第15話:8月10日(月)山に登って読書しました

 明日から十六日までお盆休みでラジオ体操がありません。


 だから、今日で夏休みが半分終わっちゃうような感じです。


 絵理ちゃんはやけにそわそわしていました。


 明日変な現象をふっしょくして気持ちよくフランスに行きたいからでしょう。


 巴ちゃんも明日から新幹線でおばあちゃんの家がある青森に帰省するそうです。


 さっちゃんはベルギーから帰ったばかりなのに、お盆には九州のおばあちゃんの家に飛行機でフライ。


 私だっておばあちゃんの家に行くけれど、日数は短いし、車だし、すぐ近くなので何だか負けた気分。


 ああ、書きながら今日のピクニックで読んだ『女生徒』の文体が移っちゃったなって思います。


 でも、いいや。


 お父さんとお母さんがお仕事に行っちゃって、お姉ちゃんはずっと寝ています。


 私は文乃ちゃんが来るまで何となくピアノをひいていました。


 課題曲を練習する気分じゃなくて、YOASOBIの「夜に駆ける」を適当にひきました。


 元の曲みたいにキレイな演奏はできないけれど、歌いながらメロディーを追うくらいはできます。


 チャイムが鳴って、はいおしまい。



 ピクニックは文乃ちゃんのお母さんが車を出してくれて、八蛇町から一時間半くらいのところにある百々山どどやまに行きました。 


 ちゅう車場で車から降りると、こい夏の緑の匂いがしました。


 山の日だからたくさん人が来ていたけれど、「クマとかイノシシの対策になるかもしれないよ」って文乃ちゃんは前向きでした。


 文乃ちゃんのお母さんはおっとりしていて静かな人です。


 静かな風に見えて突然早口でしゃべることもある文乃ちゃんとはちがいます。


 百々山は標高六百六十六メートルの山で、ケーブルカーで五百メートルまで登れます。


 文乃ちゃんはメガネの下の目を輝かせて、小さくなっていく遠くの街をながめていました。


 私はむしろ近くなってくる山頂を見つめていました。


 緑の木々の頭上をナナメに登っていくにつれ、何となく体が清らかになっていく気がします。


 そういえば百々山は修験道というものの山でもありました。


 図書館で読んだ本によると、千年くらい前は聖なる山として立ち入ることが禁じられていたそうです。


 八蛇川の大きな支流は百々山から流れ出ていて、秋にはサケがそ上したこともあったとか。


 ケーブル駅に着いたら、文乃ちゃん、私、文乃ちゃんのお母さんという順番で山頂への道を歩き始めました。


 頭には麦わら帽子、首にはタオル、リュックの中にはお弁当、水筒、虫よけスプレーが入っています。


 山道を歩きながら私はあの葉っぱがキレイだとか、あの声はどんな鳥かなぁとか、沢の音が気持ちいいねとか、思いついたことを話しました。


 だけど文乃ちゃんはハアハア言うだけでぜんぜん話してくれません。


 仕方ないから文乃ちゃんのお母さんに語りかけるのだけど、うんうんとうなづくだけで話が進まないので、やめました。


 私は一人で山と向き合うことにしたのです。


 今になって考えてみれば私が感じたキレイな景色とか、音とか、ニオイとか、そういうのをわざわざ他人と共有する理由がよく分かりません。


 キレイだからあなたも見て、なんて言うのは余計なお世話なのかもしれません。


 その人にとってはキレイじゃなかったり、私が言わなくても勝手に見つけたりしている可能性だってあります。


 だけど、山を登っていた時にこういうことを考えていたわけではありません。


 あの時は二人ともそっけないなと思って、まあいっかと共有することを投げ捨てたのです。


 それだけです。


 なのに今になって色々とリクツをつけて考えてしまうのは、やっぱり『女生徒』のえいきょうです。


 山頂について写真を撮ったら、ちょっと下った所にある原っぱで『女生徒』を読むのですが、その中身について少し書いちゃいます。


 だって、道中を言葉にしたら「夏の太陽で葉っぱがキラキラしてた」とか「青い空がとっても高くて景色がよく見えた」とか「汗をたくさんかいて登ったから気持ちよかった」とか、そういうことでしかありません。


 キレイな山に登って、楽しく山頂に立って、へとへとになった文乃ちゃんとそのお世話をするお母さんを置いて、ちょっと下った原っぱに先に行った、これだけです。


『女生徒』の主人公は私と同じか、少し上の女の子です。


 時代は戦時中らしく、舞台は多分東京でしょう。


 この子は感性が豊かな子で、細かいことに気が付きます。


 たとえばメガネをかけるとぜんぶはっきり見えていやだけど、かけないとすべてぼんやりして大きな光とか形しか見えないからキレイだし、人の顔もあいまいだからみんな優しく見える、なんて発想です。


 女の子の家には二匹の犬がいて、片方をかわいがって、片方にはそっけない上、冷たくされている方の犬は片足がなくてみすぼらしい可哀想な犬なのです。


 お母さんのことは好きだけれど、どこかで哀れに思っている感じがします。


 キレイなお姉さんはもうどこかにお嫁に行って、子どももできちゃったので甘えられません。


 そして、一番好きなお父さんはもうこの世にいないのです。


 朝起きた女の子は電車に乗って授業に出て、こっそりかみの毛を整えて、帰って来てお母さんのお客さんをイヤイヤもてなして、お風呂に入って眠ります。


 これは一日の出来事を書いた小説なのです。


 その中で色々なことを考えるのですが、私は電車の場面が一番好きです。


 電車には他人ばかりが乗っていて、自分がまだ子どもだからなのか分からないけれど、小さくなったような気持ちがしたり、はずかしくなったり、大人のあさましさとかあきらめているところばかりを批難したりします。


 そのくせに電車から降りるとさっきまでのぐつぐつと煮えたお鍋みたいな思考はさっと消え去り、けろりとしてしまうのです。


 その気分はとてもよく分かります。


 たとえばこの登山だって、道中私に答えてくれない二人にもやっとした感情を抱きました。


 でも、山頂について呼吸をしたらそんな気持ちはどっかにいって、なかったのと同じになりました。


 あたらしい「いま」が楽しい、というこの考え方は、しかし小説の後半で変わっていきます。


 最後のところには「明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。」と書いてあって、「幸福は一夜おくれて来る。」ともあるのです。


 結局、楽しいのは「いま」か「明日」か、どっちが正しいかとかはわかりません。


 多分、両方が正しいのです。


 確かに「いま」は楽しいけれど、その楽しさって「いま」は分からないんじゃないかなって思います。


 だって「楽しい」を分かろうとすると、どうしても過去のことになってしまいます。


 本当に「楽しい」はずの「いま」は、「楽しい」と自覚した時にはもう通り過ぎているからです。 


 それって「あす」と同じです。


 いつだって楽しい「いま」は少しだけ先にあって、「楽しい」と思った時にはもう過去になっています。


「いま」は「明日」で、「楽しい」は昨日。


 日記を書いているとその考えがしっくりときました。


 読書感想文はこれでいけるかなって思います。


 しばらく集中して読書していたら、文乃ちゃんたちもやって来ました。


 原っぱにある石のベンチでお弁当を広げて、楽しくお話ししながら食べました。


 お母さんが作ってくれたお弁当は、タコさんウィンナー、ハート形の卵焼き、ほうれん草、プチトマト、骨付きチキンがオカズで、ご飯にノリで音ぷが描いてあるカワイイお弁当でした。


 文乃ちゃんのきんぴらごぼうがおいしそうだったのでウィンナーと交換しました。



 午後は三人並んで読書をしました。


『女生徒』を読み終えたら、道から外れないという約束をして、私は一人で散策に行きました。


 山頂と原っぱの間に神社があるのでそこを目指しました。


 山道の階段は基本的に木で作られているけれど、登山道から神社までのわき道にある階段は石で作られていました。


 一歩一歩上っていくと、何人かの降りてくる人とすれちがいました。


 緑がとてもキレイで、すんだ風が静かに吹いていました。


 階段を上り切ると鳥居があって「百々山神社」と書かれた額縁がかかっていました。


 鳥居をくぐるとそれまでの登山道よりもいっそう涼しい感じがして不思議でした。


 境内には人が一人もおらず、私のひとり占めでした。


 右手には手水屋、左手には縄の巻かれた大きな御神木がありました。


 神社の裏手には湧水があって、八蛇川の支流がそこから始まっているそうです。


 手水屋の水は石で作られたカエルの口から流れ出ていてかわいかったです。


 手と口を清めたら、二礼二拍手一礼で参拝しました。


 すると、鈴がチリンって鳴りました。


「よく来たわね」


 女の人の声がしたので振り返ると、御神木の前にかみの長いキレイな人が立っていました。


 どこかで会ったことがある気がするけど、思い出せませんでした。


「ケーブルカーがあったから楽に登れました」


 そう答えると女の人はうなずいて「私はタツメというの。あなたは?」と言いました。


 知らない人だったけど優しそうだったし、何となく見覚えがあったので「私はなっちゃん!」と返事をしました。


「タツメさん、私とどこかで会ったことがありますか?」


 そうたずねると、タツメさんは笑顔で「私は今日が初めてよ」って言って、「裏の池を見に行かない?」と右手を差し出しました。


 私は自然とその手を取って神社の裏手に回っていました。


「すごくキレイなお水……」


「これはそのまま飲めるのよ。ほら、ヒシャクが置いてあるでしょう?」


 わき水は神社裏のコケが生えた岩から出ていて、半径一メートルくらいの小さな池になっていました。


 池の底には白い砂があって、その下からも出てているみたいでした。


 とう明な水は池から細い川を作っていて、神社のナナメ裏にあるがけの方に流れて行っていました。


「すごくおいしい!」


 しゃがんで一口飲むと、普段飲んでいるのとはぜんぜんちがうことが分かりました。


 上手く説明できないけど、わき水の方が何倍もやわらかくて、あっさりしていました。


「このお水、水筒に入れてもいいんですか?」


「もちろんよ」


 私は水筒に水をくみながら、タツメさんがずっと私を見ているようで、本当は最初から私の首元の鈴だけを見つめていることに気付きました。


「この鈴は水上神社でかわずちゃんからもらったんです。かわずちゃんは私のお友達で……」


 説明のと中でタツメさんがスッと手のひらを私に向けました。


「大丈夫よ。取ったりしないわ。少し気になっただけなの」


 タツメさんはそう言って私のとなりにしゃがむと、池の水をひしゃくですくって空いている手にゆっくりかけました。


「なっちゃんはおうちに帰ったら手を洗うでしょう。洗わなかったら、ヨゴレが目に見えなくても何となく落ち着かない気がしない?」


「します」


「その鈴も同じなの。目には見えないけれど、少しつかれているようだから……」


 タツメさんに言われると、不思議と鈴がヨゴレているというのが本当のことのような気がしました。


 毎日首から下げてお風呂に入っているし、寝る時もつけているし、この前は海にも行きました。


 車の中に置いておいたとはいえ、海風のえいきょうはあったでしょうし、帰りの温泉ではずっとつけていました。


「ここで洗ってあげるといいわ。その赤いヒモもいっしょにね」


 タツメさんにうながされるまま、私は首から鈴を外してヒモごと池につけました。


 ちらっとタツメさんを見ると、ようやく目が合いました。


「なっちゃんは素直ないい子ね」


 ほめられると悪い気はしませんでした。


 私は「ありがとうございます!」とお礼を言って、鈴を首にかけ直しました。


 ぬれたヒモが冷たくて気持ちよく、チリンと鳴る鈴の音も何だかキレイになった気がしました。


「もしもなっちゃんが望むなら、その鈴をここに置いていってもいいのよ」


 タツメさんはそう言って立ち上がり、さわやかにウィンクしました。


「だけど、あなたもその子も、どうやらお互いが気に入っているみたいね」


 タツメさんはそのまま神社の表の方に歩いていきました。


 私は鈴を手のひらにのせて「私のことが好きなの?」とひとり言をつぶやきました。


 ゲコ。


 すると、どこかでカエルが鳴きました。


 私は立ち上がって池を後にしました。


 境内にタツメさんの姿はなく、何人かの登山者がそれぞれワイワイしていました。


 原っぱにもどって、ケーブルカーの駅まで山を下りました。


 帰りは文乃ちゃんもよゆうがあるみたいで、読んだ本の話とか、景色の話とかができました。


 おうちまで送ってもらって、またお盆明けに図書館へ行く約束をしました。


 その時に、お互いの読書感想文を読み合いっこします。


 お母さんが会議でおそいから、夕ご飯はお姉ちゃんが中華の出前を取ってくれました。


 ギョウザ、チャーハン、豚ニラ炒め、からあげ、キャベツ、マーボー豆腐。


 多すぎて無理かと思ったけど、お父さんが「お母さんの分もあるし、明日また食べればいいよ」って言ってくれて助かりました。


 お風呂から上がって日記を書き始めました。


 そこで気づいたのですが、思い出そうとしてもタツメさんの姿が思い出せないのです。


 キレイな人だったけれど、服装とか、顔の細部とかにはモヤがかかっていて全く分かりません。


 ただ印象だけが残っている感じです。


 山では不思議なことがあるって前におばあちゃんが言っていたけれど、その通りかもしれません。


 でも、タツメさんは多分いい人だし、ピクニックは涼しくて気持ちよかったので、今日は楽しかったです。


 明日は絵理ちゃんと約束があるから、水筒に入れたわき水を持って行ってあげる予定です。


 あのおいしい水を飲めば、きっと気分がリフレッシュできるはず!


 おやすみなさい。

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