えて、世界が真っ暗になった所までは覚えている。そうして、浮遊して、そこからどうした?

 なかなか説明を始めない私を見て何かを察したのか

「失礼、そんなのは些細なことでしたね。それでは一番大切なことを一つだけ。」

 岩尾さんはそう断りを入れた。

「一人でご自宅に帰れますか?」

 そう言われて周りを見るとそこは全く知らない公園だった。ブランコが二つ、大人が滑るにはあまりに小さい滑り台、それに対しやけに長いベンチが二つありすぐ周りは民家に囲まれていた。街灯が一つポツンとあるだけで、他に明かりは星と月しかなかった。塗装の剥げた小さい柵のすぐ近くの向かいには民家ががあり、他は木々に囲まれて出入りができなかった。夜ということも相まって閉塞感が付きまとうような公園。

「すみません、ここがどこか分からないので、近くの駅などに連れて行っていただいて構いませんか?」

 と聞くと

「20分ほど歩くことになりますが大丈夫でしょうか」

 と返事が返ってきた。

「はい、大丈夫です」

「それでは、行きましょうか」

「はい」

 そこまで会話をし、岩尾さんは私の手を握った。

「迷子になっては困りますからね」

 と楽しそうに言った。

 公園を出て左に曲がる。信号機をつけてもあまり意味がないような古臭い民家にはさまれた狭い道路を抜けると、一気に遮蔽物がなくなり、星が空に散っていた。

「こちらです」

 そう手を引かれ、再び歩き出す。

 道もよく見えないのに。

「大丈夫です」

 私の疑問を見透かしたような言葉が来たと思ったがそうではなかった。

「記述と貴方がイコールならば、その記述がある時点であなたは死にません」

「その記述はこの世界ではないにしろ、必ずどこかにあります」

「この世界であなたの記述がないのなら他の世界に頼りなさい」

「死にたくないのなら記述されるぐらい特徴的な人間に成りなさい」

「それでもなお死に恐怖があるというのなら、自分が記述した人物に自分の記述を渡しなさい」

 私が言えるのはそれくらいです、と話は締めくくられた。

 しかし数分歩くとまた岩尾さんは口を開いた

「大丈夫です」

「弱さを自覚できてなお弱いことをあなたは自覚しています」

「ほんの些細な勇気があればいいのです」

「譲れるところが少ないから今、あなたは苦心しているのでしょう」

「視野を広げなさい」

「愛を確かめる方法は最も限定されたものだけではないはずです」

「拒絶の対象の中心を見極めなければなりません」

「苦しかったのだから、淋しかったのだから、嬉しかったんでしょう」

「心に痛覚が芽生えて初めてだったから、抑えきれないのでしょう」

「常に理性を、常に正しさを心に持ちなさい」

「そして、自分は耐えられても、誰かは耐えられない痛みがあります」

 そこの自覚があなたには足りない、と言った後、話は続かなかった。

 また、手を引かれて星空の下を歩く時間が流れる。

 岩尾さんの言葉がどこか引っかかっていた。

「なんだか少し前に読んだ本を思い出します」

 題名は何と言ったか。確か、孤独な

「『孤独な皮膚』ですか?」

「そうです、それです『孤独な皮膚』」

 人の心の痛みが分からない青年が恋をし、操れなくなっていく自分と心の痛覚の変遷を描いた作品で、当時の私はそんな変われなかった心が揺れ動く恋をしたいと強く願ったものだった。

「こりゃ珍しい人と会いましたな」

 と一気に砕けた口調になる岩尾さん。きっと明りの下で見たら満面の笑みをしているだろう。

「あれは自費出版でして。ライトノベルという言葉が世間に浸透して、私の耳に入ってきた時に書いたものなんですよ。いやまさかあれを読まれてしまうとは」

「あ、はい。古本屋に置いてあって背表紙見て何となく面白そうだなって思って手に取ったんです」

 そうでしたか、と小さく笑いながら、

「あれはもう絶版してしまったんですよ。最初に刷った1000部も売れ残ってしまってね」

「私は好きでしたよ『孤独な皮膚』」

 好きだった、どの本よりも。大切だった、ずっと消えてほしくなかった。人の心の痛みを知れる唯一のものに思えたから。

「そうですか。そしたら安心ですね。あなたが覚えてくれるなら、それだけでも書いた意味はあるというものです」

 最後に私に振り返って岩尾さんは言った。

「もう大丈夫ですね」

 握っていた手が突然震えたかと思うと、岩尾さんがゆっくりとこちらに倒れてきた。

 手を離し、両手で体を支えようとしたが大人の男の人の体は想像以上に重かった。

「岩尾さん、大丈夫ですか⁉」

 と聞いたが返事はない。完全に寄りかかっている岩尾さんの足に力が入っているように見えない。体が動いているように見えない。

 嫌な予感がして首の付け根に手を当て脈を測った。しかし指から心臓の鼓動が伝わってこなかった。

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