第18話 試練の時と数人の救い---
文化祭も終わり、吹奏楽部のイベントもひと段落する。イベントのない時期は、実力を蓄える貴重な時間だ。
2年生は、気持ちがだれているようで、部活に出席しない人が増えてきた。
そんななか、須藤先輩は、用事がない限り出席し、パート練で私たちを指導してくれている。
このような状態の中で変わったのは、私をいじめていた百合だった。
彼女は文化祭での練習をみて、危機感を感じたらしい。
1年生のモチベーションが下がらないように、3年生になったら指揮者になる田中君に、気持ちが下がっていそうなメンバーに練習を見る様にお願いしたり、1年生だけで合奏練習(合奏にも基礎練があり、教則本を使いながら、テンポや音程を合わせたりする)をしてみようとか提案したりして、自分たちが3年生になった時に、実力が落ちないような活動を始めたのだ。
最初は疑心暗鬼だったみなも、百合に協力するようになった。
そんな日々を送っている中、いつも通り練習をしていると、突然音が出なくなった。
いつもと同じように吹いているのだけれど音が出ない。
練習は中断となり、私が呆然としていると、数人に声をかけられる。
「口の周りの筋肉に疲労がたまっていて、唇が振動しなくなっているんだ。(トランペット等、金属の楽器(フルートとサックスは除く)は、唇を振動させて音を出している)こうなったら、どうにもする事が出来ない。今日は、帰って休んだほうがいい。須藤先輩、帰らせてもいいですか?」
須藤先輩はうなずくと、
「疲労が原因なら、もちろん帰ったほうがよいわ」と、許可をくれた。
そんな須藤先輩と私を見ながら、数人は、いつもの涼しい顔ではなく厳しい顔で、
「俺もなったことがあるので、アドバイス出来ます。美佑、今日は帰ってなにもするな。辛いだろうけど、明々後日に部活に来てくれ」と、須藤先輩と私に声をかけた。
私は、数人と須藤先輩と健太郎の不安そうな目を見つつ、帰ることにした。
日は短くなったが、まだ明るいままの道を、重たい足取りで自転車をこぐ。
家に帰ると、鏡で唇を見ながら、指でなでた。いつもと変わらない唇を感じながら、いつも必死に練習しているのに、こんなことが起こるなんて。何を信じればよいのだろうかと、答えの出ない問いをずっと繰り返す。
気づけば鏡に映る顔には涙があふれていた。涙は止まらず、洗面台の淵を握りしめ、『どうして……』とつぶやくと、どうにもならない気持ちに支配される。それに抗う事が出来ず、悲鳴のような嗚咽をあげながら、鏡の前に崩れ落ち、号泣に変わる。そんな私を両親はなにも言わずにそっとしておいてくれた。
明々後日に部活に行くと、数人から、楽譜とカセットテープを渡された。そう、この時代には、音楽配信サービスなんてなかったから、今はほぼ絶滅状態のカセットテープが貴重な音源であるのだが。
数人は、このプレゼントの意味を、
「楽器を吹くだけが練習じゃない。美佑は多分、クラシック音楽なんて聴いたことがないだろうから、須藤先輩にも協力してもらって、色々な曲をカセットテープに入れた。この曲のうち、楽譜があるものは楽譜も用意した。今日は、これを持って帰って、よく聞いてみてくれ。音色、演奏する曲に合わせた吹き方や曲の表現とか自分の感じたことを、このカセットテープを聞きながら勉強するんだ。今後クラシック音楽を演奏するときのために耳を肥やしておくといい」
と、いつもの涼し気な顔に真剣さを混ぜて、説明をしてくれた。明々後日に部活に来いと言ったのは、この為だったのだ。
みなが気遣ってくれるのが嬉しい。でも、
「私、音がでるようになるのかな……」
と本音が口をついた。顔はうつむき髪が頬に落ちる。涙はこぼれる寸前だ。
そんな様子をみて数人は、
「すぐには難しいと思う。俺は1か月かかった。俺の時も、顧問の先生から焦るなと言われた。焦る気持ちはわかるけど、絶対に無理をするな。つぶれるぞ」
いつもの涼しい顔に、見守るような視線を加え、アドバイスしてくれる。
私の不安はおさまらないが、私の事を気遣ってくれた2人に、
「わかった。ありがとう。2人が教えてくれたことを頑張って練習するよ」
とお礼をいう。2人は『頑張れよ』と言うようにうなずいた。
こうして、私の辛い時間が始まる。
雅美は、この事を知り、すごく心配してくれた。
広末先輩が引退してからは一緒に帰っていたが、練習を休んで途中で帰ることになるので、雅美にはそう告げたのだ。
雅美は、同情ではなく、励ましの言葉をくれる。
「トランペットの事はよくわからないけど、増田君たちの言う通りにすれば、きっと大丈夫よ。焦らないで、辛かったら私にも相談してくれると嬉しいわ」
「心配してくれてありがとう。気にかけてもらえるだけでも嬉しいよ」
と、感謝の意を最大に込めて、お礼した。
「じゃ、私は帰るね。雅美は合奏頑張って」
「うん。頑張るわ」
百合も心配してくれた。前のような嫌味ではなく、純粋に『練習好きな美佑が練習できないのはつらいだろう』と思っての事だった。そんな百合にも深く感謝した。
いつもより、3時間近く早く帰る日々が続く。
裕子には事情を話した。
辛そうな顔をしているのが心配でほっとけないと言い、部活に行かない日は、私の気が紛れる様にケーキバイキングや、人気の喫茶店、雑貨屋さんに誘ってくれた。
裕子の気遣いに頭が上がらない。
雅美も時々、私の教室に遊びにきて。
部活の話ではなく、他愛のない話をして、裕子と同じように、気を紛らわせようとしてくれていた。
裕子と遊んだり、雅美と話したり、数人、健太郎、須藤先輩に言ってもらった事を実践していると、あっという間に日々が過ぎていく。
日がだんだん短くなっていくのを感じ、比例して焦りはだんだん強くなっていった。
「そろそろ、マウスピースで音が出せるか試してみようか」
数人が、音が出なくなってから1か月位たったころ、私に話しかけてくれた。
「ありがとう。わかった」
マウスピースを口につけ、恐る恐る音を出してみる。
頼りない音だが、音が出た。
私は嬉しさで、死んでいた目が復活する。
須藤先輩と健太郎が自分の事の様に、喜んでくれている。
数人は、涼しい顔のまま、
「音が出たから、もっと吹きたいと思うだろうが、今日はここまで。本調子になるまで、少しずつ根気強く続けていこう」と、アドバイスをくれた。
数人のアドバイスがなければ、今頃無理をしてつぶれていただろう。
感謝の気持ちをどの様に伝えればよいのか。言葉が見つからないまま、深い眼差しで数人の目を見つめ、
「数人、私を救ってくれてありがとう」とだけ、お礼を言う。
数人は、私に対し、音が出なくなってから初めての安堵した表情で、私の感謝を受けとってくれた。
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