幕間・ある日
その日は快晴だった。
秋らしいと表現しても差し支えない高く見える青い空の下、中条五羽は街中を闊歩していた(渡垣まりんの証言を信じるのであれば、午前十時頃、ふらふらと家を出ていったらしい)。甚平姿の若い男というのが、比較的珍しいのもあって、多くの人間が目撃していた。なによりも、それなりに売れている画家という個人的な属性も手伝って、中には握手やらサインやらをしてもらおうとした者もいたらしかったが、無視されて突っ切られたらしい。そうした足どりの果てに近所の公園へとたどり着いた中条は、園内の中心にあたる噴水から少し離れたところにあるベンチに腰掛けた。
そして、隣にはあたしが座っていた。
その日は休みで、時間を持て余していたのもあって、近所の公園でひなたぼっことしゃれこんでいた。そうしながら、これから始まりそうな大学の祭りだとか、その先にある冬季の短い休みだとか、もっと近視眼的に翌日のあまり行きたくない西洋思想系の講義とかのことをぼんやり考えていた。だから、隣に年上の男が座りこまれておおいに戸惑った。許可くらいとれよ、と思ったけど、別にベンチはあたしのものでもなかったから、わざわざ言うほどのことでもないな、と飲みこんだ。
「あんた」
こうしたあたしの努力は、ぶしつけに話しかけてきた男によって突き崩される。
「絵のモデルにならないか」
いきなりの物言いに、
「なりません」
即答した。振り返れば、ほんの少しだけ頭に血が上っていたかもしれない。
「金はそれなりに出すぞ」
対する男もマイペースに話を振ってくる。こっちの気持ちなんて、少しも斟酌しないまま。
「あたしって、お金で買える女に見えます」
あたしはあたしで、対話する気なんてなくなっていたので、へらへらとしながら、蔑みの眼差しを向けた。その時、初めて見た男の顔の凛々しさや普段はあまり見ない服装に、なんとはなしに目を見張った。
「見えないな」
「そう思うんだったら」
「そういう女だから、描きたいって思ったんだよ」
さらさらと出てくる言葉に、こいつ手慣れているな、なんて感想を持った。一方で、なんだかわからなかったけど、おだてられて悪い気もしなかった。
「こんなふらっとじゃなくて、もっとしっかりと誘ってくれたら考えます」
だから、妥協案を示す。あたし自身もこの場合の、しっかりなんてなんにもわからなかったけど、今のままはなんとなく嫌だったから。男は残念そうに、そうか、と呟いたあと、
「久々に描きたくなったんだけどな」
そうぼそりと漏らした。
この時のあたしは、中条五羽の個人のことは知らなくとも、格好や言動から芸術家であるのは理解していたため、ほんの少し悪いことをしてしまったかもしれないなんていう気持ちを、いつの間にか持っていた。
「しっかりと誘ってくれればいいんですよ。そうしたら、明日にでも明後日にでも」
「そうだな。そういう機会もあったかもしれない」
既に頭を切り替えたと思しき男に、なぜだか断った方のあたしが後ろ髪を引かれはじめていた。とにもかくにも、人生初のモデルになる、という空気は既に失われはじめていた。
「おじさん」
「まだ、そこまで老けこんだつもりはないんだがな」
「じゃあ、お兄さん」
「苦しゅうない」
「お兄さんは、画家さんなんですか」
「まあな」
後ろ髪を引かれたから、というわけではないけども、なんとなくぽつぽつと言葉を交わしはじめた。今思えば、男の気がまた変わってくれればいいな、なんて下心が合ったような気がする。
どういうお仕事をしているのかとか、儲かるのかとか、最近の楽しみはなんだとか……興味本位な質問やどうでもいい話だったのもあって、大抵は中身がない話だった。けれど、休日の暇つぶしとしては悪くなかったし、なによりもあたし自身、男の人柄に惹かれはじめていた。だから、男が席を立った時も引き止めたかったけど、それ以上の武器を、所詮ただの小娘なあたしは持ち合わせていなかった。
「じゃあな」
「ええ。また。今度会ったら、描いてくださいね」
そんなお願いに男は薄く儚げに微笑んでから、無言でひらひらと手を振って、瞬く間に歩き去った。
それから三十分くらいひなたぼっこをしてから、近所のファミレスでスパゲティとドリンクバーのコーヒーを楽しんだあと、住んでいる下宿に帰宅した。いい休日だったなぁ、なんて思いながら、小さな古いテレビをつけっぱなしにしてぼんやり見ていた夜、画家の中条五羽が水死したというニュースを耳にした。自殺と思われる、とキャスターは告げた。
その時は名前なんて知らなかったけど、あたしの中で画家という言葉は、今日一番興味を惹くものになっていたので、すぐにひなたぼっこの時に隣にいた男が思い出された。そんなはずはないなんて思いも虚しく、現場があの公園の近くにある川であることがわかった。否定したくて、手元にあったスマホで中条五羽という名を検索してみれば、そのものずばり昼間にあった男の写真がでてきてしまい、息を詰まらせた。
なんで、という思いと、あたしのせいかもしれない、という無根拠な罪悪感が湧いた。そうしている間、つい数日前に見た現場の川に紅葉がたくさん落ちていたのを思い出し、そこに魚みたいな目をしている男の姿が頭に浮かんだ。
不覚かつ不謹慎にも、美しいなんて感想を持ってしまって、胸糞悪さから床を何度も殴りつけた。どうして、と何度も無意味に一人投げかけながら、ただただ時だけが過ぎ去っていき――
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