モデル・渡垣みらん

「最初に言っておくと、あの絵にウチは関わってないよ」 

 『永遠』について尋ねた際、彼のモデルをよく務めた、渡垣わたがきみらんは複雑な表情でそんな風に応じた。二十代後半にしてはどこか擦れた目でこちらを見つめつつ、長い足を交差させている。

「そんなの見りゃ一目瞭然でしょ。だってウチはヌードしかやってないんだし」

 面倒くさげに自らの長い金髪を掻きあげる渡垣の指摘は、一般が知りうる中条五羽の情報から照らし合わせれば的を射ていると言える。

 実際、渡垣みらんがモデルを務めていると推定される絵は、どことなく暗さを帯びた裸体のものばかりである。そして、中条の代表作の多くは、こうした黒に近い背景を持った渡垣を描いたものに集中していた。

「先輩の印象? いやまあ、無茶苦茶気難しいお兄ちゃん、みたいな。けっこう、些細なことを怒ったりするし、ウチともしょっちゅう喧嘩してたし」

 先輩という物言いから読みとれるように、渡垣は中条の高校の頃の後輩だった。

「付き合いの始まりは今でも覚えてるよ。いきなり肩をつかんできて、『脱いでくれないか』だもん。速攻で殴って追い返したよ」

 その頃からすでに、数限りない絵を描き、いくつかの賞もとっていた中条のお眼鏡にかなった――などという物言いをすれば、名誉なことに聞こえるが、いきなり話を持ちかけられれば、多くの人間が似たように応じるだろう。ましてや、年頃の女子高生である。だが、結局、渡垣は中条の願いを聞き入れた。

「なんでかっていえば……無茶苦茶頼まれたからかな。先輩、毎日、ウチのところに押しかけて来ては『どうしても君を描きたいんだ』って力説してきたし、時々ご飯奢ってくれたりもした。だから、先輩の情熱に絆されたんだ……なんて、綺麗に終われれば話は早いんだけど最後の決め手は、金だよ。今も昔も正当な対価だと思うけど、当時は喉から手が出るほどに金が欲しかったからね」

 ずっと物入りだったし。冗談めかして語った渡垣は、昔を懐かしむように、まあでも、とどこか遠くを見るような目をした。

「実際、先輩に口説かれた時点で人生が決まったところはあるかもね。今でこそ、他の仕事も入るようになったけど、高校とか大学は先輩の前で脱ぐのが仕事みたいな気がしてたよ。もちろん、先輩もモデル代とか画材代とか稼がなきゃならないから、絵である程度稼げるようになるまでは、バイトしまくってたね。なんか絵面だけ見るとキャバクラに貢ぐ男みたいだけど、そんなに間違ってないかも」

 必然、彼女は中条と時間をともにすることが多くなり、実質的な専属モデルだったのもあいまって、大学を卒業したあとは、同じく美大を出たばかりの先輩である画家と同居することを選んでいた。

「その方がなにかと効率が良かったしね。幸い、先輩はけっこう早くから認められてたから、お金払いも段々とよくなって、ウチとしてもホクホクだったし。あっちはあっちで四六時中絵のことばっかり考えているから、いつでもウチがいてくれた方が助かるみたいなことは言ってたかな。それ以外にも、まあ、色々あったけど……そこら辺はご想像に任せるよ」

 どこか蠱惑的に笑った渡垣に、ふと興味が湧いて、お金のためだけに脱いでいたのか、と尋ねてみれば、それは違うね、と断言された。

「最初はそうだったかもしれないね。それこそ先輩のこともただの変態かよって思ってたし。いや、変態なのは間違いないか。でも、なんていうかさ、こう一枚の布も纏わずに、あの視線に貫かれているとさ、段々と病みつきになっていくの。ウチそのものを見られている感じが、どうにもたまらなくなっていく。もちろん、信頼したパートナー相手だったからってのもあるけど、最後の方は、先輩に見られている瞬間が、ウチの生きている全てだってくらいになってた」

 だから、生き甲斐のために脱いでたってのが正確なところからな。そう断言する彼女の表情はとても誇らしげだった。

 そこから一転して、

「聞きたかったのは、あの絵のことだよね」

 本題に戻った際の渡垣の表情は、どこか寂し気だった。

「あれが描かれる少し前かな。ちょうど、涼しくなりはじめてようやく秋かぁ、みたいになってたところで、先輩、なんかふらっと旅に出ちゃって。たまの旅行にはけっこうウチも付いていったりしたんだけど、その時はずらせなくもない予定が入ってたのと、なんか先輩から付いてくんなオーラが出てたのもあってちょっと気後れしたんだよね。だから、さっびしいなって思ったりしながら、割とどうでもいい用事を済ませたあとは、家で一人の時間を持て余してた。そんで帰ってきたら、なんか先輩の顔つきが変わってて」

 いつになく鋭い顔つきをした中条は、一も二もなくアトリエに向かっていったという。

「出番だなって思って脱ごうとしたら、今回はいい、って言われて戸惑ったんだ。最初は静物画とか男か他の動物を描いたりするのかなって思ったりしたんだけど、そういう時の先輩ってあんまり燃えないんだよね。そこは断言できる。先輩は女を描くために生まれてきた画家だから。そういう時にウチがいらないって言われたのは初めてだった。正直……傷ついた」

 そして、最低限の食事と水分補給をこなす生活を繰り返した末に、『永遠』はこの世に解き放たれることになった。

「見れば一目でわかると思うけど、先輩のいつもの絵と違ってちょっと明るめじゃない。だけど、そういうのとは違う、深いところでウチは震えたの。ぱっと見だと、主題は真ん中の舞い上がった紅葉だけど、それは違くて。あの絵はね、端っこの女のためだけに描かれたの」

 裏切られた気分になった、と渡垣は顔を覆った。

「もちろん、頭では筋違いだってわかってる。先輩だってウチ以外の絵だって描くし、ウチもウチでこの頃になると先輩以外の仕事も受けてた。けど、心の奥ではずっと、ウチは先輩のものだって自覚があったし、先輩はウチを一番にしてくれてると思ってたから。だから、あの女を見た瞬間に、一番が入れ替わったのがわかった」

 彼女はその根拠に、以後、中条の前で脱ぐことはなくなった、と語った。

「結局、最後まで同居はしてたし、傍から見たら夫婦みたいに見えたかもしれない。でも、決定的に心は離れていた。ウチは置いてもらってただけだし、先輩は以前ほどウチに心を傾けなくなっていた。こんな状態で一緒にいても意味がないなって思って、いつか出ていこうって思ってもなかなか踏ん切りがつかないうちに、あんなことが起こって」

 顔を覆っていた両手をどけた彼女は赤くなった目をこちらに向けながら、

「あんな絵を描かなければ、先輩はあんな死に方をしなかったよ、絶対に。あたしにしとけば良かったのにね」

 絞り出すように告げて、ボロボロに泣き続けた。

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