第29話 レイラク様 3/3

 幸運だったことが、2つある。

 1つ目は、虎松が力に慣れていないこと。

 2つ目は、紬麦が側にいてくれたこと。


 戦ってみてわかったが、虎松はまだレイラク様の力を完全に掌握していない。彼がレイラク様の力を完璧に使いこなしていれば、きっと俺たちは瞬殺されていただろう。


 そして今回の戦いは、紬麦がいなければここまで優位に進むことはなかった。彼女の陽動、秀逸な防御術、そのすべてが俺を助けてくれた。紬麦の存在があったからこそ、俺は虎松をここまで追い詰めることができた。もし俺一人だったら、今ごろ倒れていただろう。


「意外とタフだな」


 あと数発ほど中級の術を発動すれば、虎松を葬ることができるだろう。しかし……それまで虎松が大人しく待ってくれるとは限らない。虎松は不気味なほど静かに項垂れているが、その目には得体の知れない光が宿っている。彼はまだ何かを隠しているに違いない。もだえるほどの激痛に襲われているはずだが、ここまで静かなのは……あまりにも不気味すぎる。腐ってもオマキ様と同格の存在なので、油断は禁物だ。


 ならば、どうするか。

 その結論は、既に決まっている。

 あとは──勇気を振り絞るだけだ。


「紬麦、少しだけサポートを頼めるか?」

「うん、もちろん!! 何をすればいい?」

「俺は今から、少し呪力を練る。その間──」

「朝日くんを守ればいいんだね!!」


 聡明で助かる。

 紬麦は眩しい笑顔を浮かべ──


「《鐵の装 参式》!!」


 刻印術を発動した。

 紬麦が纏っていた黒い装束は、瞬く間に西洋騎士の甲冑のような装備へと変容していく。その重厚な姿から察するに、参式とは防御に特化した形態なのだろう。その鎧を纏うことで、彼女は俺を守護することを誓ってくれたに違いない。


 これから行おうとしている術は、発動までに少し時間がかかる。その間、俺は無防備になってしまう。紬麦に守ってもらうしかないが、彼女はその役割を見事に理解してくれた。その聡明さと迅速な判断力に、心から感謝せずにはいられない。


「朝日くん、キミは必ず私が守るよ」

「はは、まるで本当に騎士みたいだな」


 紬麦の甲冑がきらめく中、俺は呪力を練り始めた。彼女がそこにいること、それだけで安心感が広がり、集中して術を発動することができる。彼女の存在が、この戦いにおいてどれほど大きな力となっているか、改めて実感する。彼女の負担を減らすためにも、出来るだけ早めに術を発動しないとな。


 修行中、母さんは上級術を教えてくれなかった。俺の才能がないことも理由の一つだろうが、一番の理由は、《闇蝕》の上級術があまりにも危険すぎるためだろう。中級を発動するだけでも、最初は激痛に苛まれたのだ。だからこそ、上級の術はさらに危険であると予想できる。

 

「████」


 虎松の記憶が、脳内に流れ込んでくる。

 忌まわしく、自分勝手な記憶が。


 ──元はと言えば、すべてコイツが悪いんだ

 ──コイツが入院してから、俺は退屈だった

 ──他の奴をイジメても、面白い反応は示さない

 ──退屈凌ぎのイジメにも、段々飽きてきた

 ──だから、コイツが戻ってきた時は嬉しかった

 ──やっと、おもちゃが帰ってきたのだから


 ──だからこそ、コイツのことは許せない

 ──俺よりも強くなり、俺を負かしたこと

 ──多くの生徒の前で、俺に勝ったこと

 ──そのせいで、皆からバカにされたこと

 ──そのすべてが、耐えがたかった

 ──強くなったコイツを、俺は許せない


「……本当に最低だな」


 寺野朝日はコイツにイジメられ、毎日苦しい思いをしてきた。それなのに、虎松にとってそれはただの退屈凌ぎだった。全身に傷を増やし、心に消えない傷を負った朝日を、虎松はおもちゃとしてしか見ていなかった。どこまでもクズで、どこまでも救いがたい男だ。この男を、俺は絶対に許せない。


 ドス黒い感情が、心の中で囁く。

 もっと徹底的に痛めつけ、もっと凄惨に葬ってやろうと。生爪を剥がし、目玉をくり抜き、臓物を引き抜いてやろうと。徹底的に殴り、元の形もわからないほどグチャグチャにしてやろうと。


 だが……心の中の冷静な部分が、さっさと終わらせようと叫んでいる。確かに……虎松の顔は、もうあまり見たくない。とにかく早めに終わらせ、さっさと家に帰りたい。虎松という人間のことを、一刻も早く忘れたいという気持ちが今は強い。


「ふぅ……」


 やはりぶっつけ本番だからか、術の発動に時間がかかる。今はまだ右手に黒い瘴気が集っているだけで、その形はまるで形成できていない。黒いモヤを握っている状態であり、まだどんな術になるのか見当もつかない。そもそも、瘴気を限界まで集めれば上級の術が発動するだろう、などという俺の甘い考えが実現するかもわからない。


 だが、それでも空気は変わっている。

 この壊れた祭り場全体の空気が重く、そして陰鬱なものに変わっていく。術の発動で漏れ出した瘴気の影響で、そこら中に散らばった提灯や屋台の商品が、徐々に黒ずんでいく。幸いなことに紬麦には、影響は出ていない様子だ。


「……あ、なるほどな」

「████」

「虎松、お前の敗因が1つわかったぞ」

「████」

「なに、安心しろ。俺を怒らせた、なんてことを言うつもりはないさ」

「████」


 術の発動中に祭り場の惨状を見渡し、ふと虎松の敗因が分かった気がした。怯えるような、不安そうな雰囲気でこちらを見つめる虎松に、俺は優しくその理由を教えてやる。


「祭りというものは元来、神への感謝のために行うものなんだよ。神を慰め、神に祈願を伝えるものなんだ。まぁ、ゲームっぽく言えば、神に対して常にバフをかける場所って感じだな」

「████」

「だが、お前はそんな祭り場を自ら破壊した」

「████」

「つまりお前は自ら、バフをかけてくれる場所を破壊したんだよ。その結果、必然的にお前は弱くなったんだ」

「████」

「本当に……どこまでも救えないな」


 哀れ過ぎて、何も言えない。


「さらに言えば、その短気な性格も敗因だな」

「████」

「お前がもっと冷静であれば、俺の攻撃を避けることもできたはずだ。だがお前は頭に血が上り過ぎて、俺の攻撃を正面から受け続けてしまった。まるでプロレスのように、ただの見せ場を作りたいだけの愚行だったな」

「████」


 虎松の視線が揺れ、その背中は震え始めていた。前髪に隠れた目が潤んでいるのがわかる。彼は、戦いの中で少しずつ自分の敗北を悟っていく。その姿は、まるで弱き者が絶望に打ちひしがれているかのようだった。


 虎松の恐怖が頂点に達した瞬間、彼は最後の力を振り絞り、冷凍光線を放ってきた。その一撃は、まさに彼の渾身の力を込めたものであり、命中すれば俺は一瞬で氷塊となってしまうだろう。


 だが──その攻撃は、虚しくも俺に届かなかった。


「《霊障結界》!!」


 紬麦がすかさず結界を展開し、虎松の冷凍光線を完全に防ぎ切った。光線は結界にぶつかり、そのまま消滅していく。虎松の目には、今度こそ本当の絶望が映っていた。


「朝日くん、安心して」

「あぁ、任せたぞ」

「うん、任せられたよ!!」


 その瞬間、再び記憶が流れ込んできた。だが、今回は俺の記憶ではなかった。


 ──あれは、私が6歳の頃だった

 ──初等部の入学式、虎松に話しかけられた

 ──あの時の彼の言葉は、今でも覚えている

 ──「ここで服を脱いで、全裸になれ」

 ──彼は下品な表情で、私にそう言った

 ──必死に逃げたけれど、彼は追いかけてきた

 ──最終的に何とか撒けたけれど

 ──それでも、あの日のことは今でも忘れられない


 その記憶が、まるで自分が体験したかのように脳内に流れ込んできた。紬麦が抱えてきた恐怖と屈辱が、俺の胸を締め付ける。こんな思いをしながら彼女が生きてきたなんて……その怒りが、再び俺の心を燃え上がらせた。


 虎松を絶対に許してはならない。

 紬麦を悲しませ、彼女を苦しませた者を、俺はここで消し去らなければならない。


「……完成だな」


 漆黒の呪力が右手に集まり、やがてその形が明確になっていく。それは、まさに闇の中から生まれた剣。夜の帳が凝縮され、鋭利な刃となったかのようだ。深淵そのものを宿した剣は、ただの武器ではない。その中には、全ての怨嗟と憎悪、そしてこの世の暗黒が封じ込められている。剣を握る手には、冷たさと共に絶望が染み渡るような感覚が広がった。


 剣から立ち上る瘴気は、生き物のように蠢きながら周囲の空気を呑み込み、まるで世界そのものを侵蝕するかのように闇を放っている。その光景は、ただただ禍々しく、この世に存在してはならないものだった。闇が形を成し、全てを断ち切ろうとするその剣は、絶対的な破壊力を誇っていた。


 発動と同時に、右手に激痛が走る。

 それと同時に、脳内に術名が流れる。

 だが──今は気にしていられない。


「████」


 虎松の視線は、剣に釘付けになり、その表情が恐怖に歪んでいくのが手に取るように分かる。これまで彼が感じたことのない死の気配が、その魂を凍りつかせているのだろう。背筋を走る戦慄、心を支配する絶望。虎松は、自らの死をはっきりと悟ったのだ。その瞬間、彼は反射的に踵を返し、逃げ出そうとした。だが、もはや逃げ場などどこにも存在しなかった。


「《影裂刃ヴェザルハン》、とでも名付けるか」


 俺の声が、重々しい静寂を破り響いた。

 その言葉は、まるで死神の宣告のように、冷たく、鋭く空気を切り裂いていく。黒き剣が一瞬にして空間を引き裂き、虎松の肉体を貫いた。剣が触れた瞬間、周囲の空間は歪み、時間さえも停止したかのような感覚が広がった。虎松の目には、再び深い絶望が映り、彼は己の終焉を確信したことだろう。


 暗黒の刃は深淵の闇を解き放ち、虎松の肉体を内部から引き裂いていく。断末魔の叫びすらも上げる暇もなく、虎松の肉体は闇に飲み込まれ、黒い塵と化して消滅していった。その存在は、まるで最初からこの世に存在しなかったかのように、跡形もなく消え去った。


 虎松がこの世に残したものは、何一つとしてなかった。ただ、冷たい静寂だけがそこに残された。闇が晴れた後には、虚無だけが広がり、世界は再びその静寂の中に沈み込んだ。つまり──虎松は完全に息絶えた。


「朝日くん……!!」


 紬麦が駆け寄り、俺を強く抱きしめる。

 その身体から伝わる温もりは、戦いの緊張感を和らげ、心を落ち着かせる。


「勝ったぞ、紬麦」

「うん……ありがとう……!!」


 紬麦の瞳に浮かんだ涙が、喜びと安堵を表していた。俺は彼女をさらに強く抱きしめ、優しく包み込む。


 祭り場の空間は、元の汚部屋に戻り、ただ静けさが残った。虎松との戦いは終わり、全てが終結した。

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