第9話 お姫様抱っこ
蒸し暑い日が増えてきた。鬱陶しい梅雨の真っ只中に突入している。
湿った空気にテンションが下がる。だが、そんな事は言っていられない。
とうとう明日は定期演奏会本番だ。
ホールを使って、リハーサルを行う。
梅雨の鬱陶しい空気はホールの中までは入ってこない。
ホールは独特な雰囲気で、音が広く響き渡る。天井が高い場所の空間という感じが当てはまるかもしれない。私はやはりホールの空気が好きだ。自ずと襟を正す。
舞台に乗らないメンバーは、舞台袖で待機だ。
ホールで聞く音は、音楽室での練習とは異なり、響き渡っている。
音が響くとうまくなったように感じるため、音が響かないよう、防音壁に囲まれた音楽室に、さらに毛布をひいている徹底ぶりで響かなかった音が、息苦しさから解放されたかの様だ。
来年はすべての曲を吹きたいな、と、舞台の照明でキラキラ光っているみなをみて、思いをはせる。
2部のリハーサルが始まった。
2部は私も演奏するのだが、いつもと違うのは、派手な照明の演出がある、という事だ。
激しく照明が変わる中で楽器を吹いたことがなかった私は、車酔いのようになってしまった。
自分の出番が終わり、立ちかけたところ、立ち眩みをおこす。
そんな私を、健太郎が素早く抱き留め、お姫様だっこをした。
「け、け、健太郎?」
あまりの事に、なにが起こっているのかわからなくなる。健太郎は意にも介さず、
「ロビーで休めるところを探して、横にさせます。佐久先輩、構いませんよね?」と了承を得る。
「おう、そうしてやってくれ」
「ありがとうございます。美佑、休めるところまで行こう」
女子の、『キャーキャー』と言う声が聞こえる。本来なら、赤面する場面だろうが、世界がぐるぐる回っている私は、健太郎に抱きかかれたまま、ロビーまで連れて行ってもらった。
この時、数人(すうと)が心配そうな顔をしているのに気付く事は出来ない。
ソファーに私を横たえると、なんと健太郎が膝を貸してくれる。要するに膝枕だ。
「健太郎、私普通に横たわっても大丈夫だよ」流石に頬に熱が上がってくる
「気にしないで。妹が具合悪いときはこうしてあげているんだ」
妹は何歳なのだろう、と気にはなったが、辛いので、健太郎の膝枕は凄く楽になる。
でも、胸の奥にこみ上げてくる温かさに戸惑い彼の顔を見る事が出来ない。
しばらくすると、健太郎が、
「佐久先輩に、美佑の帰宅の許可をもらってくる」と言って、ステージの方に戻った。
帰ってきた健太郎は、
「須田さんから、美佑の鞄はどれか聞いて持ってきたよ。楽器は僕が片付けておくから、今日はこのまま帰宅して」と、完璧な手際で、私に帰宅するように促す。
健太郎と共に、佐久先輩と岩沢先輩もやってきて、
「明日は本番だから、今日は帰宅して休め。みな心配しているが、石原の負担になりそうだからここに来るのは控えてもらっている」
と、2人とも、心配そうに私を覗き込みながら、気を遣ってくれた。
私はなんとか、
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。明日までに良くなるようにします。心配してくれるみなによろしくお伝えください」
とだけ伝えた。
幾分顔色が戻ったのだろう。3人は、安心した様子で合奏に戻っていた。
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とうとう、本番の日だ。
昨日とは違い、舞台の上では、みな緊張した様子で幕が上がるのをまっている。研ぎ澄まされた空気が肺を満たした。
幕があがった。
舞台袖から客席を見ると、満席で、立ち見客もいる。
そんな中、演奏するのかと思うと、緊張が走った。
鼓動が激しく、心臓が爆発してしまいそうだ。緊張が解けないまま、私の出番がやってくる。
舞台に上がると、不思議と緊張よりも高揚感が湧いてきた。
健太郎が『大丈夫だから』という視線を送ってくれる。
広末先輩のドラムで曲がはじまった。スポットライトを浴びている先輩はやはりかっこいい。
私の吹く個所がやってくる。そしていつも通りの演奏ができたかどうかもわからないうちに終わってしまった。
初めての演奏会で味わった高揚感は特別で、一生忘れられない。この後、色々な演奏会に参加する事になるのだが、やはり本番となると、この時の事を思い出すのだ。
3部の『ローマの祭り』を華やかに奏で、アンコールにもしっかり応えた演奏会も無事終わった。後片付けをしていると、健太郎に声をかけられる。
「演奏会って、いいものだよね。楽しめた?」
「なにがなんだかよくわからないうちに終わっちゃったよ。楽しかったと言えば楽しかったのかもしれない」
感想になっていない感想が口から出た。
「そっか。僕も最初の時はそうだったような気がする」
ちょっと疲れた顔で、そう答えてくれる。
「片付けが終わったら、学校で打ち上げだから、それまで頑張ろう」
気を奮い立たせるように健太郎が付け加えた。そう、まだ本当の意味では演奏会は終わっていないのだ。
打ち上げは、学校のセミナーハウスで行われる。
うちの高校には、愛校心が強い先輩方々からの援助があるため、広大な敷地に私立高校並みの施設が揃っている。その施設の中で、セミナーハウスとは80名の部員も収容できる大きな合宿所だ。
マネージャ、そう、吹奏楽部なのにマネージャがいるのだ。弱小中出身の私は、その話を聞いた時、かなりびっくりしたのだが。で、そのマネージャが作ってくれたカレーを食べるのが毎年の打ち上げだと聞いている。
おいしいカレーを、と冷房が効いたセミナーハウスの食堂にパートごとに座ると、佐久先輩がにやにやしている。
そう、佐久先輩はいたずら好きなのだ……
トランペットパートメンバーのカレーには、どこからともなくあらわれたマーブルチョコとタバスコが盛り付けられた。佐久先輩のカレー以外全員のカレーに、である。
「残すなよ」
佐久先輩がいたって真面目な顔でそう告げた。
須藤先輩がげんなりした顔で、私にこっそり、
「私は来年、こんな事はしないから安心して」と。
須藤先輩は3年生引退後、パートリーダーになる事が決まっている。
おいしかったはずのカレーは、とても食べられるものではなく変身してしまったが、なんとか完食する事ができた。このカレーの味は、カレーを食べる時、ちょいちょい思い出す事となり、色々な意味で忘れられない出来事の一つとなっている。
打ち上げも終わり、いつも通りに岩沢先輩と自動販売機の前で話をし始めた。
私は、演奏会が終わって疲れていると思われる先輩に声をかける。
「先輩、本当にお疲れ様でした。最後の演奏会、どうでしたか?」
「あっという間に終わってしまったな。でも3年目にもなると、ゆとりも出てきて、楽しめたよ」
興奮がおさまらない様子で、感想を言ってくれる。『やり遂げた』という表情が、本当に高校最後の演奏会に向けて頑張ってきた事を表していた。
ちょっと照れ臭そうになった先輩は、いつものいたずらっ子の顔になり、
「明日も朝練があるから、遅刻しないようにね」と茶化してきた。
私は朝が弱いことを先輩に話したのだ。
「はい。今日の疲れを明日に持ち越さないように頑張ります」
「その意気で。じゃまた明日」
心地よい疲労を感じながら、帰路についた。
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