第18話 艱難辛苦 3/4【紬麦視点】
【紬麦視点】
「……え?」
何が起きたのか、まったく理解できない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
とんでもない事態に巻き込まれた──それだけは、愚かな私にもすぐにわかった。
「████」
虎松を葬り去った怪物が、耳を裂くようなノイズとともに咆哮を上げる。その声は、まるで絶叫に近く、耳障りで不快極まりない。その音を聞くだけで、全身が強張り、胸が恐怖に締め付けられる。しかし──先ほどとは何かが違っていた。
何が違うのか、言葉で説明するのは難しい。
だが、その咆哮には、激しい怒りが込められているのを感じた。まるで、この世界全体に対する憤怒と怨嗟が詰まっているかのように。先ほどまで無機質で冷たかった瞳が、今では怒りの炎を宿しているように見える。
その変化に気づくと、不思議と恐怖が少しだけ薄れた。さっきまでの怪物は、感情を持たない冷徹な機械のようで、その不気味さに圧倒されていた。だが、今の咆哮は、ただのノイズではなく、怒りに満ちた叫びのように聞こえる。少なくとも、怪物にも感情があることがわかり、その冷たい不気味さが少しだけ和らいだように感じられた。
「……でも、油断はできないよね」
虎松が死んだことに対して、悲しみは微塵も沸いてこなかった。それは虎松のことが嫌いだからだ。だけど、それでも動揺が私の心を大きく占めていた。
これまで何人もの幽霊たちと出会ってきたし、知り合いに任務中に命を落とした人も決して少なくはない。陰陽師は“死”が身近にあるとは誰かが言った言葉だけど、それでもやっぱり……目の前で人が殺される様を目にすると、動揺を隠しきれない。それが大嫌いな虎松だったとしても、心臓の鼓動が早まってしまうのだ。
それに、虎松は学年でもトップクラスの実力者だった。少なくとも実技の授業で、私は虎松に勝てたことなんて一度もない。そんな虎松を容易く葬り去った怪物に対して、私は恐怖に慄いていた。少しでも油断すれば、確実に私は敗北する──その“敗北”が、即ち死を意味することはバカな私にもすぐに理解できた。
「……本当は今すぐ逃げるべきなんだろうけれど、ここで逃げてしまえば私の代わりに幽霊さんたちが蹂躙されちゃうよね。それに私の後を追って、怪物が出てくる可能性だって……十分考えられるしね」
怪物は、私に対して並々ならぬ怒りを抱いている。
だからこそ、ここで逃げるわけにはいかない。膝は震えるし、恐怖で心がいっぱいになる。それでも、私は陰陽師だ。魔物を倒さなければならない。勇気を振り絞って、相対しないといけない。
深呼吸を1つ、2つ、3つ。
気持ちを落ち着かせ、呪力を練る。
怪物は、ニタニタと嗤いながら私を見つめている。油断しているのか、それとも愚弄しているのか。その表情が何を意味するのかはわからないが、私にとっては好機だった。
「《鐵の装 壱式》!!」
私は刻印術を発動した。
漆黒の装備が、私の身体を包み込む。
それはまるでライダースーツのようで、身体にぴったりと密着する。黒い革のような質感が全身を覆い、硬質なプロテクターが要所を守っている。スーツの表面には細かい模様が浮かび上がり、それがまるで呪力の流れを視覚化したかのように淡く輝く。
《鐵の装》の効果は単純明快で、身体能力の強化が主な役割だ。そして壱式の効果は、敏捷性の強化に特化している。スーツは私の動きに完全に追随し、まるで自分の身体の一部であるかのように自然に動く。足元からは軽快な感覚が伝わり、まるで羽が生えたかのように身体が軽くなった。
これなら、スピードで攪乱し、この怪物を倒すことができる。そんな自信が湧いてくる。私は、全身にみなぎる力を感じながら、怪物に向かって一歩踏み出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「《呪闘拳》!!」
「████」
「《呪刃脚》!!」
「████」
実技の授業で習った技の数々を、私は怪物にぶつける。以前行った対魔物戦の授業では、B級相当の魔物くらいなら一撃で葬れた自慢の技の数々。近接戦闘だけなら虎松を凌駕し、朝日くんにも匹敵した技の数々。私にとっての一番の自信だった技を、怪物に浴びせるけれど──
「どうして……攻撃が効かないの!?」
まるでホログラムを殴っているかのように、私の攻撃のすべてが怪物の身体をスリ抜けてしまう。身体のどの部位を攻撃しても、同時に複数の部位を攻撃しても、私の攻撃はまるで通じない。一切の攻撃が届かず焦る私を見て、怪物は嘲笑するかのようにノイズ音を撒き散らしている。
確かに一部の魔物は、身体を流体にして攻撃を透かすことが可能だと聞いたことがある。だけど、この怪物はそれらとはまるで系統が違う気がする。流体にしているのではなく、まるでホログラムのように、この空間に存在していないような気がする。目に映っているだけであり、同じ次元には存在しないような気さえしてしまう。
「████」
「ぐッ……!?!?!?」
私の攻撃は怪物には一切通じないというのに、怪物の攻撃は重く私の身体に突き刺さる。怪物の指が軽く腹部に触れただけだというのに、まるでダンプカーに衝突されたかのような、凄まじい衝撃が私の腹部を襲った。まるでゴム毬のように何度も地面をバウンドしながら吹き飛ぶ私を見て、怪物はその嘲笑のようなノイズ音をさらに大きくする。
何度もバウンドをし、何個もの屋台を破壊して、私はようやく地面にメリ込んだ。耐えがたいほどの吐き気と激痛、そして恐怖が私の身体をグルグルと締め付ける。攻撃とも呼べない一撃を食らい、私の身体は悲しいほど満身創痍になってしまった。右腕は骨が皮膚を突き破っており、いくつかの内臓が破れてしまった実感がある。
ここまで大きな怪我、負ったことなどない。
“死”を間近に感じ、冷汗が全身に噴き出す。
逃走の二文字が、脳内をグルグルと回る。
あぁ……なんて情けないんだろう。
先ほどまでは怪物を倒せると、幽霊たちを助けられるのは私だけだと、そんな無謀な勇気に背中を押されていたというのに。今となっては豪語したことすべてが、実現できずに終わろうとしている。何も叶えられず、幽霊たちも救えない自分が、涙が出るほどに情けない。逃げるわけにはいかないと決意した勇気が、たった一撃で霧散してしまった。こんなに情けない話、どこにもないだろう。
「████」
そんな私の恐怖を感じてか、怪物はそっぽを向いて私から離れていった。ほっと心の中で一息を吐く。よかった、死なずに済んだ。これで、何とか生き永らえた。心の中で安堵の感情が、止めどなく溢れてくる。
だが、その安堵は長く続かなかった。
怪物が歩んでいったのは、幽霊たちの方向。
盆踊りをしながら、幽霊たちは恐怖に表情を歪ませている。逃げることも許されないのか、その表情はガタガタと震えている。
「や、やめてくれ!!」
「し、死にたくない!!」
「こ、こっちに来るな!!」
「い、いやだぁああああ!!」
「████」
笑い声を上げながら、怪物は暴れる。
幽霊たちを蹴散らしながら、楽しそうに。
児戯のように嬉しそうに、蹂躙を続けている。
その細い腕で、陰陽師の腹を裂いている。
ズブズブと、より長く苦しめるように。
あえて優しく、臍から手を突っ込んでいる。
陰陽師の悲鳴が、よっぽど心地よいのか。
怪物は、叫びが聞こえるたび笑顔を溢す。
甲高い声で、苦しみ悶える声を喜んでいる。
「████」
怪物が暴れる度、死体が積み重なっていく。
死屍累々とは、こういう状況を指すのだろう。
臓物を抜き取られたり、眼球を潰されたり。
凄惨な死体が、ゴロゴロと転がっていく。
その死体たちは、奇妙な共通点があった。
何故だが、徐々に塵のようになっていたんだ。
傷口が黒く染まり、徐々に炭化している。
よく見れば、怪物の手に黒いモヤが見える。
徐々に塵のようになり、魔物のように消えゆく死体。
そんな光景を見て、怪物は嗤っていた。
嘲笑するように、あるいは無邪気な子どものように。
嬉しそうに、ケラケラと笑っていた。
「あ、あぁ……」
現世にいる幽霊は、殺すことが出来る。
そして、第二の死を迎えた幽霊は……消滅する。
そうして消滅した幽霊は、二度と戻ってこない。
転生も成仏も出来ず、完全に消え去るのだ。
それを知っている私は、嗚咽が止まらなかった。
何もできない。申し訳ない。ごめんなさい。
弱い自分が、情けなくて仕方がない。
恐怖で動けない自分が、どうしようもない。
「████」
飽きたかのように、怪物は唐突に蹂躙を辞めた。
そして、またしても私を見つめてきた。
ニタニタと、嗤いながら。ノイズ音を散らしながら。
……ダメだ、殺されてしまう。
二回も、この場で殺されてしまう。
完全に、消滅してしまう。
恐怖心で身体が震える。
何もできず、ただただ震えている。
あぁ……情けない。悔しい。
「うぅ……」
走馬灯が、脳内を駆け巡る。
朝日くんと出会うまで、良い人生ではなかった。
お父様からもお母様からも、愛されなかった。
兄弟たちからも、イジメられてきた。
そんな私を救ってくれたのが、朝日くんだった。
あれは……そうだ、11歳の頃だ。
お兄様にイジメられ、泥を浴びせられた時のこと。
他の生徒たちは見て見ぬふりをする中、朝日くんだけが私にタオルを貸してくれたんだ。誰も触れようとしなかった私の身体を、綺麗に拭ってくれたんだ。私の髪についた泥を、綺麗にふき取ってくれた。
お父様やお兄様、他にも数々の男の人に私は髪を触られてきた。単なるイジメであったり、おそらくは……性的な搾取の為であったり。当時は性的なことなんてわからなかったけれど、それでも非常に強い嫌悪感を抱いていた。私は異性から髪を触れられることが、どうしようもなくトラウマだったんだ。だけど──朝日くんに触れられた時だけは、嫌悪感を抱かなかった。
思えば、あの時から好きだったんだろう。
私に初めて、打算抜きに優しくしてくれた人。
髪に触れても、嫌悪感を抱かなかった人。
朝日くんだけが、私の運命の人だった。
「████」
怪物がゆっくりと右手を振り上げるのが見えた。
あぁ、これで私は死ぬんだな。
でも、最期にいい思い出を振り返ることができたのは、ちょっとした救いだ。
でも──
「朝日くんに……想いを伝えたかったな」
その心残りを呟きながら、私は目を瞑った。
これで終わりだ。そう覚悟を決めた。その瞬間──
「……え?」
目を閉じた瞬間、何かが違うと感じた。
先ほどまでの強烈な、私に対する敵愾心が、突然消え失せたのだ。不安になりながらも、恐る恐る目を開けると──
「ど、どうして……?」
私は、いつの間にか103号室の前に座り込んでいた。
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