第19話 艱難辛苦 4/4【紬麦視点】
「……」
アパートから離れ、私は近くの路地裏で膝を抱えて蹲っていた。大雨が降りしきる中、体はずぶ濡れになり、冷たさが骨の髄まで染み渡る。それでも、心の中の罪悪感はそれ以上に冷たく、重くのしかかってくる。あの怪物から離れたことで、恐怖が薄れた代わりに、今度は自分の行いが鮮明に蘇ってきた。
私は……卑怯者だ。
たった一人で逃げてしまった。
幽霊たちを、見捨てて。
私は……最低だ。
「……」
思い返すたびに、後悔が胸を締め付ける。
私は皆を見捨てた。
私が一番逃げてはいけなかったのに。
私が率先して、立ち向かわなければならなかったのに。
どうしてあの空間から私だけが抜け出せたのかはわからないけれど、それでも……少なくとも私はあの空間に留まるべきだった。
今さら後悔しても、もう遅い。
きっと皆、あの場で無残に死んでしまった。
私だけが、生き延びてしまった。
多くの幽霊たちを犠牲にして。
最も許せないのは……逃げ延びることができたことに、安堵している自分がいることだ。逃げ出した自分を責める自分と、生き延びることができた事実に深い安堵を抱いている自分、相反する2つの感情が心に存在している。その事実がどうしようもなく情けなく、どうしようもなく怒りを覚えてしまう。あまりにもクズ過ぎる自分が、悔しくて仕方がない。
「……」
あの怪物はいずれ空間を抜け出し、やがて日本中を蹂躙するだろう。暴力の限りを尽くし、嬉しそうに暴れ回るだろう。まるで無邪気な子供が遊ぶかのように。あの魔物には、日本中の退魔師が束になっても勝ち目はないだろう。
だからこそ、私の罪は重い。
これから無辜の人々が犠牲になる。
多くの命が、私のせいで無残にも散る。
血が流れ、人々が蹂躙されていく。
その恐ろしい光景が、頭の中で何度も繰り返される。
私のせいで、皆が苦しんでいくんだ。
私のせいで、皆が殺されるんだ。
全部、全部、私の責任だ。
「……」
罪悪感に苛まれ、絶望が心を覆い尽くす。
そうだ、私は取り返しのつかない罪を犯してしまった。
日本の未来を暗く染め、無意味な犠牲を生んでしまった。
すべて、私のせいだ。
誰が何と言おうとも、私はトンデモないことをしてしまった。多くの人々を見捨てただけじゃない。これから先、多くの人に恨まれるのだろう。
深い後悔が何度も襲いかかる。
まるで視界が真っ暗になったように、もう何も見えない。何も許されない。私は……最低の人間だ。クズ以下のクズだ。
「……」
これから先、どうすればいいのだろう。家に帰ったとしても、お父様やお母様に糾弾されるだろう。お兄様たちにも責められるだろう。帰りたくない。だけど、帰らないわけにもいかない。
……死ぬべきなんだろうか。
卑怯にも逃げ出した報いを受けるべきなんだろうか。日本の未来を潰した報いを受けるべきなのだろうか。きっと、そうするしかないのだろう。
死ぬことは怖い。
だけど、仕方ない。
私は、死ぬべきなんだから。
それだけの罪を、犯してしまったのだから。
「……朝日くん」
でも、死ぬ前にどうしても朝日くんに会いたい。ほんの少しでいいから、彼と話がしたい。どんな話でもいい、ささやかな話でいい。ただ朝日くんと話せるだけで、私は救われる気がする。
これはわがままかもしれない。
許されない願いかもしれない。
でも、最期なんだから……どうか許してほしい。
冷たい雨に打たれながら、私は後悔とともに朝日くんに会いたいという願望を抱く。許されないかもしれないけれど、せめて最期にもう一度、ほんの少しだけでも会話を──
「……紬麦?」
その時だった。私に語りかける優しい声が聞こえた。
「朝日くん……」
驚きに目を見開き、顔を上げると、そこには傘を差した朝日くんがいた。車のライトに照らされて、彼の姿がはっきりと見える。その姿は、あまりにも神々しく見えて、思わず涙が溢れた。
彼に話す言葉は何も決めていなかった。ただ、何の変哲もない会話がしたかっただけなのに、うまく言葉が喉を通らない。しゃっくりのような謎の症状が急に襲ってきて、声が出せない。
「あ、あ、朝日、く、くん……」
「落ち着け、紬麦。何かあったんだろう?話してごらん」
「わ、わ、私は……わ、私は……」
「大丈夫だ。深呼吸して、ゆっくり話すんだ」
朝日くんの優しさに、涙が止まらない。
ボロボロと涙を流しながら、私は言葉を紡げずにいる。それでも朝日くんは、じっと待ってくれている。その優しさに甘えて、私は深呼吸で気持ちを落ち着かせる。
ふぅ……すぅ……。ふぅ……すぅ……。
深呼吸で、やっとしゃっくりが収まった。
これで、普通の話ができる。
さぁ、何か話そう。
心配させないように、何でもない普通の話を。それなのに──
「あ、朝日くん……た、助けて……」
口から零れたのは、思い描いていた言葉とは違った。私は無意識に、朝日くんに助けを求めてしまった。
……本当に、私はどこまでもクズだな。
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