帰らずの崖
帰らずの崖。いかにも探してくださいといった風な名前のこの場所も、当然のごとく行方不明者の捜索はなされ、断崖の下も含めてなにひとつ成果を得られなかったらしい。もっとも崖下は、流れが不安定な滝つぼになっているからか、何年も後になって下流の川から人骨が出てきたなんて例もそれなりにあるらしくて、絶対にいないとは言いきれないみたいだけど。
「女将さんが行くって言ってたのを聞いたらしくてさ。考えてみれば、聞くからに怪しいとこだよね」
渡垣からもたらされた有力情報。行かないという選択はなかった。
早朝そこそこに民宿で軽い食事をとってすぐ、二人で帰らずの崖へと向かった。山登りに加えて森深い道は、太く長い枝が多く、葉もおおいに茂っていたためか、晴れの日であるにもかかわらず薄暗く不気味だった。
「なんか、ピクニックみたいで楽しいよね」
あたしとは対照的に、同行している金髪の女はやけに上機嫌だった。目的に近付いているという達成感がそうさせるのだろうか。とにもかくにも勢いにおされるに任せて着いていくしかなかった。
歩くこと三時間ほど。晴れ空の下、ようやく辿り着いたのは、切り立った崖の上だった。落下防止柵なんて上等なものはどこにもない。
はっきりいって崖の先端に近付くのを恐ろしいと思った。特別に高いところが苦手だと感じたことはなかったものの、生命の危機すら感じそうな場所ともなると話が変わってくるというかなんというか。
「どうしたの? 行こうよ」
対照的に隣にいる金髪の女性はこうした感情とは無縁みたいで、きょとんとした顔をこっちに向けて、先へ先へと促してくる。あたしは、そうですねと頷いたあと、覚悟を決めるべく唾を飲みこんだ。そうだ。待っていたってなにもみつからない。少しでも足がかりがあるんだったら、飛びこんでみるべきだ。
一歩一歩、確認するようにして進んでいく。その度に視界が揺れているみたいな錯覚を気のせいだと自分に言い聞かせる。そして、先んじた渡垣に遅れること数秒。崖の先端にたどり着いた。できるだけ足を滑らせるリスクを抑えようと重心を落とし座りこみながら、眼下の景色を眺める。
正面奥は、一面所狭しと背の高い木々が茂っていて、ここは山の中なのだとあらためて実感を深める。少しずつ手前へと視線をずらしていくと、大きな水たまりが現れた。正確には円形だから水溜まりに見えるだけで、その実態は山間の森を貫く川の始まりなのだろうと察することができた。
そして、更にその手前。地面に手を付けながら覗きこんだ真下では、崖の上部から水が勢いよく下へ下へと落ちていっている。滝というものを傍から見たことはあっても、間近かつこんな角度から観察したのは初めてで、どことなく厳かな気持ちになった。
そんな絶え間なく響く水の流れと落下の音を耳にしつつ、あたしは、帰らずの崖、という言葉を頭の中で転がす。ここにあの画家はやってきたのだと言う。なにを思ってやってきたのだろうか? こればかりはもう確かめる術はない。少なくとも、『永遠』には反映されていないように思える。だとすれば、なにを求めてここにやってきたのだろう。やはり、行方不明になった女を探しに来たのか? いや、そんな短絡的に考えていいのだろうか。崖を見下ろしながら、ああでもないこうでもないと頭を悩ませていたところで、不意に背中に手が置かれた。
「渡垣さん?」
どうしたんですか、と尋ねようとしたところで、グッと力が籠められる。痛い。
「ねぇ」
渡垣の声音は、なんの気もなしに発せられているようでいて、奥底に冷たさを孕んでいるように聞こえた。
「君はなんでこの村まで来たの?」
既に行きの車で投げかけられている質問だったから、答えるのは容易いはずだった。しかし、なにかがあたしを躊躇わせる。
「ごめんごめん。別に君の答えなんて求めてないんだ。もう、わかってるから」
背中にかかる圧迫感が強まる。胸が物理的に潰れる痛みとともに、はっきりとした害意を察した。
「渡垣、さん」
「君は、先輩にはっきりとした好意を持って、ここにやってきた。そうだよね」
突きつけられた言葉は、一概に否定しきれないもの。渡垣が想定しているかたちであるかどうかはともかくとして、あたしは生前の中条五羽に好意を持っていた。気になったというのは、そういうことだという自覚が、たしかにあった。
より強く体重が乗せられる。どうやら、今度は足蹴にされているらしかった。
「ごまかせると思った? 最初に会いにきた時から、薄らわかってたし、こうやって一緒に過ごしてて、ウチがわかんないわけないじゃん。馬鹿にしてるわけ?」
淡々とした声音の奥底にははっきりとした怒気が見え隠れしている。本気の怒りとはこういうものかと、竦みあがるほかなかったけど、黙ってたら黙ってたで、全部認めたことになってしまいかねないから、
「馬鹿になんて」
「してるよね。だから、先輩の秘密を独占しようって思って、一人で村に行く計画をたてた。そんなのウチが許すわけない」
歯ぎしりとともに何度も踏みつけられる。痛みと苦しさで咽そうになった。
「もっとも、感謝してないわけでもないよ。先輩をたぶらかした昔の女のことを知れたのは、君のおかげだし」
一転してほんの少しだけ楽しそうに笑う渡垣。一定しないテンションに、恐怖を覚えた。
「でも、それもここまでかな。もう君にやってもらいたいこともないし」
それってどういうことか、と聞こうとしたところで背中の上に跨られ、ずるずると体が崖の方に引きずられていくのがわかる。
「なにを」
「だから、君の役目は終わったから、それを労おうと思ってね」
「労いって」
「うん。だから、もう楽になっていいってこと」
目の前には大自然。今は顔だけが崖から飛び出てるが、もう少し押し出されたら、大自然に向けてこの身を投げ出すことは必至だった。
「渡垣さん、落ち着きましょう。自分のやってることを冷静に」
「わかってやってるんだよ」
低い声音が耳元でする。熱い吐息はなぜだかひどく冷たく感じられた。
「正直、君が生きてるのも耐え難いの。ウチ以外に、先輩のことを想う人なんて必要ないから」
駄目だ。死ぬ。押し寄せる危機感から逃れようと、
「仮にあたしが渡垣さんの言う通りの気持ちを中条さんに抱いているとして」
なんとか時間を稼ごうと口を動かす。
「だとすると、あたし以外にたくさんの人を楽にする必要がありますよね」
そうだ。中条五羽は有名人なのだから。
「あたしより熱心に中条さんを想っている人なんて、たくさんいるはずです。有名な画家なんですから、たくさんファンがいるでしょうし、プライベートでも親交のあって中には恋してる人だっているはず。だったら、渡垣さんはそういう人たちも楽にして回るんですか?」
そもそも、人を楽にしてしまう罪はとても重いんですから、それをたくさんなんて割に合いません。渡垣さんにはこれからの人生もあるんですから。頭の中に浮かんだ続きの言葉は、なかなかにいい線をいっている気がしていた。
「たしかに、そういう雑魚みたいな女をいちいち相手にしてたらキリがないね」
案の定、渡垣はどことなく楽しそうに同意を示した。やはり、この路線は間違っていなかったと、胸を撫でおろし、
「けど、とりあえずは君だけを楽にすれば、一段落かなって思ってる」
かけたところで、状況はまったく改善されていないらしいことを理解する。
「なん、で」
困惑の渦にいるあたしの問いに、女は、だって、と前置きをしてから、
「君、先輩にモデルにならないかって誘われたでしょ」
忌々し気に口にした。
「どこで、それを」
言ってから、しまったと思う。こころなしか、あたしを崖に追いやる力に乱暴さが増した気がした。
けれど、ぱっと思い出してみたかぎり、渡垣に、中条からモデルの誘いがあったことを口にした、覚えはない。言葉にしたのは、亡くなった日に会って話をしたところまでで、細かいところはぼかしたはずだった。
「言われなくてもなんとなくわかるって。そうじゃなきゃ、君はここまで入れこまなかった。間違いないよ」
確信に満ち溢れた言の葉に根拠らしい根拠はないらしい。そういうところまで、わかってしまうものなのかと、戦慄する。
あたしの背後にいる女は、っていうのは半分で、とクスリと笑ってから、
「仕事でもないのに、女が先輩と会話を交わしてる時点で、先輩の方が少なからず興味を持っているのはわかったから。だとすると、一番ありそうなのが、モデルにならないかって誘いだろうなって」
そう付け加えたあと、歯ぎしりをした。
「ウチはもうモデルをやらせてもらえてなかったのに、新しいモデルになれたかもしれない女なんて許せるわけがないんだよ」
だから、楽になってね、ずるずると体が崖の方へ滑らされていく。懸命にもがくけれど、体勢が悪すぎる上に、渡垣の腕力が強すぎて抵抗が意味をなさない。必死に喉を枯らして止めてください、と訴えるものの、
「けど君がいなくなると、先輩と同じところに送ることになるのかな。でも、君が同じ世界に生きているなんて耐え難いし、う~ん、どうしようかな」
ぶつぶつと呟く、背後にいる女の耳にはなにも入っていないらしかった。そして、あたしの体の胸辺りまでが崖から飛び出て、離されたらすぐにこの世からいなくなりそうだ、と体を震わしていると。
「そっか」
急に体を滑らしていた力と、覆いかぶさっていた物量が消える。なにがなんだかわからないまま、逆匍匐前進で体を引き戻して全速力崖から離れた。そして、息を切らしたところで、シャツを手早く脱いでいる渡垣を認めた。
脱衣はシャツだけに留まらず、ジーンズ、ブラジャー、パンティー、靴下と、あっという間に渡垣は裸になる。どこか、虚ろな目をした女は、虚空を見上げながら、
「簡単だったね」
最初からこうしてれば良かった。そう言って、背後に体重をかけるようにして倒れこんでいく。
声を出す暇なんてない。気が付けば渡垣はその場から姿を消してしまった。まるで、最初から誰もいなかったみたいに……
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