第17話 艱難辛苦 2/4【虎松視点】

【虎松視点】


 全く、度し難いバカ女だ。

 確かに、アパートの一室が急に祭り場に変わった時には少し肝を冷やしたが、江崎のように腰を抜かして震えるほどじゃない。祭狸が時間をかけて空間を祭り場に変えるのは知っているし、一瞬でこんな変化を起こす力がないことも理解している。それでも、魔物の世界では時折変異が起きるものだ。どうせ祭狸が何かの拍子で能力を変化させたんだろう。


 魔物が変異し、その力が強化されることなど珍しくはない。だが、そんな変異で力を増しても、元がF級ならせいぜいE級に上がる程度だ。ザコはザコのままだ。江崎が震え上がる必要などない。むしろ、こんな低級な魔物に逃げ帰ったと周りに知られたら、死んだ方がマシだと思うほどだ。


「虎松……その、背後……」


 つい先ほどまで口を尖らせていた江崎が、今は小さな声で怯えながら呟いている。何が彼女をそこまで怯えさせたのか分からないが、その姿を見ると苛立ちが募る。もう一発殴ってやれば、ビビってる様も治るだろうか。そう思って拳を固めた瞬間、背筋にゾクリと悪寒が走った。


 ……なんだ、今の嫌な感じは。

 俺の背後に、いったい何がいるんだ?

 祭狸とはまるで違う、不気味な気配が漂っている。

 そう感じて、恐る恐る振り返ると──


「████」


 ……なんだ、これは?

 白無垢を纏った女のように見えるが、その姿には生気の欠片も感じられない。肌は腐ったように灰色がかり、目は白濁して焦点が合わず、その無機質な視線が俺の内側まで冷たく突き刺さる。幽霊と呼ぶには悍ましすぎる、この世のものとは思えない異質な怪物だ。


 目の前に立つそれは、死と生の狭間から這い出てきたかのようだった。肌は不自然に変色し、裂けた口元から滴り落ちる黒ずんだ液体──それらの全てが、この存在が何か異質なものであることを告げている。さらに、その背後には蠢く黒い霧のような影があって、まるで生き物のように俺に向かって伸びてくる。


 心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、全身に冷たい汗が滲む。恐怖が脳を支配し、体から力が抜けていくのが分かる。何かが俺の中で壊れていく。足は震え、喉はカラカラに渇き、呼吸することさえ忘れそうだ。


 こんな怪物、見たことがない。

 俺の脳はその異様な光景を理解しようとするが、拒否する。何かが頭の中で崩れ落ちるような感覚に襲われる。足は震え、冷や汗は背中を流れ落ち、言葉が喉に詰まって出てこない。目の前の女が裂けた口をさらに広げ、不気味な音を立てて笑い始めた。


 この女、いや、この怪物が今、俺に迫ってきている。動きは遅く、不規則で、それがかえって恐怖を掻き立てる。まるで、じわじわと俺を追い詰めて楽しんでいるかのようだ。息が苦しい。逃げなければ、そう思っても、身体が言うことを聞かない。冷たい何かに捕まったかのように、俺はその場に立ち尽くしていた。


 目の前の怪物が、ゆっくりと手を伸ばす。

 その手が、俺の頬に触れようとする瞬間──

 ──俺はようやく悲鳴を上げた。


「う、うわぁああああああ!!!!」


 恐怖で真っ白になった頭で、無我夢中で逃げ出した。

 どこへ逃げればいいのかも分からない。辺りを見回しても、屋台には誰一人としておらず、やぐらの周りには幽霊のような存在がうごめいているだけだ。逃げ場なんて、この異様な空間には存在するのだろうか?どうすればあの怪物から逃げ切れるのか、考える余裕もない。


 だが、逃げ回る中で、ふと一つの考えが頭をよぎった。

 そうだ、江崎を差し出せばいい。あの女が怪物に食われている間に、ここから逃げる手段を見つければいい。江崎を犠牲にして時間を稼ぐんだ。どうせあの性格では、今後の人生も苦労するだろうし、ここらで終わらせてやればバカ女のためにもなる。俺が逃げ延びられれば、一石二鳥だ!


「え、江崎!! 俺のために死ね!!」


 逃げ惑いながらそう叫ぶも、江崎に動きは見られない。

 どうやら怯えるあまり、俺の声が届いていない様子だ。

 ……ちッ!! 役に立たないクソ女だな!!


 江崎との距離は、およそ50mほど。

 江崎の近くに移動して、あの怪物の方へと蹴り飛ばすのがいいだろうか。だがそんなことをすれば、必然的に俺までもあの怪物に近づくことになってしまう。あんな不気味な怪物の近くになんて、絶対に嫌だ。だが、このままでは──


「████」


 そんなことを考えていると、あの怪物の姿がなくなった。いや、そうじゃない。あの怪物の声にもならない声が、背後から聞こえてくる。生暖かくもどこか冷たい、気色の悪い吐息だって、背後から感じられる。あの気持ち悪くて悍ましい雰囲気が、俺の背後から感じられる。それはつまり──


「あ」


 ひんやりとした感触が、俺の肩に触れた。

 視線を移すと、そこには蒼白く細い指が。

 俺の肩に、そっと触れていた。

 怪物は、俺の背後にいた。


 怯える江崎が、コチラを見つめている。

 おい、何をしている。早く何とかしろ!!

 心の中で叫ぶも、口は震えるばかり。

 言葉を紡ぐことなど、まるで出来なかった。


「████」


 ポタポタと、頭に黒い液体が垂れてくる。

 ガッと、頭部に激痛が走る。

 まるで、硬いものが触れたような感触。

 そう、どうやら俺は、怪物に齧られて──は?


 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。

 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。

 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。

 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。

 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。


 肉に刃が食い込む。血が吹き出る。

 刺されるように、身体に激痛が走る。

 先ほどまでの恐怖が、激痛に塗り替わる。

 ぐじゅり、ぐじゅりと、血が吹き出る。

 それなのに、誰も助けようとしない。


 だ、ダメだ!! く、食われてしまう!!

 え、江崎!! 早く俺を助けろ!!

 涙を流している場合か!! 早くしろ!!

 俺が!! 死んでしまう前に!!


「あ」


 だが、悲痛な心の叫びも虚しく。

 俺の意識は、激痛と共に──沈んでいった。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 



「████」


 ……何が起きたのか、俺自身わからない。

 だが、目を覚ますと……そこは祭り場だった。

 周囲を見回すと、不気味な提灯が揺れ、屋台が立ち並び、まるで悪夢のように繰り返される光景が広がっている。まるで何事もなかったかのように、俺はそこに立っていた。


 だが、どこかおかしい。

 自分の体が……以前とは違う。重く、鈍く、まるで他人の体を操っているかのような違和感がある。視線を下げると、そこには──自分のものではない手があった。蒼白く、血の気を失った指先。見覚えがある……そう、あの怪物のものだ。


「████」


 『は?』と言ったつもりなのに、口から飛び出したのは、意味をなさないノイズのような音。それは、先ほどまで俺を襲っていた怪物のものと酷似……いや、もはや同一のものだった。慌てて自分の身体を見回すと、白無垢に包まれた己の姿が映る。俺は……怪物になっていた。


 意味がわからない。

 何がどうなっている?

 俺は死んだのか?

 それとも、これはまだ夢の中なのか?


 しかし、そんな問いかけの余裕はない。

 そんなことを考えるよりも、心の中に湧き上がる激しい憎悪がドス黒く俺の心を染め上げていた。


 あのクソ女、江崎。

 俺を助けようとしなかった幽霊連中と、こんな任務に行かせた陰陽師の連中。そして、俺をこんな化け物に変えた、この世の全て。すべてが憎い。怒りが俺を支配し、抑えきれない衝動が身体を突き動かす。


「████」


 再び口を開くと、今度は怒りに満ちた咆哮が喉から絞り出される。もう、俺は何も考える必要はない。この怒りのままに、暴れることしかできない。いや、そうするべきだ。心がそう叫んでいる。


 視界の端に、怯えきった江崎の姿が映る。震える彼女の姿は、俺の怒りをさらに掻き立てる。今度は俺が──この手で彼女を追い詰める番だ。憎悪に燃え上がった心が、俺を怪物として駆り立てる。


「████」


 俺はゆっくりと、江崎に向かって歩みを進めた。その足取りは、かつて自分が恐怖していたものと同じように、不規則で重々しい。それが、俺自身の中にあった最後の理性を引き裂き、完全に化け物へと変えていく。江崎の目が大きく見開かれ、恐怖がその表情に刻まれるのがわかる。


 もう、戻れない。いや、戻りたくもない。

 俺の中にあるのは、ただ純粋な憎悪と破壊の欲求だけだ。この新しい身体に宿る力を持って、俺は彼女を、そしてこの世界を──破壊する。


「████」


 怪物としての、最初の獲物を捕らえる。

 そのために、俺はゆっくりと歩を進めた。

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