第29話 星空の下
「ハルト、夕食の時間だぞ」
「僕はいい」
夕食の時間になると同じ部屋のエルマーが呼びにきてくれたんだけど、僕は布団を被ったまま出られなかった。
手が今でも震えているんだ。ここは施設の中で脅威はもうないって分かっているのに思い出してしまう。
あのまま僕の背中にオークが振り下ろした木の棒が直撃していたら、僕は死んでいたかもしれない。そう思ったら急に怖くなったんだ。
そして夕食の時間も湯浴みの時間も終わって、みんなが部屋に戻ってきた。
今日はみんな森に行ったり、魔法訓練をしていたから疲れているようで、すぐに寝息が聞こえてきた。
僕は全然眠れなくて、こんな時間にもう生徒は誰も起きてないだろうと思って屋上へ向かった。
ローゼが言っていた僕のイベントを思い出したからだ。この施設の屋上から星が見えると聞いた。この時間ならもう生徒が来ることはない。だからヒロインと会うなんてことはないと思ったんだ。
キャンドルホルダーに乗せたキャンドルの光だけを頼りに階段を上がり、屋上へ続く重いドアを開けると、そこは真っ暗だった。
でも頭上を見上げると満天の星が輝いて見えた。
頬を撫でる風はひんやりと冷たくて、少しだけ冷静になれた気がした。
屋上をゆっくり歩いて端までいくと、膝を抱えて床に座った。冷たくて硬い石の感触だ。
そのまま僕は上を見上げた。自分が不甲斐なくて涙が溢れそうだったからだ。誰も見ていなくても、涙なんて流したくなかった。
やっと溢れそうな涙が引っ込んでいくと、次はキャンドルの火を眺めた。
「ハル」
誰かがいるなんて全然気付かなかった。
僕のことを『ハル』なんて呼ぶのは一人しかいない。今はすごく会いたくて、絶対に会いたくない人だ。
「マルセルから聞いた」
そう言いながらエルヴィン殿下は僕の左隣に腰を下ろした。
「……そうですか」
僕が何もできず、情けなくも騎士に背負われて帰ってきたことを聞いたのかもしれない。
「ハル、大丈夫だ。冬になる前にもっと安全なところでリベンジしような」
いつも俺様風を吹かせて強引なくせに、なんで今日に限ってそんなに優しいこと言うの?
優しくなんてされたくなかった。さっき止まったはずの涙がじわっと滲んで、ポロポロと溢れていった。
そうしたら殿下は僕のことをそっと包み込むように抱きしめてくれたんだ。
ごめんなさい神様。僕は道徳に反したことをしています。妹の婚約者とこんなこと……今だけはどうかお許しください。僕はエルヴィン殿下の胸に縋って泣いた。エルヴィン殿下は意外と胸板が厚くて、なんかとても悔しかった。
「寒いだろ? ほら一緒に入ればいい」
泣き止んで離れようとした僕を、エルヴィン殿下はローブの中に引き寄せて入れた。殿下の前で泣いてしまったことも恥ずかしいし、殿下の体温を感じてドキドキしている今の状況も全部が恥ずかしい。
「誰にも言わないでください」
「何をだ?」
「僕が泣いたこと」
「フッ、ハルの涙は俺だけのものだ」
何を言っているのか。僕は真面目に話しているのに。また殿下はそんなことを言って僕を揶揄う。
「こんなことローゼに知られてはいけません。僕は殿下の婚約者であるローゼの兄です。今のは、義兄を哀れに思った殿下の優しさだと思うことにします」
「ハル……分かった。お前の言う通りでいいから、今だけ抱きしめさせろ」
さっきは包み込むように優しく抱きしめてくれたのに、今度は窒息しそうなくらいギュッと締め上げられた。
殿下は勝手だ。優しく手を差し伸べてくれると思ったら、こうして強引に僕の心を奪っていこうとする。
そういえば僕のヒロインとの仲を深めるイベントでは、屋上で僕とヒロインが会って、一緒に星を見るんだった。
『少し寒いので二人は寄り添って密着して仲を深めますの』妹はそんな風に言っていたっけ。
ローゼ、ヒロインの代わりに殿下がきたんだけど、それってどういう意味だと思う?
これはヒロインが来なくてよかったって思うべき?
いや、こんなこと誰にも言えない。特にローゼには絶対に言えない。
カタン
後方で何か音が鳴った。
「誰だ!」
エルヴィン殿下が低く圧のこもった声で尋ねると、女性のような声で「ヤバイ」「バレた?」なんて声が聞こえて、バタバタと階段を駆け下りていく音がした。女生徒二人だろうか?
こんな時間に生徒は起きていないと思っていた。僕も殿下も起きているんだから、他に起きている人がいてもおかしくない。どうしてこんなところで迂闊なことをしてしまったのか。
「殿下、どうしよう。誰かに見られた。どうしよう、だって、だって、こんなこと、どうしよう、ローゼに何て言えば……どうしたら……」
「ハル、落ち着け」
「でも、でも、どうしよう、どうしよう、明日になったら噂が広まって、それで、もうダメだ」
妹の耳に入ったら叱責どころじゃない。他の人の耳に入ってもそうだ。妹の婚約者と逢瀬を……
「ハル、ハル!」
殿下に言葉を発することができないほどにギュッと抱きしめられて、ようやく僕の口から出る言葉は止まった。
でも思考は止まらない。だってこんなこと誰かに見られたら……
「とにかく部屋に戻ります」
「あぁ、そうだな」
急に冷静になって、僕は心を無にして殿下を置き去りにして部屋に戻った。
ベッドに入ると布団を頭まで被って、やっぱり僕は眠れなかった。
朝が来るのが怖かった。すぐに噂は広まる。そして僕は妹からの信頼も親からの信頼も全て失うんだ。
そうなったら、もう騎士を諦めて神殿に身を寄せるしかないかもしれない。
そんなことをぐるぐると考えていた。
「ハルト、起きろ。朝食も食わないのか?」
「いらない」
布団の上からエルマーが話しかけてきたけど、僕はそれどころじゃなかった。生徒の前に出るのが怖くてたまらなかったんだ。
しばらくするとエルマーはまたやってきて、帰りの準備をしろと言った。
「ハルト、帰る準備はできてるのか?」
「もしかして僕は王都に強制送還ですか?」
「は? 何言ってる。全員帰る日だ」
そうだった。合宿は終わって今日は帰る日だ。昨日のことがあったから、それが教師にバレてとんでもないことをした僕を強制送還するのかと思ってしまったんだ。
みんなの目が怖い。あいつは聖人とか言われているが妹の婚約者に手を出したふしだらな男だ、なんて言われるのかと思うと怖くてたまらなかった。
「みんな何か僕のこと言ってた?」
「あぁ言っていた。自分の命も顧みず仲間を庇ったと噂になっていたぞ」
「それだけ?」
「そうだな。あとはさすが聖人とか言っている奴もいたな」
「それだけ?」
「そうだな。あとは可愛いと言われていたくらいか」
もしかして屋上でのことはバレていない? 暗闇にキャンドルの小さい灯りしかなかった。誰か人がいることはバレていたかもしれないけど、それが僕と殿下だとは分からなかったのかもしれない。
ようやく僕は布団から出ることができた。
「うーん、まぁ可愛いってのも当たりではあるな」
エルマーにマジマジと顔を見られながらそんなことを言われると、なんかものすごく恥ずかしい。
「僕は男だから可愛いより格好いいと言われたい」
「それは俺もだ」
その後、マルセルくんが僕の前に平伏して謝ってきたりはしたけど、本当に夜のことは誰も噂にしていなかった。
ようやく僕は息をすることができた。
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