第5話 筋トレと呪術 1/4

 その日の夜、俺は公園にいた。


「ぜぇ……ぜぇ……」


 肺が破れそうになり、脚が千切れそうな痛みに襲われながらも、俺は必死に走り続けた。腕を乱暴に振り回し、めちゃくちゃなフォームで走り続ける。息も絶え絶えで、死を覚悟しながらも、俺は走り続けた。


 呼吸をするたびに、突き刺さるような冷たい空気が肺を苦しめる。乳酸が溜まった脚は重く、引きずるように一歩一歩を踏み出す。この苦しみを早く終わらせたいが、それは許されない。


「ぜぇ……ぜぇ……」


 ・腹筋×100

 ・スクワット×100

 ・腕立て伏せ×100

 ・ランニング×10km


 と、かなりハードなスケジュールが書かれたメモを俺に託して、母さんは仕事に向かった。退魔師の仕事は基本的に夜に行われるので、俺に付きあうことはできないのだと申し訳なさそうに言ってきた。まぁ、これに関しては仕方ないことだな。


 母さんからハードスケジュールを言い渡された俺は、とにかく遮二無二になってトレーニングを積んでいた。かなりハードなトレーニングであることは明白だし、このメモを渡された時は思わず眉をひそめてしまったが……それでも俺は完遂を心がけた。


「ぜぇ……ぜぇ……」


 前世では、転生主人公が心を入れ替える描写に対して「人はそう簡単に変わらない」と穿った目で見ていた。しかし、実際に自分が転生してみてわかった。転生という事象は人の心を大きく変える。いや、俺は努力しないと死んでしまうという特殊な状況だからかもしれないが。ただ、死の間際に誓ったことを蔑ろにはしたくない。


 前世で俺は、あらゆることを怠った。

 故にこの苦痛は、そのツケの返上だ。


 これまで何もせずに生きた俺に対しての罰であり、同時に救済措置だと俺は受け取っている。これさえも適当に流してしまえば、俺は今世でも後悔の中で死んでいくことになるだろう。前世で体験したあの雪辱をもう一度味わうなんて、死んでもごめんだ。


「ぜぇ……ぜぇ……」


 ……などとカッコいいことを考えているが、それとは対照的に軟弱な考えも同居している。これだけしんどいのだから、もう止めてもいいだろうと心の中の悪魔が囁く。もう充分頑張ったんだから、そろそろ終わりにしてもいいだろう。母さんだって、きっと分かってくれるハズだ。ニタニタと口元を釣り上げて、悪魔はニヤリと嗤っている。


 そんな悪魔の囁きに、俺は首を横に振って否定という形で答える。そんな軟弱な精神性だったからこそ、自分自身に極端にまで甘かったからこそ、俺の前世は忸怩たるモノだったんじゃないか。しんどいことは後回しにして、自分に都合の良い事柄に甘えた結果が俺の前世だ。せっかく授かった第二の人生でも、同じことを繰り返すのか。と、自分を叱咤するが……完全には消えてくれない。


「ぜぇ……ぜぇ……」


 自分を変えたいという思い。

 ここで終わりにしたくないという思い。

 もう辞めたいという思い。

 早く終わりにしたいという思い。

 そんな相反する感情が、同居している。


 今はまだ、初日だから乗り越えられる。

 だが、この覚悟が風化すれば……どうなるかわからない。人の気持ちはその時その時で大きく変わってしまうことを、俺はよく知っている。雨が降っているから、気温が低いから、なんだか気分が乗らないから、そんな理由で人の覚悟は揺らぐことを俺はよく知っている。


 きっと前世だったら、この1日目も持たなかっただろう。たった50mほど走っただけで、もう疲れたと諦めていたことだろう。故にここまで走り続けられるのは、大きな成長ではある。転生したことで心根が全量に傾いたと、自分を褒めてあげたくなる。だが……それに甘んじたくはない。


「ぜぇ……ぜぇ……」


 第二の人生、前世と同じ道は辿りたくない。

 そう思いながら、俺はランニングを続けた。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「お、終わった……!!」


 10kmを走り終え、地面に倒れる。

 呼吸は荒く、汗は滝のように流れる。

 体温はべらぼうに熱く、脚もべらぼうに痛い。

 午前1時。俺は地べたに大の字で横になる。


 しんどい、疲れた、もう嫌だ。

 そんなネガティブな感情は意外と少なく、心の中に沸いてくるのは多大なる達成感。前世でも達成できなかった10kmランニングという苦行を、こんな貧弱な肉体で達成できたんだ。その事実が俺の心を温め、これまでの人生で一度も抱いたことのないほどの活力になる。そうか……これは病みつきになるな。


「す、スゴい!!」

「おぉ、よく頑張ったな坊主」

「さすがだ、偉いぞ」

「そんな軟弱な身体で10kmも走り終えるなんて、中々できることじゃないよ」


 と、そんな時だった。

 周囲から、声が聞こえてきた。

 辺りを見渡すと、そこには──


「……幽霊か」


 白装束に身を包んだ肌色の悪い人が4人、俺の周囲を囲うようにそこに立って拍手をしていた。年齢はかなり幅があり、一番幼い子で10歳前後、上は70代のように伺える。彼らはこの病院で惜しくも亡くなってしまった、いわゆる幽霊たちだ。


 一般人は、魔物が見えない。

 魔物を可視するためには、一定以上の魔力が必要だ。どんな人でも呪力自体は有しているのだが、一部の霊媒師や霊能者などを除けば、一般人は魔物の可視に必要な呪力は有していないのだ。一般人は微々たる呪力しか有していないので、魔物が見えないのだ。そして魔物が見えるということは、幽霊も見えるということなのだ。


 この身体に転生した当初は、あまりにもハッキリと見えすぎたために、彼らを幽霊だと認識することができなかった。よく聞く黒い影のように見えたり、あるいは半透明に見えたりなどせず、白装束を着ていること以外はあまりにも普通に人間らしすぎたからだ。故に彼らを幽霊だと認識し、納得するのに2日間を有した。


「へぇ、驚かないんだ!!」

「坊主、退魔師の人だな?」

「なるほど。だから、ハードトレーニングをしてんだな」

「頑張ってくれよ!! 応援しているぜ!!」


 ここまでハッキリと見えてしまえば、驚くもクソもない。前世の俺は臆病だったので、幽霊なんて大嫌いだったが、こうして実際に目の当たりにすると……普通の人と差がない。前世ではいったい、何を畏れていたんだろうとさえ思えてくる。全然怖くない。


 それに幽霊たちとはいえ、こうして褒められると……素直に嬉しい。達成感と共に自己肯定感が芽生えてきて、活力が2倍になってくる。先ほどまで怠けを推奨していた悪魔が、今となっては完全に心から消え去った。


「お兄ちゃん、頑張ってね!!」

「坊主、俺たちは応援しているぜ!!」

「俺の妻や娘を、どうか魔物から守ってくれ!! 何も払えやしないが、頼む!!」

「お前は未来の英雄だ!! その行く末を見守らせてくれ!!」


「……あぁ、わかった」


 彼らに乗せられ、気分が良くなる。

 ……こんなに期待されちゃ、諦めるのはダメだよな。

 ニヤつく表情を隠しつつ、俺は腕立て伏せに移行した。

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