村人・佐川大地
「散らかってて悪いな。長らく、おれしか使わんから」
ほんの少しばつが悪そうな様子の佐川は、お盆に乗せたこれまた木製のコップ二つのうち、一つを差しだしてくる。中身は匂いと色合いからしてコーヒーみたいだ。
「砂糖とミルクはいるか?」
「いえ。お気遣い、ありがとうございます」
見た目に反して細やかな男だ。そんな感想を抱きつつも、受けとったコップを握り、黒い湖面を少しの間、眺める。
「どうした。虫でも入っとったか」
「いえ。綺麗だなって」
毒でも入ってるんじゃないか。頭の中に浮かんだ失礼な想像を打ち消したあと、数度息を吹きかける。波紋を残した水面を目にしながら、ゆっくりと口をつけた。苦く、それでいて独特のコクがあるようにな気がした。
佐川もまた、無表情でコップを傾けたあと、
「それで、なにが聞きたい?」
厳かに尋ねてきた。思わず唾を飲みこむ。
「さしあたっては、あの絵について心当たりがあることがあれば教えていただけるとありがたいです。わからないことがあれば、その度にまた質問させていただければ」
あたしの答えに、男は、そうか、とコーヒーを一口。
「どっから、話したもんか」
そう言ってから、自らのこめかみを拳で軽く数度小突いたあと、あたしにまっすぐ視線を向けた。
「まず、お前さんの見立て通り、おそらくあの絵が描かれたのはあの校庭で当たっとる」
「あたしがあそこに当たりを付けた理由って話しましたっけ?」
「話さんでもわかる。これ見よがしに絵まで見せてくれれば尚のことな。でだ。あそこはあいつが通っていた学校だから、舞台にちょうどいいって思ったんだろ」
言われてみれば、もっともな理由ではある。些細ではあるけど、あの画家の考えの一端に近づけたのだと、手応えを覚えた。佐川は、喜ぶのは早かないか、と呆れたように苦笑いしたあと、
「本題はここからだな」
そう応じたあと、一枚の写真を取りだした。あっ、と声が漏れる。
多くの小学生から幼稚園児と思しき子供たちが肩を組みあった集合写真。その中には中条五羽とおぼしき男の子もいる。けど、今、目を惹くのはそこではない。端の方に立つ、中学生くらいと思しき短髪の少女。赤いセーターに黄土色のジーンズという姿――というよりもその色合いは、あの絵の中にいる女と酷似していた。
「なっ。似てるだろ」
「たしかに。でも、服の色だけだったら」
「それはそうだ。けど、その服は姉ちゃんのお気に入りだったからな」
姉ちゃん? お気に入りだった? この二つの言葉は、中条夫妻の話で出てきた、よく一緒にいたお姉さんと繋がった。
「その写真に写ってる女は、
佐川由乃。それがおそらく、中条五羽の探していた人物。けれど。
「失礼ですが、お姉様は」
「二十年以上、行方不明。戸籍上は死亡扱いだな」
自虐的に笑う佐川に、どう言葉をかけていいかわからない。それに男は、気にせんでいい、と応じる。
「いなくなって二十年も経てばそっちの方が当たり前になるんだ。気にするようなことじゃないんだ」
男の言葉は、そのまま受けとっていいものではないような気がしたけど、今は自分のことだ、と頭を切り替える。
「もう一つ。お聞きしたいことがあります」
「言ってみろ。答えられるかはわからんが」
「ありがとうございます。では。一年ほど前、中条さんはあなたを訪ねましたか」
「ああ。画家になってたのは知ってたが、実際に目の前に現れてみると、昔と全く違ったな。なんて言うか、もっと普通のやつだったはずなんだがな」
佐川の物言いは、かつての五羽について語る中条夫妻の印象とも大分重なる。
「ふらっと里帰りしたとか言いやがるあいつに、画家ってのはいい気なもんだな、なんて軽口を叩きながら、酒を酌み交わした。ちょうど、おれも休みだったから、まあまあくだらないことをばっかり話したな。けどまあ、ガキの頃と同じではいられない。二十年も違うところに住んでたんだ。あいつは外の世界に染まっちまってるし、おれはおれで村の中しか知らん。だから、どうにも話を弾まなくて、ついつい思い出話ばっかりになってな」
不意に男は言葉をぶったぎった。疑問に思い、顔を上げれば、どこか苦し気な顔をしている。
「自然と姉ちゃんの話になった時、思い出したんだ。あいつとあいつのご両親が村を出る前に、あいつを思いきり詰ったことを。なんで、お前だけ帰ってきたんだとか。姉ちゃんを見殺しにしたんだとかな。ちゃあんと考えれば、あいつが悪くないことなんてわかるはずなんだ。むしろ、友だちが一人だけでも帰ってきてくれたことをありがたいと思うべきだったんだろうと。でも、あの頃のあいつは心を失っていた感じだったから、その苛立ちもあって、二人きりの時に、汚い言葉をいくつもいくつも、ゴミ箱に捨てるみたいに叩きつけたなってことを。そんなおれの過去の所業が甦ってきて、吐きそうになって、思い出したように、頭を下げて、あの時のことを詫びた。あいつが覚えてるかどうかもわからんのに。そしたら」
佐川の顔は真っ青だった。そんなに恐ろしいことが、起こったというんだろうか。
「あいつは薄く笑って、覚えて、ってはっきりと言った。でも、なんでか楽しそうで、薄気味悪かった。おれの気持ちをどこまでわかってんのかわかんなかったけど、あいつが耳元に唇を寄せてこんなことを言った。『お前の言葉は骨身に染みてる。だから、責任を果たしにきたんだ』なんて」
コーヒーを勢いよく飲みこんだ男は、大きく咽こんだあと、腕で口元を拭ったあと、
「『できれば、見つけたいって思ってるよ。俺も由乃ちゃんのことは好きだったから』。そんな本気かどうかもわからないことを言って、なんでもないみたいに酒を飲みはじめた。さっきまでの話なんてなかったみたいだった。けど、たしかにおれはあいつがはっきりと言ったことを知ってて。……その後のことはよく覚えてない。酒の味もしなかったし、あいつの話も右から左にすり抜けていってたし、気が付いたら朝じゃった。もう、なんもわからん」
一息に告げてからうなだれる佐川。その様子を眺めながら、あたしはさしあたって、中条五羽がなにを目的にしていたのかを知れたのだと実感を深めた。
だけど、まだだとも思う。まだまだ、知らなければならないことがあるのだと。
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