第8話 笑った。笑わない人なのに

春がそろそろ終わりを告げるべく、初夏の日が増えてきた。

廊下の窓を開け、心地よい風がカーテンを揺らしているのを感じながら、基礎練習を行っていると、須藤先輩ではなく、佐久先輩が楽譜と教則本をもって私のもとを訪れた。

練習のことで話しかけられたのは初めてで、いつになく緊張する。

先輩は、廊下に置いてある椅子を反対側にして、背もたれに肘をつきながら私の対面に座り、説明を始めた。

「定期演奏会に一曲だけ乗ってもらう。これはその楽譜だ。3日後にその曲の合奏練習があるから、それまでに吹けるように練習しておいてくれ。テンポの速い曲だから、メトロノームを楽譜に書いてあるテンポに設定して吹けるように」

今年はあきらめていた。なのに、一曲だけでも、定期演奏会で曲が吹ける。

嬉しさのあまり、フリーズしてしまった。否が応でも気持ちが昂り、上気した顔は、赤くなっているだろう。

「気負う必要はないぞ。いつも通りに練習していれば、必ず吹ける曲だ」

「はい!ありがとうございます。今年の定期演奏会は出られないと思っていたので、すごく嬉しいです」

「おう。あと教則本を持ってきた。付箋を貼ってある部分を吹けるように練習してみてくれ。この教則本が吹けるようになれば、実力がついてきた証拠になるぞ。あと、指を速く動かす練習をする楽譜も持ってきた。これはゆっくりとしたテンポでメトロノームを設定してから、徐々に速くするようにしてみてくれ」

「わかりました。練習します!」

「その意気で頑張れ」

激励の言葉を残しつつ、佐久先輩は合奏練習に向かう。



合奏の休憩時間となったようだ。

健太郎が私の所にやってきて、

「美佑、定期演奏会に出られるんだってね。頑張ったかいがあったと思うよ。これからも頑張れ」

と激励の言葉と、合奏に向けての練習についてアドバイスをしてくれた。

「ありがとう、健太郎。健太郎に教えてもらっていると、気付くことが多くて、練習に熱が入るよ」そんな彼に、安堵と同時に嬉しさを覚えながら、お礼をいう。

「困ったらいつでも聞いて」

休憩が終わった健太郎は、いつもの眩しい笑顔で合奏に戻り、私は朗らかな彼が無性にまぶしく感じられ、目を細める。


基礎練習と佐久先輩から言われた練習をしていると、3日なんてあっという間にすぎてしまった。


とうとう、念願の合奏に参加できる。


曲はメトロノームに合わせて吹けるようになったが、以前須藤先輩から言われた、耳でのチューニング(音程あわせ)ができていない状態だ。自分の音と聞き合わせても、合っているかどうかわからないのだ。

音楽準備室で合奏前のチューニングが始まった。合奏前のチューニングは楽器ごとに事前に行うことになっている。須藤先輩に音が聞き分けられないと相談していたので、音が高くてあっていないのか、低くてあっていないのか教えてもらうことになっていた。

チューニングのために楽器を吹いていたら、数人(すうと)がおもむろに、私のベルの前でうちわをあおいだ。

窓もない、エアコンもない音楽室では、早々にうちわの出番が増えてきている。

そんな数人の行動に、私も周りもきょとんとしていると、

「これが、チューニングがあっていないときの音。うちわにあわせて、音がうねっているだろう?」

「このなみが聞こえているうちは、音があっていない」

すると、今度は、速くうちわをあおぐ。

「なみの間隔が短くなっただろ?これが自分の音が基準音より高いときに聞こえるなみだ」

今度はゆっくり。

「これは低いとき。わかったか?」

「なんとなくは、わかった」

「そうか。それはよかった」

と、数人が、あはは、と笑った。

彼の笑顔に、私はびっくりしたが、パートのみなもびっくりしている。もちろん健太郎も。なんなら佐久先輩もだ。

みなをびっくりさせた数人は、涼しい顔に戻り音楽室へ入っていった。


合奏が始まる。

「起立」「礼」「「「よろしくお願いします」」」「着席」

森先輩の掛け声で、指揮者の先輩へ礼をした。

私が吹く曲は、『sing sing sing』というビックバンド形態で演奏されるjazzである。こじゃれた喫茶店、そう当時はカフェなんて素敵な呼び方はなく、で、流れている落ち着いた曲のjazzではなく、ビックバンド形式のjazzはにぎやかな曲だ。

ドラムソロから曲が始まる。ドラムを叩いているのは、雅美と一緒の中学出身の3年生、広末達也先輩だ。普段は落ち着いた感じの人だが、ドラムを叩かせると右にでるものはいなく、その実力をみなに示している。須藤先輩はお嬢様の様な見た目に反した音で吹いているし、雅美もそんな感じだから、健太郎は別として、八谷中学の人はそうなのかな?と思ってしまう。

心地よいドラムのビートを聞いていると、早速出番だ。高校初めての合奏に興奮してくる。

緊張しつつも、練習したかいがあって、注意されずに済んだ。大きな音の中で楽器を吹くことができるか心配もあったが、杞憂に終わる。

途中、先輩方のかっこいいソロも入り、曲が終わった。私もいつかソロが吹ける様になりたいが、いつになったら叶うのだろうか。

「起立」「礼」「「「ありがとうございました」」」「着席」

森先輩の掛け声で合奏が終わった。

合奏が終わっても、興奮状態だ。部長挨拶で部活が終了するまで、落ち着くことはできなかった。


今日ももちろん居残り練習だ。基礎練習の続きと、本日の合奏で指揮者から指示があったとろのおさらいをする。

居残り練習は、廊下ではなく音楽室で行う事にしていた。合奏が終わった後の音楽室は、いつも熱気がこもり、汗で制服が肌にはりつく。本格的な夏を迎えるとどうなってしまうのか不安だ。

このように、必ず居残り練をし、基礎練習に励んでいる私を見て、『石原はひたむきに練習に打ち込んでいるので1曲だけ演奏させようと思う』と佐久先輩が言っていた、と岩沢先輩が教えてくれた。

弱小中学出身だと、1年目の定期演奏会に出ることができない人も多い。そんな中で私が1曲でも吹かしてもらえるのは、いい評価をしてくれたからなのだなと。

もっと練習に励まなければ。

しんどい毎日だが、自分の心にそう誓った。

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