異世界刀匠の魔剣製作ぐらし/荻原数馬

  <ナインズ・アロー>



 誰かを支配したいから力を得る。誰にも支配されたくないから力で抵抗する。人が力を求めるというのはある種、本能のようなものである。

 錬禁呪術と呼ばれる技術がある。武具に魔力を注ぎ呪文を刻んで強化する付呪術に対して、これは人や動物、魔物などの生命体に魔術付与を施すものであった。禁術を施された者は強大な筋力やあらゆる怪我を即座に治す再生力など、人知を超えた様々な能力を得る事が出来た。

 この技術を操る者たちは錬禁呪師と呼ばれている。

 禁術が精神影響を及ぼすのか、あるいは身の丈に合わぬ力を手にした者は増長してしまうものなのか、ヴァルシャイト王国内で彼らは様々な血なまぐさい事件を引き起こしてきた。

 王国内で錬禁呪師の恐ろしさが囁かれるようになると同時に、その力を求めて接触しようとする者も増えてきた。錬禁呪術に纏わる悲劇も多く耳にしているはずだが、自分だけは大丈夫だと誰もが根拠なき自信を持っているようであった。


「困ったもんだよなぁ……」

「はい、まったくです」


 エスターライヒ男爵領の端の端、とある田舎町の冒険者用酒場にて鍛冶屋ルッツと仮面の英雄サムライマスクがビールジョッキを傾けながら頷き合っていた。


「ただ今回は、力を求めながら力に飲み込まれなかったケースでして」

「魔術付与はしなかったって事か?」

「いえ、実際に錬禁呪師と接触して身体に魔術付与もしてもらったようです」

「……それで悪事に走る訳でもなく、普通に生活出来ているのか」


 身を乗り出して不思議そうに聞くルッツに、サムライマスクは小さく頷いてから語り出した。九本の矢をその身に刻んだ男の『伝説』について。


       ◆


 ある安宿の一室で、改造して露出を多くした修道服に身を包んだ美女、錬禁呪師ディアドラが大きくため息を吐いた。

 テーブルの上には砂粒と見紛うばかりの小さな宝石、正面には若い冒険者。彼はこれで自分を強くしてくれと依頼してきたのだ。

 その男、タリスはこの宝石で出来る範囲で構わないと言う。宝石と呼ぶ事すら詐欺に近い砂粒で何が出来るのか、ディアドラの方こそ教えてもらいたいくらいであった。銅貨一枚で料理を作ってくれと言われているような気分だ。量を減らせばよいという問題ではなく、手間賃だけで足が出る。

 また、少ない素材で人間を魔術強化すればどうなるかという実験は既にやった事がある。結果は正気を失い共食いを始める人間が生まれただけであった。

 タリスの提案はディアドラにとって、金銭的にも研究においても、何の役にも立たなかった。

 さらに言えばディアドラはもう人体実験などしたくはなかった。血の気の多い錬禁呪師たちの中で比較的穏やかな性格であり、王国内でも多くの人たちと関わりを持ちすぎてしまった。無計画に、好き勝手に強化魔獣や強化兵を増やしてしまえば彼らに迷惑がかる。そう思えば気が乗らなかった。

 無論、化け物と成り果ててしまった仲間を殺す方法を探すという使命を忘れた訳ではない。ただそれについては記憶喪失で行方不明になってしまった師を探す事に注力する事で貢献しようと考えていた。

 ……この話を受ける事に、メリットは何ひとつとしてないみたいね。

 お断りします、そう言おうとした寸前、タリスはテーブルに両手を付け、額をゴンと叩き付けた。


「頼む、俺に力を与えてくれ。このまま名もなき冒険者なんかで終わりたくはない、俺は俺の人生が欲しい!」


 それなら必死に努力をして強くなればいい。突き放そうとするディアドラであったが、ボロボロになったタリスの手を見て口を閉じた。

 あれは何度も疲労骨折を繰り返した痕だ。限界を越える為の努力ならば既にやっている、それでもなお越えられなかったのだろう。

 力を求めれば人はいつか壁に当たる。壁の厚さは人それぞれであり、努力を重ねていれば越えられるという保証はない。相手の事を何も知らずに、お前の努力が足りないのだと切って捨てるような真似は傲慢ではないかと思えた。

 ……まあ、いいか。

 何の得もない、むしろ赤字であるという点に何ら変わりはないが、壁に当たって悩む男の背を押してやるくらいはしてもいいだろうという気まぐれを起こしていた。

 ディアドラは鞄から筆と小さすぎて使い道のなかった宝石と、瓶詰めの血を取り出した。それは人間の生き血に様々な薬草を混ぜて防腐処理をしたものである。瓶を開けると狭い室内にむわっと悪臭が広がるが、ディアドラは構わず筆の先端を浸けた。

 テーブルに描かれる血の魔法陣。それは武具に魔術付与をするのとはまったく別系統のものであった。素人のタリスが見ても、どの文字が何を意味しているのかさっぱりわからなかった。


「中心に手を置いて」

「あ、ああ……」


 促されるまま、タリスは手の甲を上にしてテーブルに置いた。

 ディアドラは宝石を魔法陣の各所に配置し、奇妙な呪文を唱え始めた。血の魔法陣はぼんやりと光り出し、タリスの右手は炙られたように熱くなってきた。あまりの熱さ、不気味さに手を引っ込めようとするが、


「な、何だぁ!?」


 手が魔法陣にべったりと張り付いたように動かない。呪文の詠唱を続けるディアドラにジロリと睨まれ、タリスは抵抗を諦めた。自分で始めた事だ、もう何が起ころうとも受け入れるしかない。

 血の魔法陣から赤黒い靄が立ち上ぼり、手の甲へと吸い込まれていく。やがてタリスの眼前に閃光が走り、そのまま気を失った。

 気が付くと安宿の汚い天井を見上げていた。どうやら床の上に仰向けになって寝ていたらしい。

 身を起こし狭い室内をぐるりと見回すが、そこにディアドラの姿はなかった。テーブルの魔法陣も消えており、魔術付与をした痕跡が何も残っていなかった。


「夢、だったのだろうか……?」


 拳を握る、開くと繰り返す。手の甲に残る僅かな熱さだけが現実だったと教えてくれる。しかしそれも不安になるくらい、本当に僅かなものであった。



 戦争で荒れ果てたヘンケルス男爵領で冒険者が仕事に困る事はない。野盗が増えすぎて商人たちは護衛を付けねばまともに移動する事さえ出来ないのだ。

 ある日、タリスは護衛として商人の馬車に乗り込んでいた。幌なし馬車が五台、冒険者は各荷台にひとりずつ、なかなかの大所帯である。

 道路が荒れているせいか、乗り心地は酷いものであった。荷台から飛び降りて嘔吐する冒険者までいたほどである。

 タリスは周囲を見回し、手の甲を気にするという事を繰り返していた。魔術付与を施したあの日から何も変わっていない。騙されたのだろうかとも思ったが、その考えはすぐに否定した。

 ディアドラはタリスが用意した物の他にいくつも宝石を使っていた。そこでようやく小さな宝石ひとつでは話にならないのだと知り、申し訳ないやら恥ずかしいやらといった気分になったものだ。

 つまりディアドラにとってあの魔術付与はタリスの宝石を騙し盗るどころか、最初から赤字が確定しているのである。ならば一体何の目的で行い、何の効果があったのか、それがわからない。

 ガクンと大きく荷台が揺れて、タリスの思考は中断させられた。


「どうした?」

「道が倒木で塞がれていてねぇ。冒険者さん、あれを取り除いちゃくれねえかい」


 御者がうんざりとした口調で言うが、タリスは全く別の事を考えていた。これは野盗が馬車を足止めする時の常套手段だ。


「荷物の陰に隠れていろ」


 鋭く言い放つタリス。御者は表情を固くし、素直に荷台へと潜り込んだ。

 タリスが剣の鞘を掴んで馬車から飛び降りると、後続の四台からも次々と護衛の冒険者たちが降りてきた。


「うぉらぁ!」


 物陰に潜んでいた野盗たちが雄叫びをあげながら一斉に襲いかかって来た。

 矢を射かけられなかったのは幸運である。馬が傷付くのを嫌ったか、あるいは矢を用意するだけの金銭的余裕がなかったのか。なんとなく、後者のような気がした。野盗も冒険者も懐具合は似たようなものである。何故貧乏人同士で殺し合わねばならないのかと、タリスはうんざりとした気分になっていた。それはそれとして、黙って殺されてやる義理はない。


「死にさらせぇ!」


 目付きの悪い賊が斧を振り下ろす。遠慮の欠片もない、相手がどうなろうと知った事ではないという無慈悲な一撃。

 安物の剣で受ければ折れてしまうと、タリスは後ろに飛び退いてから反撃した。

 渾身の振り下ろしは斧で弾かれてしまった。これで決めるつもりだったのだが、当てが外れてしまったとタリスはぎこちない笑みを浮かべながら内心で舌打ちしていた。

 こいつは手練れだ、誰か加勢してくれないかと周囲を見回すが、どうやら仲間たちも野盗の相手で手一杯のようだ。

 ……どうする、どうすればいい?

 敵も自分を強敵と認めたか、互いに隙をうかがうが迂闊に飛び込めなかった。浴びせられるプレッシャーで疲労が蓄積し、全身が汗まみれになった。剣を持つ腕が重い、視界の端が黒い靄に包まれていく。

 このままでは戦わずして負けてしまう。誰か、誰か早く来てくれ。そう必死に願っていると、


「ぎゃああああッ!」


 悲鳴が街道に響き渡る。腕を斬られ逃げ出したのは、護衛の冒険者であった。

 ……馬鹿が!

 タリスは歯を食い縛ったまま心中で叫んだ。負けたから罵ったのではない。護衛対象を置いて逃げればもう誰からも信用されなくなる、このヘンケルス男爵領で彼に仕事を任せる者はいなくなるのだ。別の土地に逃げて、名前を変えてまたイチからやり直すのか。何の積み重ねもない人生を繰り返すのか。冒険者は信用が第一だと何故わからないのか。

 いつまでも他人の心配をしていられる場合ではない、パワーバランスは崩れてしまったのだ。フリーになった賊がこちらに来ればおしまいだ。

 精神的動揺を見抜かれたか、賊がニヤリと笑って斧を大きく振りかぶった。


「死んで、たまるかぁ!」


 タリスが剣を強く握り締め叫んだ瞬間、彼の右手が激しく輝き出した。手の甲に浮かび上がる紋章、扇状に広がる九本の線。

 何が起きたのかわからない、一瞬だけ野盗の思考が空白となった。その隙を逃さずタリスは剣を突き出した。剣先が野盗の喉を破り、鮮血が流れ出す。野盗は訳がわからないといった顔で前のめりに倒れ、土煙を巻き上げた。

 状況が理解出来ないのはタリスも同様だが、心当たりはなくもない。タリスは光り輝く右手を高く掲げて叫んだ。


「次に死にたい奴はかかってこい!」


 これで残りは四対四、勝負は五分。しかし野盗たちは顔を見合わせるとさっさと逃げ出してしまった。どうやらタリスが倒したのは彼らの頭領であるらしく、一番の実力者がやられたのでは勝ち目がないと判断したようだ。


「おいおい、アンタ凄いな。今の何だよ!?」


 全身傷だらけの冒険者が笑いながらタリスの背をバンと強く叩いた。依頼主の商人が荷台から降りて来て、タリスの顔を見ると深く頷いた。


「今日の一件は組合に報告させてもらう。もちろん、良い意味でだぞ」


 こうしてタリスは同業者や商人たちからの好意と信頼を得て、倒木を片付け馬車に乗り、嬉しいようなむず痒いような気分で次の街へと向かったのであった。



 自信を付けたタリスは次々と依頼をこなしていった。同業者たちからは『あいつと一緒にいれば任務が成功する』と言われ、依頼人たちからは『あの人に任せれば間違いない』と信頼されていた。

 他人から褒められる事、頼りにされる事がこんなにも気持ち良いものだとは知らなかった。

 宿の廊下を軋ませながらタリスは手の甲をじっと見つめた。今は何もないが、戦いの中で気合いをいれると紋章が浮かび、光り輝くのだ。その紋章はいつもタリスに勇気を与えてくれる。

 実績を重ねてきたタリスは同業者たちから『九本矢の男』、『ナインズ・アロー・タリス』などと呼ばれるようになった。異名を持つのは一流の証だ、そう思えばタリスの口元はだらしなく弛んでしまうのであった。

 タリスは鍵を開けて個室のドアを開けた。そう、鍵は掛かっていたのである。それなのに中には先客がいた。露出の多い修道服に身を包んだ妖艶な女性、ディアドラである。彼女はまるで自分の部屋であるかのように図々しく寛ぎ、本を読みながら紅茶を飲んでいた。


「……おい、どこから入った?」


 タリスが眉をひそめて聞くと、ディアドラは何でもない事のように応えた。


「窓が開いていたわ、不用心ね」


 ここは三階である。タリスはそれ以上追及する事を諦めた。常識が通じるような相手ではない。


「それで、一体何の用だ?」

「右手の調子はどうか、って聞きに来たのよ」


 よくぞ聞いてくれましたとばかりに、タリスは満面に笑みを浮かべて言った。


「絶好調さ。こいつを手に入れてから勝ちまくりモテまくり、人生バラ色だ」


 ガハハ、と豪快に笑うタリスの顔を、ディアドラは何とも言えぬ不思議そうな眼で眺めていた。


「……ま、喜んでもらえて何よりだわ」


 ディアドラは別に面白くもなければ興味もなさそうな声で言い、窓を開けて身を潜らせた。


「おいおい、何で窓なんだよ。ドアを開けて出て行けばいいじゃねえか」


 制止の声が聞こえなかったのか、それとも気にしていなかったのか。ディアドラは窓から飛び降りてしまった。タリスがすぐに窓から顔を出すが、ディアドラの姿は見付からなかった。



 それから数日後、タリスはまた護衛依頼を引き受けていた。数台の馬車が連なって鬱蒼と繁る森の中を進む。賊にせよ魔物にせよ、隠れる場所が多い危険地域だ。出来ればこんな所は通らないで欲しいのだが、商人には商人なりの事情も都合もあるのだろう。

 怪しい奴を見付けたら即座に対処しようと、タリスは眼を細めて周囲を警戒していた。

 ガクン、と馬車が揺れて止まった。

 馬車の前方を確かめる。このヘンケルス男爵領ではすっかりお馴染みとなったろくでもない光景、倒木による馬車の進路妨害だ。そして賊が現れる前触れでもある。

 タリスが剣を抜いて荷台から飛び降りるのと同時に、野盗たちが姿を見せた。その先頭にいるのは血のように赤い瞳をした男。戦時中に肉体改造された魔術強化兵の生き残りだ。

 凄まじい威圧感だ。そしてタリスは理解した、この男には勝てないという残酷な現実を。


「馬車と荷物を置いて逃げろ!」


 と、依頼主である商人たちに向けて叫んだ。


「あんたはどうするんだ!?」

「ここで奴らの足止めをする、早く行け!」


 タリスの必死な、そして悲痛な叫びに商人たちは無言で頷いた。賊から身を守る為にお前らを雇っているのだぞと叱りつけてやりたかったが、そんな事を言っている場合ではなさそうだ。誰かに責任を押し付けたところで状況が改善する訳ではない。

 商人たちと護衛の冒険者数名が倒木を乗り越え走り去った。

 赤い眼をした賊の頭領は少しだけ感心したように笑い、サッと右手を振り下ろした。賊の手下たちは酷薄な笑みを浮かべ、逃げた者たちを追いかけて行った。馬車や荷物だけでなく、命まで奪わねば気が済まないというのか。


「くっ……」


 タリスは賊たちを追いかけようかと迷うが、目の前にいる最も危険な男を放置しておく訳にはいかなかった。


「おめでとう、決死の覚悟が台無しだ」


 頭領の口調にはどこか暗い喜びが含まれているようであった。お前も俺と同じ、惨めな存在だ。そう言っているのだろうか。

 絶望で目の前が真っ暗になりそうだった。タリスは腹に力を込めて、なんとか踏ん張った。


「……問題ない、仲間たちが守ってくれる。そして俺もお前をさっさと倒して加勢に行く。それだけの話だ」

「それが無理だという事は、お前自身が一番よくわかっているだろう?」

「舐めるな、魔術強化されているのは貴様だけじゃないぞ」


 タリスが強く拳を握ると、手の甲が光り輝いた。浮かび上がる九本線の紋章、頭領はそれを見ても驚く事はなく、フンとつまらなさそうに鼻を鳴らした。


「そんな物にすがって生きているのか、くだらねえ」

「そう言うなよ、こいつのお陰で堕ちずに済んだ」


 頭領の眼がスッと細められ、剣を上段に振りかぶった。興味を失った、面白そうな奴だと思ったのが間違いだった、今はただタリスという男の存在が不愉快なだけであった。

 タリスの額を目掛けて真っ直ぐに落とされた剣、正面から受け止めたタリスの手がジィンと痺れた。恐ろしく速い、そして強い。タリスはたまらず後ろに下がるが、同じだけ頭領が踏み込み距離を詰める。


「さあどうした、どうしたどうしたッ! 俺を倒してお仲間を助けに行くんじゃあなかったのか!?」


 防戦一方である、まるで反撃の隙がない。いくらやる気と自信に満ち溢れていたとしても、やはり魔術強化兵と正面からやりあうのは無理があった。後悔している暇すらもない。

 頭領の攻撃を必死に捌いていたタリスであったが、やがて背に衝撃を受けた。どうやら木を背負ってしまったらしい。逃げ場を防がれてしまった。

 タリスは心臓に恐怖と緊張で鋭い痛みを感じていた。冒険者は死と隣り合わせの仕事である。それでいて自分だけは死なないと根拠のない自信を抱いていた。そんな思い込みが今、ハッキリと否定されてしまったのである。

 これで終わりだ。頭領が勝利を確信し剣を突き出そうとした瞬間、


「ぐあぁぁぁッ!」


 凄まじい叫び声を上げ、頭領は片眼を押さえてよろよろと後ろに下がった。指の隙間から、まるで赤眼が溶け出したかのように血が流れていた。

 一体何が起きたのか、タリスはまず頭領と距離を取ってから辺りを見回した。森の中から現れた女性、その特徴的な姿には見覚えがあった。改造修道服に身を包んだ錬禁呪師、ディアドラである。


「あらタリスさん、お久しぶり」


 道端でバッタリ出会ったかのような声で言うが、タリスはこれが偶然の出会いであるなどと全く信じていなかった。魔術付与を施された人間がどう動くのかと監視されていた、そう考えるのが自然であろう。

 タリスは怒るよりも先に安堵して叫んだ。


「ディアドラ、手伝ってくれ!」

「ふぅん、どっちを?」


 どちらを、という言葉の意味が理解出来なかった。

 ディアドラはまず頭領を指差し、次に街道の先を指差した。依頼人と仲間たちが逃げ、賊の部下たちが追いかけて行った先だ。事は一刻を争う、時間をかければ皆殺しにされてしまうかも知れない。

 俺を助けてくれ。タリスはそう叫びたくなるのを喉元で耐え、ぐっと右拳を握り締めて応えた。


「皆を頼む!」


 これでいいという爽やかな気持ちと、やってしまったという後悔が同時に湧き起こった。ディアドラは頷く暇すらも惜しいとばかりに駆け出した。そして木々が鬱蒼と茂る街道にタリスと頭領だけが残される。


「最後のチャンスを逃したな、馬鹿が!」


 頭領は呪詛の言葉を吐きながら右眼から何か細い物を強引に引き抜いた。どうやらそれは釘のようだ。ディアドラが指先で弾いて飛ばした物らしい。


「何も間違っちゃいない。片眼の潰れたお前を倒してハッピーエンドさ」

「この程度のハンデで対等になったつもりか!」


 頭領は怒りに任せ、剣を構えて突進した。タリスは呼吸を整えこれを迎え撃つ。頭領の言う通り、これで実力差が埋まったとは思えない。それでも自分で不思議に思うほどに落ち着いていた。

 剣を握る右手が、また強く光り出した。



「随分と派手にやられたみたいねぇ」


 のんびりとした女の声でタリスは眼を開いた。

 頭領の死体が転がっている。彼は切れ味の悪いナイフで首筋を強引に裂かれていた。カッと眼を見開いて、神を呪うかのように空を見上げている。

 木の根本に腰を下ろすタリスは腹を押さえていた。呼吸は不規則に乱れている。大きく抉られた腹からどす黒い血が流れ出して止まらない。もうすぐ死ぬのだという事が、自分でもハッキリとわかっていた。


「皆は、商人たちはどうした……?」

「ん、全員無事。もうすぐ戻って来るんじゃない?」


 タリスの前でしゃがんで目線を合わせる女、ディアドラは当然だとばかりに言った。汗ひとつかいていない、返り血も浴びていない。それでも彼女はやってくれたのだろうという信頼感があった。

 タリスは小さく笑った。依頼人たちは無事だった、それならば自分の命にも意味があったという事なのだろう。死にたくなどない、最善の結果ではない。それでも、ほんの少しの救いがあった。


「ねえタリスさん、貴方の紋章だけど……」

「知っている」

「んん?」


 タリスは飛び出しそうになる腸を押さえながら話を続けた。


「この紋章は興奮した時に光るだけで、他に何の効果もないのだろう」

「ふぅン……、何時から気付いてた?」

「仕事帰りに娼館へ行ったらピカピカ光って困った事がある」

「最悪のネタバレね……」


 まったくだ、とタリスは口元を歪めて頷いた。笑ったつもりなのだろう。


「ごめんなさいね、ぬか喜びさせちゃって」

「いいんだ、こいつのお陰で自分は特別な人間なんだって思い込む事が出来た。刻まれた紋章に相応しい戦士であろうと努力する事が出来た。あんたには感謝している」


 ディアドラは何も応えない。戸惑う瞳で死相の浮かぶタリスの顔をじっと眺めていた。


「なあディアドラ、ひとつ頼みがある。俺の代わりに依頼人たちが次の街に着くまで護衛を……」

「はぁ……。嫌よ、めんどい」


 ディアドラは本当に、本当に面倒臭そうにため息を吐いた。

 タリスは不快げに眉をひそめた。一方的な頼みであるとわかってはいたが、死を目前とした人間の頼みに対してため息で返すのはあまりにも酷い態度ではないか。


「気まぐれで引き受けた金にならない仕事で、さらに大赤字だっていうなら、ため息のひとつも出るでしょうに」


 そう言いながらディアドラは胸の谷間に細い指を突っ込み、白く輝く宝石を取り出した。何をするつもりだと聞くよりも早く、ディアドラはタリスの腹の傷口に宝石を捩じ込んだ。

 タリスの全身に凄まじい激痛が走る、まるで魂を直接ナイフで抉られたかのようだ。痛い、痛い、あまりにも痛すぎて叫び声すら上げられなかった。口を大きく開けたまま、手足がビクビクと震える。


「何、を……」


 ディアドラは質問に応えず、相変わらずむっつりとした顔をしている。タリスは必死に手を伸ばすがディアドラには届かず、視界が闇に包まれそのまま意識を失った。



「タリス、おいタリス! 起きているか、生きているか!?」


 身体を揺すられゆっくりと眼を開ける。どうやら天使というのは汚いひげ面をしているようだ。美術館の絵面が酷くなるのでこの説は発表しない方が良いだろう。


「おうタリス、こんな所で寝ていたら風邪ひくぞ」


 つまらない冗談を言っている男の顔には見覚えがあった。どうやらここは天国ではなく、当然彼も天使ではない。周囲を見渡すと商人たちと冒険者たちが戻ってきたようで、今は倒木の撤去を進めている。


「俺は、生きているのか……?」


 タリスは自分の腹をまさぐった。致命傷を受けた腹が綺麗に塞がっていた、それどころか痛みすらない。赤眼の野盗に腹を抉られたのが夢ではなかったかと思ってしまうほどであった。

 いや、あれは確かに現実だ。痛みが生々しい記憶として残っている。

 ならば何故生きているのか、それはディアドラが腹に突っ込んだ宝石が関係しているように思える。あれはきっと、錬禁呪術の秘宝であったのだろう。ディアドラが『赤字だ』と暗い声で言っていた事にも説明がつく。


「ところでタリス、あのどすけべシスターと知り合いか? いきなり出て来て野盗どもの首を全部へし折って、またすぐに去って行ったんだが……」

「いや、知らん」


 面倒な事になりそうなのでタリスは雑に誤魔化した。冒険者の男は納得した訳ではなさそうだが、しつこく聞こうとはしなかった。

 何故彼女は赤字覚悟で自分を助けてくれたのだろうか、それはわからない。

 ただ何となくこうも思うのだ。どちらに助太刀すれば良いかと聞かれ時、俺の身を優先しろと言っていたら助けてはくれなかったのではないかと。彼女は不機嫌であったのではなく、センチメンタルを優先して大損してしまう事をなるべく考えないようにしていたのではないか。そう思えてならない。

 刻まれた聖印は偽物であった。ただ、それを頼りに本物の英雄を目指すのも悪くない。


「もう大丈夫だ、俺も作業を手伝おう」


 タリスは微笑みながら立ち上がり、拳を軽く握った。

 手の甲に刻まれた九本の矢が、タリスの目指す道をを応援するかのように淡く光を放っていた。


       ◆


「ようサムライ、こんなところにいたか! お前の見た目は遠くからでもすぐにわかるから便利だな、そのうち観光名所にでもなるんじゃねえか?」


 ルッツとサムライマスクが囲むテーブルにひとりの男が笑いながら加わった。

 サムライマスクがコホンと小さく咳払いをして目配せし、そこで男はルッツの存在に気付いたようでペコリと頭を下げた。


「ルッツ様、こいつが噂の死に損ないです」

「ひでぇ紹介だな、事実だけど」


 と言ってその男、タリスは肩を揺すって笑い出した。


「ルッツ様、私たちはこれから魔物退治に向かうのですがご一緒にいかがですか?」


 サムライマスクの誘いにルッツは少し考えてから首を横に振った。


「俺は遠慮しておくよ。帰って刀を打ちたい気分だ」


 その馬鹿をよろしくな、という意味でルッツはタリスに向けて微笑みながら頷いた。タリスもサムライマスクからルッツの事は聞いていたのであろう、相棒が心から尊敬する男に深く、力強く頷き返した。右手に刻まれた九本線の痣が淡く光っている。偽りの力と本物の勇気、その証だ。

 マントを翻して酒場を出る英雄ふたり。ルッツはその背を、ジョッキを傾けながら眩しげに見送っていた。

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