第20話 神様

「……そんなことがあったんだな」


 紬麦の涙ながらの告白に、俺は耳を傾けた。

 彼女は、自分ひとりだけが逃げてきたことを責めるように、苦しそうに言葉を漏らしていた。彼女の大きな瞳からこぼれる涙は、まるでこの大雨が彼女の心の痛みを代弁しているかのように地面を濡らしていく。


「……うん、私……最低だよね……」

「いや、そんなことはないさ」

「……ううん、自分が一番よくわかってるよ」

「紬麦……」


 自分を責め続ける彼女の姿は痛々しく、何と声をかけていいかわからなかった。37年も生きてきたというのに、こんな時に適切な言葉が出てこない自分に自己嫌悪を覚えた。もっと人との付き合いをしていれば、彼女の涙をただ見つめるだけなんて、こんな無力なことにはならなかっただろうに。


 どうすればいい?

 どうすれば、彼女の涙を止められる?

 いったい、どうすれば……。


「つ、紬麦!!」

「……ごめんね、こんな相談を──」

「俺が……怪物を倒してやる!!」

「……え?」


 その言葉は、無意識に飛び出したものだった。稚拙で単純すぎるかもしれないが、だからこそ、この事態を根本から解決するには、この方法しかないと俺は考えていた。複雑な策など考えられない俺には、このシンプルな決意こそが最も効果的な答えだと思えた。


 紬麦が泣いている理由は、幽霊たちを見捨ててしまったこともそうだが、何よりもあの怪物を残してきてしまったことが大きいだろう。彼女の話を聞く限り、その怪物は相当強力な魔物で、このまま放置すればいずれ民間人にも被害が及ぶのは明白だ。そんな未来を想像してしまい、彼女は罪悪感に押しつぶされそうになっている。


「で、でも……あ、危なすぎるよ!!」

「大丈夫だ。話を聞く限り、問題はない」

「え、どうして──」

「──これは、俺にとってもう一つのリベンジマッチなんだ」


 紬麦から聞いた話を整理すると、どうしてもその怪物が「オマキ様」を思い起こさせる。実際にその怪物を見たわけではないが、紬麦の言葉から伝わる印象は、まさにオマキ様と近しいものがある。あの荘厳さと畏怖が入り混じった存在には、同じ気配を感じずにはいられなかった。


 かつてオマキ様と遭遇した時、俺は未熟で何もできず、ただ怯えていた。その時の恐怖を拭い去るために、今日まで俺は修行を重ねてきたんだ。完全なリベンジとはいかないが、当時の恥辱を晴らすためにも、あの怪物を倒したいと思っている。


 ……というのはカッコつけた建前で、本当はオマキ様に抱いた恐怖を払拭したいだけなんだけどな。俺の心を未だに蝕んでいるその恐怖心を、きっと今回の戦いで解消できると思っている。今回の相手はオマキ様ではないが、同じ種類の存在なら、少しでも恐怖心を克服できるだろう。


「あ、危なすぎるよ!! そんなこと!!」

「でも、紬麦、お前が俺に助けを求めたのは、そういうことなんだろ?」

「……」

「大丈夫、俺なら大丈夫だ」

「……でも、膝が震えているよ」

「これは……武者震いだ」


 実際のところ、俺はまだオマキ様への恐怖を完全に克服できていない。相手が同じ種族で、オマキ様本人ではないとわかっていても、考えるだけで汗が止まらず、身体がガタガタと震える。だが、だからこそ今挑まなければならない。ここで戦わなければ、俺は一生オマキ様に怯え続ける人生を送ることになる。そんな人生だけは、絶対に嫌だ。


 だから、俺は勇気を振り絞る。

 紬麦のためだけではなく、自分自身のためにも。


「俺があの怪物を倒せば、これ以上の被害は出ない。このまま放っておけば民間人にまで被害が広がるが、俺が倒せば誰も涙を流さずに済むんだ」

「でも……無理だよ……」

「どうしてだ?」

「だって……あの怪物は規格外なんだよ? 一切の攻撃がすり抜けるような意味不明な特徴なんだから、朝日くんが勝てるわけがないよ……」

「だったら、諦めるのか?」

「そんなこと……」


 拳を固く握りしめ、震えている紬麦。

 そんな中、俺はあることを思い出した。


「……オマキ様のことを、母さんは明らかに知っている様子だったよな……」


 俺が病院でオマキ様とエンカウントしてから、何度か母さんにあの怪物のことを問いただした。だが母さんは明らかに存じているような態度で、俺の話を遮るように話題をそらすばかりだった。まるで、その名前を口にすることすら禁忌であるかのように。


 今回のレイラク様は、明らかにオマキ様と相関関係がある。つまり母さんに今回の件を話せば、何かしらの解決策が得られるかもしれない。今回の事件は重大なので、さすがに真実を話してくれるだろう。


「紬麦、俺についてきてくれ」

「……え?」

「今回の件、解決できる人に心当たりがあるんだ」


 彼女を安心させるため、俺はそっと彼女の手を引っ張った。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「そっか……レイラク様か……」


 夜勤明けでまだ起きていた母さんに事情を話すと、母さんはバツの悪そうな表情を浮かべながら、そう答えた。隣にいる紬麦も、不安そうな表情を浮かべている。あの怪物のことが、彼女の心に不安を呼び起こしているのだろう。……彼女に新たな心配をさせてしまって申し訳ない。


「母さん、教えてくれ。紬麦が戦った怪物のことを知っているなら、ぜひ教えてほしい」

「そうね……オマキ様については教えられないけれど、レイラク様に関してなら……状況が状況だもんね。……2人とも、話が長くなるけれど、聞いてくれる?」


 俺は無言で頷いた。

隣の紬麦も同じように頷く。

母さんは換気扇を付けて、電子タバコを一口吸い込み、そしてゆっくりと話し始めた。


「えっと、紬麦ちゃん……だよね? あなたが相対した怪物は……神様よ」

「……え、神様?」


 俺と紬麦は顔を見合わせた。……いやいや、そんなことがあるのか?


「2人は祓魔師と退魔師の最大の違いを知ってる?」

「あ、あぁ。神と呼ばれる上位存在が力を授けてくれるのが祓魔師で、己の力のみで戦うのが退魔師だろ?」

「そうよ。だったら、次に魔物がどうやって現れるのか知っている?」

「この間、朝日くんと図書館で勉強したんですが……確か人の負の念が集まってできるんですよね?」

「さすがは江崎家の娘さんね。正解よ」


 母さんが褒めるが、俺たちはまだ疑問が解けない。


「1549年、祓魔師は日本に初めて上陸したわ。そして当時の退魔師たちは、祓魔師から神の存在を聞いて、深い嫉妬を抱いたの。日本の神々は力を貸してくれないのに、西洋の連中はただ祈るだけで力を授かれるなんて……ズルいって感じでね」

「まぁ……その気持ちはわかるかもしれないな」

「それで退魔師たちは、神を創ることに決めたのよ。西洋と同じように、自分たちに都合のいい神を、祈るだけで力を与えてくれる存在をね」

「……そ、そんなことができるのか?」


 母さんは再びタバコを吸い、一息ついてから話を続けた。


「紬麦ちゃんの言う通り、魔物は人の負の念から生まれるわ。だったら、逆の感情からでも作れると思わない?」

「つまり……信仰心を募って、神を創ったってこと?」

「そうよ。まさにその通りで、退魔師たちは自分たちの完全なる味方である神々を想像し、それに対して信仰心を募ったのよ」


 俺はふと思い出した。

 かつて読んだ怪談話を。

 確か……『幽霊を作る方法』という話を。


 ガードレールの近くに花を供えていれば、実際に誰も死んでいなくても「誰かが亡くなった」と思い込む人が増える。そしてその思い込みが重なることで、無縁霊が生まれるという話だ。だから信仰心が強ければ、神を創ることもできるという話はすんなりと理解できた。だが──


「確かに神を創ることには成功したみたいだけど、その制御は上手くいかなかったみたいね。創られた神は皆一様に人を襲い、魔物と大差ない存在だった。だからこそ、退魔師たちは神を封印するしかなかったのよ」

「それが……蘇ってしまったってことか?」

「あけみやアパートの場所には、元々祠があったらしいからね。おそらくその祠に封印されていた神……多分、レイラク様が解き放たれてしまったんでしょうね」

「それで、あの怪物が現れたんですね」


 しばらく、深い沈黙が場を支配した。


「……それで、2人は……レイラク様を倒したいのよね」

「あぁ、もちろんだ。な、紬麦?」

「……うん、でも──」

「朝日……先に言っておくけれど、レイラク様はオマキ様と同格の存在よ。あなたがあの日、病院で畏れ……気を失うほどに恐怖した存在と同格なのよ」

「うん、わかっているよ。あの日の恐怖は今でも、たまに夢に出るほど……俺の心を蝕んでいるんだ」

「だったら──」

「でもさ、母さん。だからこそ、このトラウマを払拭したいんだよ」


 真摯な眼差しで、母さんを見つめる。


「……レイラク様は特殊な霊体だから、普通の術では触れることは不可能よ。だけど《闇蝕》だったら、触れることは可能よ」

「え、それじゃあ──」

「だけど、今のままだと間違いなく返り討ちにされちゃうわ。だからこそ、朝日には最低でも……中級以上の術を覚えてもらうわ」

「それってつまり、俺を鍛えてくれるってことか?」

「朝日の熱意に折れちゃったわ。だけど、代わりに約束して。必ず……生きて帰ってくるって」


 俺は深く、頷いた。


「あ、あの……わ、私も──」

「もちろん、紬麦ちゃんも鍛えてあげるわ。かなり厳しいかもしれないけれど、覚悟はできている?」

「……朝日くんを巻きこんじゃったんです。覚悟は……できています」

「ふふ、良い返事ね」


 母さんは、自身の頬をパンッと叩き──


「それじゃあ、ビシバシ鍛えるわよ!!」


 と、高らかに宣言した。

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