第16話 未来の話
部屋には当事者の僕、父上と母上、ローゼとエルヴィン殿下がいる。その他にもうちのメイドと殿下についてきた近衛騎士が二名にクリスラー家の私兵も二名立っており、メイドは紅茶を各自に配ると部屋を出ていった。
ヘルマン兄さんは領地におり、カミル兄さんは騎士団に在籍しているため急に休んだりはできず、兄二人はここにはいない。
ちなみにカミル兄さんは無事一年間の騎士学校生活を終え、年明けからはマルセルくんの父が団長を務める第一騎士団の所属となった。
ローテーブルを挟んで父と母が並んで座っており、向かいにはなぜか僕を真ん中に右にエルヴィン殿下、左にローゼが座っている。しかも殿下は僕にピッタリと密着するように座っており、その左手は僕の膝の上にある。どう考えてもおかしいと思うけど、余計なことを言って話が進まないのもよくないと、僕は仕方なく黙ったままでいる。
「ハルトが大司教様に聖人と認められた件についてだが……」
父上が話し始めて、僕は初めて老齢の男が大司教ということを知った。僕は名乗ったのに、大司教様は名乗らなかった。僕に教える名前などないということか?
「ハルトはさっき聖職者になるつもりはないと言っていたが、未来永劫という意味か? それとも今はということか?」
父上が静かに尋ねた。教会での発言を咎めるわけでも呆れるわけでもなくただ純粋な疑問として聞いているのか、父上の表情からはこれといった感情が読み取れない。無といった感じだ。
しかし、この場にいる誰もが僕の回答に注目しており、物音一つ立ててはいけないといった暗黙の静寂が部屋の中の緊張感を高めている。ティーカップをソーサーに置く音すら立ててはいけないという空気のせいか、メイドが淹れた紅茶には誰も手をつけていない。
いつも薄っすらと笑みを浮かべて淑女の鑑のような母上までもが、扇子を閉じて膝の上に乗せ真剣な表情をしている。
思えば僕は、ローゼ以外に将来のことを話したことがなかった。ローゼに対しても、騎士に憧れているということを仄めかしただけで、明確な言葉で伝えたことはなかったかもしれない。
自身の中でこうしたいと決めていても、失敗する可能性もあるし挫折する可能性のあることを宣言するのは勇気がいる。とうとう告げる時が来たのだと少し緊張した。
「未来永劫とは言い切れません。僕は学園を卒業したらカミル兄さんのように騎士学校に進みたいと思っています。試験に受かる必要がありますが、試験に落ちても鍛錬を続けて次の年の合格を目指し、二十歳を過ぎるまでは試験に挑戦しようと思っています」
教会に『聖人』と認定されたことにより、僕を取り巻く環境は昨日までとは変わっていくだろう。入学式の日から変わり始めてはいたが、ここからは僕が望むかどうかにかかわらず、いい意味でも悪い意味でも変わっていく。
自分が発する一語一句が僕自身だけでなく、周りにも影響を与えることに怯みそうになりながら、慎重に言葉を選び自分の意思を伝えた。
「そうか。ではハルトは騎士を目指しているんだな。聖職者となり教会に身を置く他に、どこかの貴族に婿入りするか養子となる道もあるが、そのどちらも希望しないということだな?」
念のための確認という感じで父上は尋ねてきた。
「はい。現時点の僕の意思です。この先に何が起こるか分かりませんので、他の道を絶対に選ばないとは言い切れませんが、今は騎士以外の道を選ぶつもりはありません」
今までは心の中で漠然と考えていたが、言葉に出して宣言したことでぼんやりとしていた未来へ続く道は霧が晴れたようにはっきりと見えた。
いいんだよね? 僕は自分の目指す道を進んでもいいんだよね?
「ハル、もう既に王城へは知らせが届いているだろう。俺はハルの意思を大切にしたい。ハルの意思を無視してことを進めようとする輩が現れた場合には、俺が排除してやる」
今まで黙って話を聞いていた殿下が、僕の髪をいつものように撫で、優しい笑みを浮かべながら言った。そんな優しい顔を見るのは初めてで僕の心臓がトクンと鳴った。
え? そんなはずはない。そもそも殿下の発言はおかしい。
エルヴィン殿下が王子であるからか、他の者は特に疑問を持つような反応を見せてはいなかったけど、僕にとっては殿下の発言がとてもおかしいものに思えた。
殿下は妹の婚約者だ。僕に対してそこまでする必要はない。国内で唯一の聖人ということで、王族として僕を守るのであれば、「俺が排除してやる」などと発言はしないだろう。「国として保護するよう陛下に掛け合う」などという発言になるはずだ。
それをあたかも僕が婚約者で殿下が守るような発言は、失言になるのではないかと心配になった。
「これから、ハルトには多数の釣書が届くだろう。教会も積極的に関わってくるはずだ。そしてエルヴィン殿下はこう言って下さっているが、王家がどう出るか分からない。第二王女殿下や第三王女殿下の婚約を白紙に戻してハルトを婿にと言ってくるかもしれん」
僕は驚いた。釣書などは断ればいい、教会には少しは協力してもいい、だが王女との結婚は困る。もしそうなれば、妹の婚約話は白紙に戻る。同じ家から二人も王家に出すことはできないからだ。
僕は何も答えられなかった。そして他の誰も最適解を持ち合わせてはいなかった。
しばらくの沈黙の後、殿下が口を開いた。
「ハルが了承するなら、俺がハルを貰ってもいい」
「はい?」
難しい顔をして黙っていた皆が、驚きに目を見開いてエルヴィン殿下に注目した。当たり前だけど、その発言を最適だと思ったものは誰もいない。
護衛たちを含む殿下以外は皆、この発言の意図をはかりかねていた。
冗談なのか、それとも別の意図があるのか。妹と婚約しているのだから冗談でしかあり得ないのだが、殿下があまりにも堂々と言うものだから、分からなくなってしまったのだ。
「エルヴィン殿下、冗談ですよね?」
ここには近衛騎士もいるし、おかしな発言はやめてもらいたい。冗談であることは確認しておかなければならないと思ったため、僕は口を開いた。
妹の婚約者であり、ヒロインと恋に落ちるかもしれない殿下が、僕との結婚を仄めかすような発言をするとは思えなかった。
「今はそういうことにしておく」
自分の失言に気付いたのか、殿下は先ほどの発言をあっさりと撤回した。少し含みのある言い方ではあるが、おかしな発言を撤回してくれたことで、ようやく部屋の張り詰めた空気が和らいだ。
父上も母上もティーカップを手に取り、冷めてしまった紅茶で喉を潤している。ローゼもどこかホッとした様子で扇子で首元の辺りを仰いでいる。
最終的にこの場で決まったのは、届く釣書については僕が成人するまでは全て断るということ、教会からの依頼は内容によっては協力すること、王家からの結婚の話が持ち上がる場合はエルヴィン殿下が止めるということだった。
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